窓から差し込むくすんだ色彩の月明かりが室内を夜色に染めていた。市街地の、建物が密集している一角にあるアパルトマンはどの部屋もさして日当たりがいいわけではないが、それでも人工の光を用いなくても活動が出来るほど月の光は明るい。六畳二間のアパルトマンの一室で、ベッドルームからリビングへと移動してきたのは金髪の青年。理知的な美貌の持ち主である彼はこの部屋の主で、名をアルヴァ=アロースミスという。月明かりが差し込んでくる窓辺へと寄ったアルヴァは鉢植えの植物が置かれている出窓に手を置き、少し体を前のめりにすることで窓の外の風景に目をやった。隣の建物が視界を遮るのでアパルトマンの窓辺からでは広い空を窺うことは出来ないが、それでも限られた風景の隅に月の輪郭が見えている。先程まで空を覆っていた雲は、もうすっかり姿を消してしまっているようだった。
前方に傾けていた体重を元に戻すと、アルヴァは「ソマシィオン、レリエ」と短い呪文を口にした。召喚の魔法によりアルヴァの手元に出現したのは細長い棒のような形状をしている
『アオイ、そこにいる?』
ユアンが話題に上らせたのは宮島葵という、異世界からやって来た少女のことである。同じ話をしようと思っていたアルヴァが頷いて見せると、ユアンはホッとしたような表情になった。
『良かった。卵が割れちゃったから、どうしたかと思ってたんだ』
ユアンの言う『卵』とは
「卵が割れた原因は判明しているのか?」
『経過を見てたわけじゃないから何とも言えないけど……何かと衝突して弾け飛んだ感じだったかなぁ』
魔法の卵を構成する
「さっき、雨が降ったな?」
『……うん。降ったね』
「その少し前、僕が学園に創った部屋も崩壊したよ。そして『僕の部屋』が崩壊した直後、ミヤジマが『保健室』に姿を現した」
『ああ……そういうことだったんだ』
卵同士がぶつかり合うことで、双方の殻が割れてしまった。それが、二つの
『アルの“研究室”とぶつかる前にもね、何かが卵の殻を突き破ったみたいだったんだ。その穴は自己修復してたみたいだったんだけど、さすがにそんな衝撃を何回も受けたら割れちゃうよね』
「その『何か』は特定出来ないのか?」
『今からじゃ難しいよ。アオイに訊いてみたら?』
崩壊前の異変が起きた時、葵はまだ卵の中にいた。魔法のことは分からなくても彼女は何かを見ているはずであり、アルヴァならば葵から引き出した情報を元に推測することが出来るのではないか。ユアンはそう言っていたが、アルヴァは首を振った。
「引っ越したいと言ったきり、何を訊いても答えない」
『えっ? 何で?』
「僕もその理由を知りたかったんだけど、どうやらユアンも知らないらしいね」
『何があったんだろう……心配だな』
「アパルトマンの管理人がいただろう。彼に連絡はつかないのか?」
管理人というくらいなのだから、イミテーション・ワールドの中で起こる異変には常に目を配っていただろう。アルヴァはその程度の認識で管理人を話題に上らせたのだが、ユアンは何故か表情を曇らせてしまった。
『彼は、もういないんだ』
「そう。雨の精霊も、どうやら還ったようだね」
『うん。そういう、約束だったからね』
あまり触れられたくない話題のようで、ユアンはそれ以上言葉を重ねることをしなかった。アパルトマンの別の住人に連絡をとってみるとだけ言い置くと、彼はさっさと話題を変える。
『ところで、アル。今、アステルダムにエクランドの次期当主が来てるんでしょ?』
エクランド公爵家の次期当主とは、ハーヴェイ=エクランドという人物のことである。ユアンが話し相手ということもあって、嫌な名前を持ち出されたと思ったアルヴァはおもむろに顔をしかめた。
「彼がやって来たのはだいぶ前の話だよ。クレア=ブルームフィールドから聞いているだろう?」
『うん。でも彼が、アオイを利用してアルとコンタクトを取ろうとしてるっていうのはさっき聞いた』
「ハーヴェイには会わないよ?」
アルヴァが先手を打って断言すると、ユアンは困ったような苦笑いを浮かべた。葵を巻き込まないためにはアルヴァが自らハーヴェイに会いに行くのが一番なのだが、それをしてしまうとアルヴァにとってもユアンにとっても都合の悪い事態になってしまうのだ。ユアンもそのことは承知していて、彼にはアルヴァを説得することなど出来ない。そのはずだったのだが、ユアンはアルヴァが考えている以上に葵の身を案じているらしく、まだその話題を続けたがった。
『でもさ、あの人はアオイを利用しようとしてるんでしょ? アオイがあの人に目をつけられるのは良くないと思うんだ』
「まあ、ね」
『アオイに魔法薬とか使われたら大変だよ』
「それについては、一応の対策を講じてはいる」
アルヴァが『一応』という言葉を付け足さなければならなかったのは、監視役に選んだウィル=ヴィンスという少年に信が置けないからだった。手駒とするには優秀すぎた彼は
(そういえば……)
ユアンとの会話の中でダブルスパイ気味の少年が訪れた時のことを思い出したアルヴァは口元に手を当てて考えに沈んだ。アルヴァとハーヴェイ、その双方に情報は流すが我関せずといった態度を取っていた彼は先頃、急に意見を変えてアルヴァを懐柔しようとしてきたのだ。同日にはウィルだけでなく、葵の友人であるクレア=ブルームフィールドまでもがその件でアルヴァの元を訪れている。特に示し合わせたような様子はなかったが、今まで傍観していた彼らが同時に動き出したということは、何か事情が変わったのかもしれない。
(ちゃんと話を聞いておくべきだったか)
初めから表舞台に立つ気のないアルヴァは
「とにかく、ユアンは何もしないでくれ。君が出てくると話が無駄に大きくなってしまう」
『うわぁ、ひどい言われよう。僕はただ、アオイの心配をしてるだけなのに』
「彼女の心配をするというのなら、第一に考えなければならないのは住宅の確保だと思うけど?」
『あ、そっか。うーん、しばらくアルの所に居候っていうのは?』
「却下。すぐには手配出来ないのなら、ミヤジマが以前に住んでいたレイチェル名義の屋敷に戻せばいい」
『あそこは改装中なんだけど……仕方がないか。でもちょっと心配だから、アルもアオイと一緒に住んであげてよ』
「マジスターのことなら、そんなに心配する必要もないよ。もうすぐ
終月期である炎の月は学園が休みとなり、生徒達は各々の家で一ヶ月を過ごす。特に公爵家ともなれば本邸に家族が集るのが慣習であり、マジスター達は実家に帰らなければならないのだ。夏月期が終わるまで、あと四日。その四日間は屋敷を保守することを明言し、アルヴァはユアンとの通信を終わらせた。
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