綻び

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 夕暮れの街角で足早に行き交う人の姿を見るとはなしに眺めながら、葵は大きなため息をついていた。ここはパンテノンという街の、食材店が立ち並ぶファーストストリート。いい思い出も悪い思い出もあるこの街を訪れたのは、同じアパートに住んでいるアッシュという青年に連れられて食材の買い出しに来たからだ。一ヶ月ほど前、葵はこの街でとてつもなく苦い経験をした。しかしため息の原因は、それではない。過去を振り返る余裕もないほどに彼女は今、目の前の問題に思い悩まされているのだった。

 大空の庭シエル・ガーデンでキリルが暴れた後、ハーヴェイは弟にかけた魔法を解く代わりにと、ある条件を出してきた。その条件というのが『夏月かげつ期最後の日にトリニスタン魔法学園で執り行われる式典に、アルヴァが公的に参加する』という、キリルが自由になることを望んでいるマジスターにはまったくもって関わりのない内容だったのだ。ハーヴェイが葵に向かって条件を話したため、葵はその後、アルヴァという人物を知らないオリヴァーからあれこれと質問をされる羽目になった。挙句には自分で頼みに行くからアルヴァという人を紹介してくれとまで言われ、困ってしまったのがつい先程の出来事だった。

 オリヴァーの誠実さも、それに応えようとしたキリルが尋常ではない努力をしたことも目の当たりにしている葵は、出来ることならば彼らの力になってやりたいと思っていた。そのため、とりあえず結論を保留にして保健室へと向かったのだが案の定、アルヴァの反応は実に素っ気ないものだった。しかし交渉がうまくいかなかったことを報告しても、オリヴァーは諦めなかったのだ。友人のために必死になっているオリヴァーの頼みを断りきることが出来ず、葵はまたアルヴァの説得に向かうことを約束してしまった。それが彼女の深すぎるため息の原因である。

(でもなぁ……アルが表に出るとは思えないんだよね)

 人嫌いというわけではないのだろうが、アルヴァは異様なほど他人との接触を避けたがる。特に学園ではそれが顕著で、彼は校医の仕事ですら代理として保健室に常駐させているウサギにやらせているのだ。そんな彼が学園の行事に表立って出席するなど、まず有り得ない。

「何かあった?」

 幾度目かのため息に反応が返ってきてしまったため、我に返った葵は隣にいるアッシュを振り向いた。彼はアルヴァを知ってはいるが、トリニスタン魔法学園とは無関係の人物である。伏せ字でなら相談してみてもいいかもしれないと思った葵は誰の名前も出さず、自分が今置かれている状況を何とかアッシュに説明してみた。

「その友達のために頑張ってる人、すごくいい人なんだ」

 オリヴァーには以前、飢えていたところを助けてもらっただけでなく風呂の世話まで焼いてもらったことがある。その一件を除いても、いつもあれこれと気を回してくれたのはマジスターの中ではオリヴァーだけだった。葵がそうした過去を説明すると、アッシュが不意に顔を曇らせた。

「バスの、世話?」

「あ、違う。変な意味じゃないから!」

 引っかかったのはそこかと、葵は慌ててその状況に至るまでの事情を詳しく説明した。使用人が急にいなくなったからという理由に納得がいったらしく、アッシュはホッとしたように息を吐く。

「その『いい人』って貴族だろ?」

「え? ……たぶん、そうかな」

 未だに貴族というものがよく分かっていない葵は曖昧な答え方をしたのだが、問いかけたアッシュ自身はオリヴァーが貴族であることを確信している口ぶりで言葉を重ねた。

「友人のために自分を犠牲に出来る精神は立派だよ。爵位継承者じゃないとはいえ、特に保守的な貴族がそれをやってのけたというのは賞賛に値すると思う」

 アッシュの物言いはまるで、貴族がどういった存在なのかを熟知しているかのようだった。口調も表情もいつものアッシュとはどこか違ったため、葵は驚きと少しの不審を抱いて首を傾げる。

「詳しいね?」

 葵がポロリと零した一言に、アッシュは過剰な反応を示してみせた。その辺りのことはあまり、尋ねられたくないことだったのだろう。異変に気がついた葵が謝罪を口にするよりも先にアッシュは自ら話題を変えた。

「どうにもならないことはあるけど、アオイは自分の気持ちを大切にすればいいと思う」

「……そうだね」

 どれだけ働きかけてみたところで、アルヴァの気持ちが変わるとは思えない。だが諦めずに彼を説得してみることが、葵がオリヴァーのために出来る唯一のことだろう。とにかく動いてみようと決めたことで、この件に関しては迷いがなくなった。しかし先程のアッシュの狼狽ぶりが、葵の心に新たな翳りを生み出していた。

