卵の殻が割れるとき

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「はあ……」

 保健室を出た途端にクレアが熱っぽい吐息を零したので、彼女の話に付き合わされる羽目になりそうだと察した葵はどうしたのかと問いかけることをしなかった。しかし葵のスルーも虚しく、クレアは訊かれてもいないのに言葉を重ねる。

「アルヴァ様、ステキやわぁ」

「……出た」

 やっぱりそうなるのかと、心の声が葵の口を突いて出てしまった。その瞬間、クレアがギラリと光る瞳を向けてくる。

「アルヴァ様は大丈夫みたいやけど、心配なんはおたくや。雰囲気に流されてアルヴァ様の寝込みを襲ったりするんやないで?」

「そんなことしないよ!」

「いーや、女は雰囲気に弱いイキモノや。ましてやあんなにええ男なんやから少しも気持ちが動かんなんて有り得へん。しっかり自戒しぃ」

「なんか、経験あるみたいな言い方だね」

 葵が言い返すと、クレアはギクリとしたような表情をした。これは前科があるなと確信した葵はニヤリと笑う。

「え〜? いつ? 誰を襲ったの?」

「やかましい! 昔の話や!」

「どんな人? か……恋人?」

「せやから昔の話やって言うてるやろ!」

「いいよ、教えてくれないならマトに聞くから」

「ちょお、やめ……!」

 葵が手を伸ばすと、クレアは自身の肩口にいるマトを庇うようにして身を引いた。しかしマトは葵と話をしたそうに、自ら体を伸ばしてくる。

「マト! こん、裏切りもんがぁ!」

「楽しそうだな」

 クレアがアタフタしていると、彼女の背後から不意に声がした。声の主は私服姿の少年。長い茶髪を無造作に束ねている彼は名をオリヴァー=バベッジという。オリヴァーに軽くアイサツをしようとした葵は、彼の後ろからやって来た少年に目を留めるなり上げてかけていた腕を止めてしまった。オリヴァーの後に続いて姿を現したのは、彼と同じくマジスターの一員であるキリル=エクランド。彼らの姿を認めたクレアが急に態度を改めたため、オリヴァーが苦笑いを浮かべた。

「あんたに畏まられると居心地が悪い。俺達には普通に接してくれていいって。な?」

 オリヴァーは同意を求めてキリルを振り返ったのだが、当のキリルはそっぽを向いてしまった。どうやらキリルの許しを得なければならないことらしく、彼の不機嫌そうな態度を目の当たりにしたクレアはさらに腰を低くする。うまくいかないことに苦笑したオリヴァーが顔を向けてきたので、事情はよく分からなかったが葵も笑っておいた。

「おい、てめぇ」

 そっぽを向いていたはずのキリルが不意に苛立った声を発したため、笑い合っていた葵とオリヴァーは何事かと彼を振り返る。するとキリルの視線は葵に向けられていて、その瞳が有する輝きにドキッとした葵は知らずのうちに身を引く。すると無意識の動作が火に油を注いでしまったらしく、キリルは突然、葵に掴みかかった。

「なにヘラヘラ笑ってんだよ!」

 謂れのない怒りをぶつけられた葵が恐怖に首を竦めると、オリヴァーとクレアが慌てて仲裁に入って来た。オリヴァーがキリルの両腕をがっちりと捕まえたところで逃げ出した葵は、彼らから少し距離をとって息をつく。するとすかさず、クレアが葵を庇うように体を割り込ませてきた。

「何か、御用ですか?」

「ああ、悪い。アルヴァって人のこと訊きたくて来ただけだったんだけどさ」

 一人で来るべきだったかもしれないと、苦笑を浮かべているオリヴァーはキリルを伴って来たことを後悔しているようだった。口には出さずともオリヴァーの思いは伝わって、葵も苦笑いを零す。しかしクレアは硬質な態度を変えず、冷たい口調で葵の説得が無駄に終わったことを簡潔に明かした。

「お嬢、行くで」

 クレアが無駄な諍いを避けるために話を切り上げたことを察した葵は、オリヴァーに表情だけで「ごめん」と告げると彼女の後を追った。しかし数歩も歩かないうちに、目前に腕が伸びてきて動きを制される。耳元でえも言われぬ音がしたため顔を傾けると、壁が拳の形に溶けていた。

「なっ……!」

「おい、キル!」

 少し先へと進んでいたクレアが振り返って瞠目するのと、オリヴァーが制止の声を上げたのは同時だった。彼らの声を視界の外に聞きながら葵は恐る恐る、壁にめりこんでいる拳の持ち主を見上げてみる。すると案の定、漆黒の双眸に怒りの炎をギラつかせているキリルが、そこにいた。

