綻び

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 葵が交際に頷くと、アッシュは平素の彼らしくもなく喜びを露わにした。彼が子供のように喜んでいるのを初めて見た葵は面食らいながらも、微笑ましい様子に目を細める。

(アッシュって案外カワイイ感じなんだぁ)

 ふと、彼のことを何も知らない自分に気が付いた葵は、とりあえず年齢から尋ねてみることにした。二十歳なのだと簡単に教えてくれたアッシュは、何故か次の瞬間には口をつぐむ。アッシュの顔からは先程までの華やかさが失われていたため、彼の急変を不思議に思った葵は首を傾げた。だが疑問を口にするより先に、葵の背後で女の声が上がる。

「アイス!」

 葵が振り返ると、そこにはアフタヌーンドレスを身に纏った、いかにも『お嬢様』といった出で立ちの少女が佇んでいた。ふんわりとしたスカートの裾を両手で持ち上げると、彼女はこちらに向かって走り寄って来る。そして葵が見ている前で、彼女はアッシュにガバッと抱きついたのだった。

「会いたかった! 会いたかった!!」

 感極まった様子で、少女は泣きながらアッシュに縋りついている。あ然としているアッシュはしばらく彼女の好きなようにさせていたが、やがて我に返った様子で少女の体を引き剥がした。

「何故、君がここに?」

「ずっと探していたのよ。わたくしに黙って消えてしまうなんて酷いわ」

「リジー、僕は……」

 顔をしかめて少女と見つめ合っていたアッシュは、そこでハッとしたように葵を振り返った。何が何だか分からずに目前の再会劇を見守っていた葵も、アッシュと目が合ったことで我に返る。何となく居た堪れない気分になった葵が反射的に後退すると、アッシュは慌てた様子で少女を突き放した。

「オレは戻らない。もう君とも、会うつもりはない」

「待って!!」

 少女に背を向けたアッシュは彼女が追い縋るのも聞かず、歩き出しがてらに葵の手を取った。不意に腕を引かれた葵はバランスを崩してよろけながらアッシュの後に続く。声をかけようとして葵が顔を上げると、アッシュは小声で何かを呟き続けていた。

「レ=ヴォル!」

 先程からアッシュが口にしていたのは呪文だったようで、彼がはっきりと声を出したその一言により葵とアッシュの体は地を離れた。急に飛翔体験をすることになった葵は慌ててアッシュに抱きつく。空を飛びながら葵の体を抱え上げたアッシュはそのまま、身軽な猫のように屋根伝いの移動を続けた。

 アッシュが魔法を使う姿を初めて見たことよりも、葵が驚いたのは先程の少女が追って来たことだった。アフタヌーンドレスを風になびかせながら屋根伝いに移動しているお嬢様の姿に度肝を抜かれた葵は可能な限り目を見開く。しかしアッシュはこうなることを予測していたようで、不意に足を止めると葵を腕に抱えたまま少女を振り返った。

「リ=バルロン・ドゥ・ロ!」

 アッシュが再び呪文を唱えると、どこからか発生した水の塊が少女をめがけて飛んで行った。少女が手にしていた日傘を開いて防御したため弾け飛んだ水滴が街に降って、あちこちから悲鳴が上がる。少女が日傘を開いた瞬間にアッシュは屋根から飛び下りたので、まだ上空にいる彼女は葵達の姿を見失ったようだった。上方ではしばらく「アイス!」という少女の声が聞こえていたが、やがてはそれも遠くなる。少女の声が完全に聞こえなくなると、アッシュは「はあ」とため息をついた。

「ごめん。しばらくここにいよう」

 今下手な動きをすればまた見付かってしまうからと、アッシュは疲れた様子で言う。彼がへたりこむように石段に腰を落ち着けたため、葵も遠慮がちに隣に並んだ。

「アッシュって魔法、使えたんだね」

 今まで見たことがなかったからか、葵はアッシュも魔法が使えないのではないかと思い込んでいた。勝手に同類扱いをして親近感を覚えていた自分に気がついた葵は、苦い思いで口元を歪める。葵の姿に何かを感じ取ったのか、アッシュは真顔に戻って口火を切った。

「アオイには話すよ、ぜんぶ」

 そう前置きをすると、アッシュは今まで語ろうとしなかった彼の過去をぽつりぽつりと話し出した。彼の本名はアイネイアス=オールディントンといい、アッシュの生家であるオールディントンは伯爵家らしい。アッシュが伯爵家の長男だと知って、貴族というものにいいイメージを抱いていない葵は少なからず衝撃を受けた。葵の感情は露骨に面に出ていて、アッシュは家を捨てたのだと急いた口調で付け加える。それから渋い表情で、先程の少女のことを語りだした。

「さっきの少女……エリザベスって名前なんだけど、彼女は婚約者フィアンセだった」

「婚約者……」

「アオイもいるんだろ?」

「え?」

 アッシュがあまりにも自然に問いかけてくるので、言葉の意味を掴み損ねた葵は眉根を寄せた。アッシュはアッシュで話が通じないことに驚いたらしく、彼は瞠目しながら問いを重ねてくる。