(どうにもならないこと……)

 すでにアッシュの表情は平素の彼に戻っているが、その一言を口にした時、彼の顔には確かな影が落ちていた。その原因はアッシュが語りたがらない、彼の過去にあるのだろう。アッシュにも何か事情があることは初めから分かっていたが、葵は今さらながらに隠し事をされる寂しさを感じていた。

(私だって隠し事だらけじゃん)

 お互い様だと思うことでチクリと胸を刺した痛みを無視しようとした葵はふと、泳がせた視線の先に信じられないものを見つけて瞠目した。買い物客で賑わっている雑踏の中、葵の目に止まったのは質素な格好をしている少年と少女。同じ髪色と瞳の色を持つ彼らは恋人同士ではなく、この街のフィフスストリートに小さな店を構える兄妹だ。

 不本意な別れを経験するまで、葵はこの兄妹と親しくしていた。だがもう、彼らと共有した和やかな時間が戻って来ることは二度とない。彼らが今もなお街中で笑い合っていられるのは、そこに葵という存在がないからなのだ。残酷な現実を改めて見せ付けられた時、葵は子供のように声を上げて泣き出したい衝動に駆られてしまった。

「アオイ?」

 アッシュの声が聞こえたが、葵には彼の顔を見ることが出来なかった。俯いたら涙が零れてしまったため、進行方向を変えた葵は人気のない小道へと逃げ込む。すぐにアッシュも後を追って来て、彼の手が肩に触れた。

「どうしたんだ、急に?」

「う、うう……」

 何でもないと言うために開いた唇から零れたのは嗚咽だった。もうどうにもならなくて、葵は手で顔を覆って泣き始める。唐突すぎる事態にアッシュは困惑していたようだったが、やがて彼は包み込むように肩を震わせている葵の体を抱きしめた。

 ひとしきり泣いてしまうと、少しスッキリした気分になった。縋りついていた腕を緩めてアッシュから体を離した葵は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭ってから彼を振り返る。しかしアッシュの顔を直視することは出来なくて、目は伏せたまま口火を切った。

「ごめん。ありがと」

「それはいいけど……大丈夫か?」

「うん……もう、平気」

 瞼を下ろすと、つい今しがたの光景が蘇ってくる。雑踏の中で、あの兄妹は何事もなかったように笑っていた。彼らと共に笑い合った幸せな日々をちゃんと思い出に変えるために、葵はぽつりぽつりと涙の理由を語り出す。葵が話を終えると、アッシュは再び彼女の体を引き寄せた。

「話してくれて、ありがとう」

 耳元で聞こえたアッシュの声は優しさに満ちていた。肌を伝う彼の温もりを心地好く感じた葵はアッシュの腕の中で眠るように目を閉じる。しかし瞼にキスが落ちてきたことにより、驚いた葵はすぐに目を開けた。少し体を離したアッシュは葵の手を掴まえたまま、照れくさそうに視線を外してから言葉を次ぐ。

「今朝、クレアに言われたんだ。気持ちはちゃんと言葉にしないと伝わらないって」

 言葉にしなければ気持ちは伝わらない。それは昨夜、葵がクレアに言った科白そのままだった。昨夜の恋愛談義がアッシュに筒抜けになっていることを知った葵は赤面し、口の軽いクレアを恨みたい気分で目を伏せる。

(あのお喋り!)

 葵はそう憤ったのだがアッシュにとってはクレアの『お喋り』が助言となったらしく、彼はこうして買物を口実に葵を誘い出したらしい。そんな話を本人の口から聞かされればますます気恥ずかしく、葵はさらに赤面してしまった。

「オレと付き合ってくれないか?」

 アッシュに思いを告げられた時、葵の脳裏には一瞬にして様々な考えがよぎった。それは葵がこの世界の者ではないが故の葛藤であり、今までにも幾度か直面してきた問題である。しかしこの世界での滞在が長引くほどに葛藤は薄まってきていて、それもいいかもしれないと、葵は思った。

(どうせまだ帰れないんだし)

 アルヴァが気長に構えろと言っていたことからも分かるように、おそらくは長期戦になるだろう。それならばこの世界で、少しくらい青春してみてもいいかもしれない。滞在が長引いていることでそんな風に考えられる余裕の出てきた葵は、アッシュの申し出を受け入れてみることにした。






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