卵の殻が割れるとき

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 扉を開けると青草の匂いがした。天空にはすでに伽羅茶きゃらちゃ色の二月が昇っていて、アパートの周囲に広がっている青草の海を煌々と照らしている。大草原の真ん中にポツンと佇む『ワケアリ荘』もくすんだ色彩の月明かりに照らされていて、ただでさえおんぼろな佇まいをさらにボロく見せていた。月明かりが十分に明るいのでワケアリ荘に人工の光は灯っておらず、その佇まいは動く者の影がなければ本当に廃屋のようだ。だがそんな古臭さも含め、葵はこのアパートが好きだった。

 202号室の扉を後ろ手に閉めた葵は一度、左隣である201号室を仰いだ。そこはクレアの部屋なのだが、今日も仕事に出掛けている彼女が帰宅しているかどうかは定かではない。日中、彼女に言われたことをしっかりと胸に刻みながら、顔を戻した葵は逆側の奥へ向かって廊下を進み始めた。目指す先は右側の突き当たりにある、205号室。そこにはアッシュという青年が住んでいて、彼は葵の恋人だった。

(彼氏って言うと、まだちょっと違和感あるなぁ)

 葵とアッシュが付き合い始めたのはつい先日のことで、彼氏いない歴十七年だった葵にはまだ『恋人』という響きがしっくりこない。しかもアッシュには、彼を追い回している婚約者がいるのだ。そんなことが露見してしまったらアルヴァに何を言われるか分からないため、葵は旅行のことを自分で話そうと思ったのだった。

(アッシュ、何て言うかな)

 彼氏以外の男と二人きりで、しかも一ヶ月もの間、旅行に出掛ける。クレアが言っていたように普通に考えれば、そんなことを許す男はいないだろう。だが葵は、自身の目に世界を焼き付ける旅をしなければならないのだ。唯一の理解者であるアルヴァとうまく意思の疎通を図れるようになるためにも、魔法というものを深く知るためにも。その旅への同伴者は他の誰でもなく、アルヴァでなければならない。しかしその理由を、アッシュに話すことは出来ないのだ。そんな中でどこまで理解を示してもらえるのか、ふと不安になった葵は205号室の前で立ち止まってしまった。

(アルのこと、何て言おう……)

 アルヴァは葵のことを娘のようだと言い切ることでクレアを納得させていたが、葵にはアルヴァのことを父親のような存在だとは言えない。心にもないことを言ってみたところでアッシュにはすぐ、それが嘘だとバレてしまうだろう。やはりここは、正直に自分の気持ちを話すことでアッシュに納得してもらうしかない。そう心を決めた瞬間を逃さずにノックをしようとした葵は、不意に視界が暗くなったことで動きを止めてしまった。

(影……?)

 月明かりの加減で、何かの影が背後から伸びている。唐突に出現したその影の正体を知ろうとして、葵は後ろを振り返った。そうして目にしたものに、葵は可能な限り目を見開く。おんぼろなアパートには不似合いなドレスを纏った少女が、そこにいた。

「ねぇ、あなた」

 アパートの二階部分の空中に浮いていた少女は、手すりを乗り越えて身軽に着地をすると葵に声をかけてきた。彼女の名を、葵は知っている。アッシュの婚約者の、エリザベスという少女だ。

「アイスはどこ?」

 エリザベスが言葉を重ねた刹那、葵は見慣れた景色がぐにゃりと歪むような眩暈を味わった。それは心労からくるようなものではなかったらしく、静まり返っていたアパートのあちこちで扉が開く音が聞こえてくる。205号室の扉も開かれて、顔を覗かせたアッシュはひどく慌てた様子で葵に話しかけてきた。

「今……」

 何かを言いかけたアッシュの唇は、彼の空色の瞳がエリザベスの姿を捉えると同時に閉ざされてしまった。アッシュの姿を認めると同時に走り出していたエリザベスは、彼の胸に飛び込みながら歓喜の声を上げる。

「アイス! やっと会えた!」

「……離れるんだ」

 首に絡んでいたエリザベスの腕を強引に退けると、アッシュは彼女から距離を置いた。アッシュが拒絶を表に出した瞬間、それまで華やいでいた少女の顔が悲しげに歪む。

「どうして!? わたくし達はフィアンセでしょう!?」

「すまない」

 大粒の涙を零しているエリザベスに頭を下げると、アッシュは彼女に見せ付けるように葵の肩を抱いた。そしてはっきりと、葵が恋人であることを告げる。婚約者の裏切りを知らされた少女の顔には怒りと悲しみが満ちていたが、不思議と絶望感は、少しも滲んではいなかった。