「フィアンセだよ。いるんだろ?」

「そんなのいないよ。何で?」

「……もしかして、アオイは貴族じゃないの?」

 葵が困惑しながら頷くと、アッシュは納得がいったというような表情になった。それから申し訳なさそうな表情に変わり、彼は葵に頭を下げる。

「ごめん。トリニスタン魔法学園に通ってるから、てっきり貴族なんだと思ってた。貴族の間では婚約者がいるのが普通なんだ」

 アッシュが説明を加えてくれたので、彼が何故平然と婚約者の話をしていたのかは分かったが、それでも葵には釈然としない思いが残っていた。それはエリザベスという名の少女が、アッシュを好きだと体現していたからかもしれない。だがアッシュにはその気がないらしく、彼は淡々と婚約者の話を続けた。

「フィアンセと言っても自分で相手を選べるわけじゃない。それが貴族の結婚なんだ。それでも、家を繁栄させるのが貴族に生まれた者の使命だから。エリザベスと結婚するんだって思ってた。家を、出るまでは」

 実家を出て、一人で暮らしたい。一人っ子で、わりとのびのびとした環境で育った葵にもそう思う瞬間がないこともなかった。血のしがらみなどない一般家庭に育った葵でさえ、そういう瞬間があったのだ。貴族の、それも嫡男というプレッシャーを生まれながらに背負っている者が逃げ出したくなる気持ちは、きっと葵などには想像もつかないほど重く苦しいことだっただろう。何故家を出たのか、その理由は訊けなかった。

「どうして家を出たのか、訊かないんだな」

 葵が尋ねずにいると、逆にアッシュの方から問いかけてきた。アッシュに苦笑を返した葵は彼から視線を外し、今は遠い場所で頑張っている友人の姿を思い浮かべながら言葉を紡ぐ。

「私は貴族じゃないけど、貴族の友達がいたの。その子も家のために生きるのが定めなんだって言ってた。だから何となく、アッシュの気持ちも分かるかなって思って」

「その友達、今は傍にいないの?」

「うん。王都の本校に行っちゃった」

「分校から、本校に?」

 葵が頷くとアッシュは絶句してしまった。彼が何故黙り込んだのか分からなかった葵は首を傾げながら振り返る。

「どうしたの?」

「その友達、すごいな。初めは分校に通ってたってことは、爵位継承者ではないんだろう?」

「家を継ぐ者の使命がどうとかって言ってたから、たぶんその継承者ってやつだったんじゃないかな? 詳しくは分からないけど」

「それなら、あまり地位のある家柄ではなかったんだろうな。そうだとしたら、なおさら凄いけど」

 アッシュは感心しきっていたが、友人の家に招待してもらったこともある葵はあれで地位が高くないのかと、貴族の水準というものを疑ってしまった。やはり庶民には理解の及ばない世界だ。葵がぼんやりとそんなことを考えていると、アッシュは少し声音を落としながら話を続けた。

「オレも本校に行っていたんだ」

 その告白は自分がエリートであると言っているようなものであり、エリートという存在に嫌悪感すら抱いている葵は少し顔をしかめてしまった。葵の反応をどう受け止めたのかは分からないが、アッシュは遠い目をしながら淡白な調子で言葉を次ぐ。

「でも、挫折した。自分が凡人だって思い知ったよ。本校はそういう所だ」

「そう……なんだ」

「自信がなくなって、怖くなって、逃げ出した。実家に帰ることも出来なくて途方に暮れてた時にトリックスターと知り合ったんだ。行く所がないって言ったら、あのアパルトマンを紹介してくれたよ」

 それからずっと、アパートのある模造世界イミテーション・ワールドを出ることなく歳月を過ごしてきたのだとアッシュは言う。この買い出しが久しぶりの『外』なのだと聞き、葵は驚いてしまった。

「暇だったんだ、本当に」

 以前にもアッシュの口からそんな科白を聞いたことがあると思った葵はアパートでの彼の言動を思い返してみて、色々なことに納得がいった。しかしそんなに暇だったのなら、何故『外』へ出なかったのか。新たに浮かんできた疑問を葵が口にすると、今日のようなことになるのが怖かったのだとアッシュは言った。

「オレは意気地がないから、見付かるのが本当に怖かった。でも、思っていたよりも平気だったな」

 葵が傍にいてくれたからかもしれないと、こちらを振り向いたアッシュは少し茶目っ気を含ませた笑顔で言う。彼を直視することが出来なかった葵は目を伏せ、甘いムードになるのを避けるために自ら話題を変えた。

「雨、好きなの?」

 この世界では自然に雨が降ることはないが、ワケアリ荘では時たま雨が降る。生まれ育った世界を身近に感じさせてくれる雨を見るために葵が外へ出ると、そこにはよく、一人でじっと雨に見入っているアッシュの姿があった。一瞬、虚を突かれたような表情になったアッシュは苦笑いを浮かべ、雨を見ていると心が落ち着くのだと答えた。

「こっちでは雨って降らないだろう? だからたぶん、隠れていることを実感出来たんだろうな」

 アッシュの話に耳を傾けながらも葵の脳裏には何故か、王都の本校へ行ってしまった友人達の顔が浮かんでいた。今、この瞬間に彼らのことを思い出してしまったのは、おそらく……。

(……やめよう)

 考え出すと、深みにはまる。そう察した葵は小さく首を振り、努めて明るくアッシュに笑いかけた。






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