卵の殻が割れるとき

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 気がつけば、クレアとオリヴァーの姿が見えなくなっていた。廊下を走らされた挙句にどこぞの部屋に押し込まれ、さらには逃げ道までも塞がれてしまった葵は顔を青褪めさせながら壁に背中を密着させた。その部屋の唯一の出入口の前には不機嫌なオーラを醸し出しているキリルが立っていて、前髪で顔を隠してしまっている彼は先程から一言も発していない。彼が再び動き出した時、自分は終わりを迎えるのではないか。漠然とそんな想像をしてしまった葵は息を殺しながらキリルの出方を窺っていた。

(何で、こんなことに……)

 今日は、彼に殴られるようなことは何もしていない。していない、つもりだ。では何故、彼は葵をこんな所まで引っ張ってきたのか。報復以外にその理由が思い当たらなかった葵はただでさえ青褪めていた顔からさらに血の気を引かせた。

(もしかして、この間のあれ?)

 兄に逆らうことが出来ないでいたキリルを、葵は『チキン』呼ばわりした。普段はもてはやされてばかりの彼にとって、あの言葉はひどい侮辱だっただろう。その仕返しを、今しようというのかもしれない。もしそうだとしたら絶対に殴られると確信した葵はキリルが口火を切った時、大きく体を震わせてしまった。

「なに、ビクビクしてんだよ!」

 呼びかけただけで葵が怯えたのが気に食わなかったらしく、カッとなったキリルは一気に距離を縮めてきた。息が詰まりそうになった葵は怒りに満ちているキリルの美貌から目を逸らし、卒倒しそうになりながら空を仰ぐ。それは殴られることを覚悟しての動作だったのだが、キリルは葵に手を触れてはこなかった。

「お前、オリヴァーと親しくしてんじゃねーよ」

「……え?」

 てっきり殴られるものだと思って目を瞑っていた葵は、キリルから投げかけられた予想外の言葉に呆然としながら目を開けた。視線を落として見るとキリルはむっつりとした表情をしてはいたが、もう怒ってはいないようだ。キリルが怒りを治めていたことが逆に困惑を深めさせ、どうしていいのか分からなくなってしまった葵は疑問を口にすることも出来なかった。葵が黙していると、そっぽを向いたキリルは苛立たしげに髪を掻きむしりながら言葉を重ねる。

「イヤなんだよ。お前がオリヴァーと話してるのがイライラする」

「な、何で……?」

「知るか! とにかく、イラつくんだよ!」

 理由になっていない理由を口走ると、葵から離れて行ったキリルは部屋の隅に置かれていた椅子を荒々しく蹴り倒した。椅子が倒れる派手な音に驚くよりも意味不明なキリルの言動に呆気に取られていた葵は、何とか状況を理解しようと必死で頭を働かせる。

(オリヴァーと話してるとイラつく?)

 キリルがどういう人物なのかをよく知っているオリヴァーとウィルは以前、彼のことを『気性の激しい子供』なのだと言っていた。自分が仲間と認めた者以外には無関心のキリルは、もしかすると葵とオリヴァーが親しくすることで『オリヴァーをとられた』という気になるのかもしれない。そう考えれば、キリルの不可解すぎる言動にも少し納得が出来るような気がする。それならば今後はオリヴァーともちゃんと距離を置こうと、考えをまとめた葵は密かに心を固めた。しかしキリルはまたしても、葵の理解が及ばないようなことを軽々と口にする。

「お前、オレに何か言うことがあるだろ」

「言う、こと?」

「オレを意気地なし呼ばわりしたの、謝れ」

 今度はちゃんとキリルが説明を加えてくれたため、謝れと脅されているにもかかわらず葵はホッとしてしまった。

 正面から兄に立ち向かおうとせず裏でこそこそしていたキリルを、葵は卑怯で意気地なしな奴だと思った。だが幼い頃から魔法をかけられているキリルにとって、ハーヴェイという兄に逆らうことは身命を賭さなければならないほどの重労働だったのだ。それでも彼は全身全霊で、兄に逆らうことになる自分の気持ちを打ち明けた。あの時のキリルはとても誠実で、彼のことをもう意気地なしなどとは思っていない葵は自然と謝罪の言葉を口にした。

「お兄さんに逆らうことがあんなに大変なことだったなんて知らなかった。何も分かってなかったのに勝手なこと言って、ごめんなさい」

 葵が頭を下げると、キリルは自分から謝罪を要求したにもかかわらず、そっぽを向いた。顔を上げた葵はキリルの頬が微かに赤くなっているのを見て、プッと吹き出す。

(照れてる)

 傍若無人な態度ばかりが目に付く彼に、こんな一面があることなど知らなかった。もしかするとキリルは、接し方次第では普通に付き合える相手なのかもしれない。そんなことを思ったのも束の間、キリルから再び鋭い視線を向けられた葵は反射的に身を竦ませた。

「なに笑ってんだよ」

「……何でもない」

「言えよ! 気持ち悪ぃな!」

「うっさいな! 照れてるのがカワイイとかちょっと思っただけでしょ!」

 売り言葉に買い言葉でポロリと本音を口にしてしまってから、葵は自分の発言にハッとした。慌てて口元を手で覆ってみても、一度零れた科白はもう戻ってはこない。怒鳴り返したことに激怒されて殴られるのではと思った葵は知らずのうちに身構えたのだが、いつまで経ってみても衝撃は襲ってこなかった。

「……?」

 キリルからは悪態も怒声も何も返ってこなかったため、葵は恐る恐る伏せていた目を上げる。そうして目撃したものに、葵はあ然としてしまった。酸素を求める魚のように口をパクパクさせているキリルは何故か、可哀想なほど真っ赤になっていたのだ。どうしてそんなことになってしまったのか、まったく分からなかった葵は困惑に眉をひそめる。するとその表情が逆鱗に触れたのか、キリルは唐突に声を荒らげた。