「離れて! 離れてよ!!」

 二人の間に突進することで葵とアッシュを引き離したエリザベスは、そのまま怒りの矛先を葵へと向ける。涙を湛えた目に睨まれて、葵は体から力が抜けていくのを感じていた。

「こんな女のどこがいいの!? わたくしの方がキレイだわ!」

「リジー! やめないか!」

「他人の婚約者を横取りするなんて、恥を知りなさい!!」

「いい加減にしろ!!」

 それまでの制止の声とは違い、アッシュの声には明らかな怒りが含まれていた。夜のしじまを切り裂くようなアッシュの鋭さに、興奮して泣き喚いていたエリザベスはビクリと体を震わせる。アッシュの心がもう自分にはないことを感じ取ったのか、彼女は顔を覆って泣き出してしまった。小さくなって肩を震わせている少女に在りし日の自分を重ねてしまった葵は想いが急速に輝きを失っていくのを感じ、密かに息を吐く。

(ハル……)

 鮮やかな記憶を伴って脳裏に浮かんできたのは、初恋の人であるハル=ヒューイットという少年だった。彼を想っている時、葵も今のエリザベスと同じ苦しみを味わった。ハルは葵が知り合った当初から、ステラ=カーティスという少女のことを想い続けていたからだ。

(でも、それでも好きだった)

 ステラがいることを知っていても葵がハルを想い続けたように、葵を罵倒するエリザベスもまた全身でアッシュへの愛を叫んでいる。それは初めから負けを認めてしまっていた葵には真似の出来なかったことだった。泣き喚いて醜態を晒していても、自分の気持ちを偽らないだけ彼女は立派だ。あの時、自分もそうするべきだったのではないだろうか。今さらながらにそんなことを考えてしまった葵は小さく首を振ると、静かに口火を切った。

「もう、いい」

 ぽつりと呟きを零すと、葵は喧騒に背を向けた。廊下に出てきていたレインやマッドの横をすり抜けて、葵は自室である202号室へと向かう。しかし部屋へ到達する前に肩を掴まれて、振り返ると慌てた様子のアッシュがそこにいた。

「アオイ……」

「ごめん。アッシュとは付き合えない」

 アッシュの言葉を遮ると、葵は一息に自分の気持ちを言い切った。それ以上何かを言われても、もう心が動くことはない。自分がそうした境地に達してしまっていることを知っていた葵はアッシュの手を振り解き、202号室の前に立った。

(青い、匂い)

 懐かしい故郷を忍ばせてくれる、草原の香り。畳のにおいに包まれながら眠るのも、一時の幸せだった。けれどもう、ここにはいられない。そう思った葵はポケットから鍵束を取り出し、アルヴァの部屋へと誘ってくれる鍵で、202号室の扉を開けた。






(……何だ?)

 その日もいつものように、学園にある『自分の部屋』で夜を過ごしていたアルヴァは何か奇妙な感覚を覚えて読んでいた魔法書から目を上げた。

(何か、来るような気がする)

 だがそれは、来訪者があった時のような魔法の気配ではない。今までに感じたことのない違和感だ。それを気味が悪く感じたアルヴァは本を閉ざして立ち上がり、異変の原因を探ろうとした。刹那、何かが破裂するようなパァンという音が室内に鳴り響く。その音の正体が何であったのかを知った時、アルヴァは驚きに目を見開きながら窓の外へと視線を転じた。

(これは……)

 窓の外には夜の風景が映し出されている。ということは、ここはもう『アルヴァの部屋』ではなく『保健室』なのだ。しかしアルヴァは、自らの意思で場所を移したわけではない。それなのに自分が『保健室』に佇んでいるという事実は、校内に作り上げた秘密の部屋が消滅してしまったことを意味していた。

(何故、急に……)

 消滅の理由についてアルヴァが考えを巡らせていると、不意に背後から声をかけられた。その声音から振り返る前に相手を特定していたものの、アルヴァは驚きでもって深夜の来訪者を迎える。振り返って見ると、葵はひどく沈んだ表情をしていた。

「どうした? ……の、ですか?」

 いつもの調子で話しかけてしまったアルヴァはここが『保健室』であることを思い出し、唐突な環境の変化に苦しみながらも何とか体勢を立て直した。そうしたアルヴァの努力がおかしかったのか、葵は気の抜けた笑みを浮かべながら口を開く。

「アル、私……引っ越したい」

「引っ越し?」

 思いがけない言葉を聞かされたアルヴァが眉根を寄せると、彼の背後ではさらに思いも寄らないことが起こっていた。なんと、雨の雫が窓ガラスを叩き出したのである。驚愕したアルヴァは葵との話を中断し、慌てて窓辺へと寄った。窓辺に佇んで見上げてみると、いつの間にか雲が月を隠してしまっている。そして儀式を伴うものとも違う自然の雨が、乾いた夏の大地を優しく潤していた。

「なんだ。雨、降るんじゃん」

 隣に並んだ葵は何でもないことのように呟きを零していたが、この雨はおそらく、去り行く精霊からの最後の贈物だ。ワケアリ荘で見た雨の精霊を思い浮かべたアルヴァは何らかの理由で模造世界イミテーション・ワールドが崩壊してしまったことを知り、複雑な思いで曇天を仰いでいた。






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