 キリルと目が合ったことで葵が肝を冷やした次の瞬間、彼は唐突な行動に出た。壁にめりこんでいた拳を引き抜いたキリルは、何故かそのまま葵の腕を引いたのだ。葵が抵抗する間もなく引きずられて行ったように、クレアとオリヴァーもキリルの行動に着いて行けていなかった。彼らが我に返った時には葵の姿もキリルの姿も消えていて、取り残されたクレアとオリヴァーは成す術なく顔を見合わせる。

「あれ、どういうことや?」

「どういうことだと言われてもな……」

「おたく、あいつと付き合い長いんやろ?」

「俺だって、あんなキルは初めて見たんだって」

 すっかり素顔に戻ってしまっているクレアと、すっかり困惑してしまっているオリヴァーは、どちらもこの不可解な出来事に対しての答えを見出すことが出来なかった。口をつぐんでしまった彼らはしばらく葵とキリルが去って行った方角を見つめたままでいたが、やがて何かを思い出したらしいオリヴァーがポツリと独白を零す。

「もしかして……あれか?」

「あれ? あれって何や?」

「ハーヴェイさんがキルにかけた魔法のせいってことだよ。クレアも話、聞いてただろ?」

「せやけど、あれはハーヴェイ様がお嬢を引っぱたいて解決したんやなかったんか?」

 ハーヴェイ=エクランドというキリルの兄を『ものすごい魔法使い』だと認めているクレアは、彼の言葉を疑うことなく鵜呑みにしていた。ハーヴェイを優秀な魔法使いだと認めているという点ではオリヴァーも同じだが、魔法というものに精通している彼はクレアとはまた違った見解を持っているらしい。未完成な魔法……それも人体に作用するような魔法は扱いが非常に難しいのだと、オリヴァーは考えこみながら言った。

「今考えると、アオイに殴られて魔法が狂い出した頃から明らかに執着の仕方が違ってたよな。ウィルがアオイにキスしようとした時なんて、嫉妬心丸出しにして止めようとしてたし」

「何やて?」

 オリヴァーは自分の考えをまとめるために独白を零していたようだったが、聞き捨てならない科白を耳にしたクレアは眉をひそめて容喙した。クレアが口を挟んだことで我に返ったらしいオリヴァーは、ハッとした表情になって彼女に目を向ける。

「悪い。つい、ウィルが隣にいる感じで話しちまった」

「それは別にええねん。それより、ウィルがお嬢にキスってどういうことや? あの人もお嬢とええ感じやったんか?」

「あー、いや……それについては、ちょっと事情があってな。つまり今のキルは、魔法が狂ったせいで生じた感情でアオイに強い執着を抱いてるってことだ」

 ウィルの悪行については自分も少なからず関与していたため、クレアに追及される前に逃れたかったオリヴァーは強引に話を完結させた。オリヴァーの狙いはうまくいったようで、クレアはあ然とした顔をしている。

「それ……お嬢が好きいうことか?」

「まあ……ハーヴェイさん相手だったら度が過ぎる『お兄ちゃん子』で済むけど、女の子相手だと恋愛と変わらないかもな」

「冗談やないで!」

 つくられた恋愛感情だと軽く認めたオリヴァーに、怒りに目を見開いたクレアは激しい一喝を食らわせた。クレアの剣幕にビクリと体を震わせたオリヴァーは、鬼のような形相をしている彼女から逃れるために数歩後ずさる。しかしクレアは体格差などものともせず、オリヴァーの胸倉を思いきり掴み上げた。

「お嬢には恋人がおるんや! そないに勝手なことで振り回されてたまるかい!」

 一息に捲くし立てるとクレアはオリヴァーから手を離し、自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。クレアに首を絞められた格好になっていたオリヴァーは数回咳き込み、首元を手で庇いながら口火を切る。

「恋人って、アオイにか?」

「せや。あのお坊ちゃんがお嬢のことを好きならともかく、こんなん納得いかへん。振り回されるお嬢が可哀想や」

「なんか……ずいぶんアオイと仲良くなったんだな」

 クラス対抗戦での一件を知らないオリヴァーには、クレアが自ら葵を擁護しているのが意外に映っているらしい。詳しい説明を加える気はなかったもののクレアは一言、葵は友達だとだけ付け加えた。

「今までは他人事やと思うとったけど、もう無視出来ん。うちもおたくに協力するで」

 是が非でもハーヴェイに魔法をといてもらわなければと意気込んだクレアは鼻息も荒く、つい先程後にしてきたばかりの保健室へと向かう。彼女に「着いて来い」と言われたオリヴァーは頼もしさと一抹の不安を混在させながらクレアの後に従ったのだった。






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