「出てけ! 今すぐ消えろ!!」

 キリルががなった途端に室温が上がったような気がして、彼の暴走を幾度となく目の当たりにしている葵は慌てて部屋を飛び出した。






「くそっ!」

 葵が立ち去っても顔のほてりが消えなかったため、その熱を不快に思ったキリルは目についたものを片っ端から蹴り飛ばしていった。平素であれば物を壊すことで少しは気分が落ち着くのだが、一度胸に抱いた熱はなかなかのしぶとさを持って未だそこに存在している。初めての感情と衝動はキリルを大いに混乱させ、そしてそれ以上に苛立ちを募らせていた。

「何だってんだよ!!」

 咆哮を上げたキリルの体からは炎が、かげろうのように立ち上り始める。しかしそれが四散して周囲を焼き尽くす前に、彼の有する炎に似た魔力はキリルの体へと戻って行った。その理由はキリルが一瞬にして、苛立ちも忘れるほどあ然としたからである。

「荒れてるね」

 涼しい表情でそんなことを言ってのけたのは、唐突に出現したウィル=ヴィンスだった。どうやら彼は葵とのやりとりも全て見ていたようで、そのまま何気なく本題を口にする。

「ねぇ、キル。アオイのこと好きなの?」

「てめっ……! 見てんじゃねーよ!!」

 覗き見られていたことにようやく気付いたキリルはいきり立ってウィルに襲いかかった。しかし、こんな事態は日常茶飯事であるウィルは流れる風のような身のこなしでキリルの強襲を受け流す。掴みかかろうと伸ばした手が空を切ってしまったため、勢いあまったキリルはそのまま前のめりに倒れこんだ。

「あのさ、今は茶化す気はないから。キルも冷静に応えてよ」

 頭上から聞こえてきた声は彼の言う通り、冷やかしを帯びてはいなかった。こういった場面では必ず、ウィルは面白がってキリルの感情を逆撫でするようなことばかり言う。その彼がひどく真面目なことのように話していたので、気味が悪く思ったキリルは床に胡坐をかいてウィルを見上げた。

「前にアオイのこと、ハーヴェイさんと同じように感じるって言ってたよね。それって具体的にはどういう感じなの?」

 ウィルの質問はひどく答え辛いもので、返答に困ってしまったキリルは視線を泳がせながら考えを巡らせた。だが時間をかけてみても考えはまとまらず、イライラしてきてしまったキリルは髪の毛を掻きむしる。

「知るか!」

 と、結局はいつもの返答になってしまったわけだが、ウィルは諦めなかった。胡坐をかいているキリルと目線を合わせるようにしゃがみこんだウィルはゆっくりと、聞き分けのない子供を諭すように優しく言葉を重ねる。

「さっきさ、アオイがオリヴァーと話してるとイライラするって言ってたよね? それって部外者のアオイが仲間にちょっかい出すのが気に入らないってこと?」

「……お前、ホントに最初から見てたんだな」

「僕の名誉のために自分で弁明しておくけど、キル達が後から入って来たんだからね?」

「なんだ、それ」

 ウィルが少しだけいつもの彼に戻ったので、キリルは彼の言い種に呆れながらもどこかでホッとしていた。しかし安堵したのも束の間、軽口に応えなかったウィルはすぐにまた問いを重ねてくる。

「それともさ、アオイが他の男と話してるのがムカツク?」

「なっ……!」

 ウィルの発言は心の奥深いところを無遠慮に刺激し、過剰な反応を示したキリルは突発的な激情に戸惑って言葉を途切れさせた。それで知りたかったことの答えを得たらしく、ウィルは立ち上がって息を吐く。

「キル、たぶんその執着心は『恋』っていうものだよ」

「そんなわけあるか!!」

 全力で葵への恋心を否定したキリルに、ウィルは「そうだね」という淡白な反応を返してきた。それはからかうのでもなければ、助言や応援をするものでもない。よく分からないウィルの態度に毒気を抜かれてしまったキリルは眉根を寄せた。

「お前、何が言いたいんだ?」

「僕は恋心っていうものがどういうものなのか知らないから断言は出来ないけど、キルの気持ちはたぶん、魔法の副作用で生まれたものだよ」

 つまりはニセモノの恋なのだと、ウィルは衝撃的なことをあっさりと言ってのける。それを否定したいような肯定したいような複雑な気分に陥ったキリルは何も言わずに口をつぐんだ。キリルがどういった心理状態でいるのかを確かめるように、ウィルは探るような目を向けてくる。

「どう、今の気分は?」

「……わっかんねー」

「でも、そこがはっきりしないと気持ち悪くない?」

「確かに、すげー気持ち悪ぃ。なんだ、このモヤモヤした感じ」

「確かめる方法が、一つだけあるよ」

 視界に霧がかかったような不快感を解消する方法があると聞き、キリルはウィルの言葉に食いついた。その方法とは『ハーヴェイにかけられた魔法をといた状態で葵に会い、その瞬間にどういった気持ちを抱くか確認する』というものだった。いい加減、知らぬ間にかけられていた魔法に心底嫌気が差していたキリルはウィルの提案に深々と頷いて見せる。

「オレはぜってーアイツには惚れてねぇ! そのことを証明してやる!」

「キルがホントに惚れちゃってたら、それはそれで面白いのに」

「なんだと!?」

 ウィルがいつもの軽口を復活させたため、彼の弁舌に煽られたキリルは声を荒らげる。これが彼らなりのコミュニケーションの取り方であり、平素の調子に戻ったキリルとウィルはその後しばらく、意味のない言葉の応酬を続けた。






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