七番目の月

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 強い日差しが剥き出しの顔を焼いて、その熱と眩しさで宮島葵は目を覚ました。横になって丸まっていた体を仰向けに伸ばしてみると、見知らぬ天井が視界を占める。それはこのところ寝起きに目にしていた狭い天井ではなく、かといって『お屋敷』と呼ばれるような建造物のそれでもなかった。寝転がったまま伸ばした手は畳に触れることなくだらりと垂れ下がり、藺草いぐさの青いにおいを感じることもない。体を起こした葵は自分がベッドに寝ていたことを知り、ここが古ぼけたアパートの一室ではないことを再確認した。

(え……っと……)

 眠りに落ちる前の記憶を呼び覚まそうと考えこんだ葵はやがて、ここがアルヴァに連れて来られた場所だということを思い出した。覚醒した葵は腰かけていたベッドを離れ、とりあえず目についた扉へと向かう。扉の先は外ではなく室内に続いていて、質素なテーブルや椅子が置いてあることからそこがリビングであることが察せられた。

「アル……?」

 アルヴァの姿が見当たらなかったため、葵は彼の名を呼びながら屋内を捜索した。しかし、さして広くもない部屋の中に彼の姿は見当たらない。一通り探索を終えて周囲に目が配れるようになったところで、葵はテーブルの上にアルヴァの書置きらしきものを発見した。それはこの世界の文字に不慣れな葵を思ってなのか、非常に短いメッセージとなっている。伝言も至ってシンプルで、帰るまで待てというアルヴァからのメッセージを受け取った葵は安堵の息を吐き出した。

(どのくらいで帰って来るんだろう?)

 無意識のうちに時計を探していた葵は、この世界に時を計る道具がないことを思い出して口元に苦い笑みを浮かべた。滞在期間が六ヶ月ともなれば生活習慣のまったく違う環境にもそれなりに馴染んできているが、それでも見知らぬ部屋に一人で取り残されれば不安を感じるものらしい。自分の動揺をそんなことで確認してしまった葵は、とりあえず水でも飲んで気持ちを落ち着かせようと思った。しかしキッチンへ足を運んでみても、シンクはあるが蛇口がない。生活に魔法が根付いているこの世界では、水は魔法で発生させるか汲んでくるのが普通なのだ。ガランとしたキッチンで今更だと言われそうなことを改めて実感した葵は途方に暮れた。

(……もう一回、寝ようかな)

 腹を空かしても喉が乾いても、アルヴァが帰って来なければ何も出来ない。ならば余計な体力は使わない方がいいと本能的に危機を感じた葵はベッドルームへ戻ることにした。リビングとベッドルームを隔てている扉を開けると不意に臭気が立ち込めてきたので、においに酔いそうだと思った葵は窓を全開にする。窓を開くことで見えてきた光景は草原でも庭園でもなく、無粋に視界を遮る隣の建物の壁だった。

(何だろう、この感じ……)

 この部屋はどうやら二階にあるようで、眼下には路地を行き交う人々の姿が窺えた。ここからでは壁に視界を遮られてよくは見えないが、この建物の正面は通りに面しているようである。その後、窓から乗り出していた体を戻して改めて室内を見回すと、そこにはシングル用のベッドの他にも本棚やデスクといった調度品が置かれていた。生活感のあるその眺めは、葵がたびたび訪れていた『アルヴァの部屋』とはまったくの別物だ。ここが本当の、彼の部屋なのではないだろうか。そんなことを思いながら、葵は自分が寝乱したベッドの端に腰を落ち着けた。

(意外と普通なんだなぁ)

 今まで出会った人々に貴族が多かっただけに、葵はアルヴァも『お屋敷』と呼ばれるような所に住んでいるのではないかと勝手なイメージを抱いていた。しかし彼の家は、とても貴人が借りるとは思えないような普通のアパートの一室である。それでも、少し前まで葵が住んでいた『ワケアリ荘』に比べれば、だいぶ立派に思える部屋ではあったが。

(管理人さん……あの時、いたのかな)

 ふと、ワケアリ荘での暮らしに思いを馳せた葵は猫目の青年の姿を思い浮かべ、目を伏せた。ワケアリ荘というアパートの管理人をしていた彼は異世界からやって来た『召喚獣』で、葵の同類だった。誰にも理解されない気持ちを共有できる唯一の人だったが、彼の哀しみに触れるたびに心が騒ぐ。傍にいたいような離れたいような、複雑な気持ちにさせる人物だったのだ。別れの挨拶も言えずにアパートを出て来てしまったが、それはクレアにでも伝えてもらえばいい。もう少し気持ちが落ち着いたらまた彼に会いに行こうと思った葵はアルヴァのベッドに倒れこんだ。

(アルのにおいがする)

 今まで特に意識したことはなかったものの顔を埋めた枕から感じた香りを、葵の頭はそう認識した。花のような香水とは違う、不思議な香り。それはハーブのような独特な薬臭がかすかに香っているという以外には表現のしようがない、本当に不思議なにおいだった。

 夢を見そうなまどろみの中、瞼の裏に浮かんできたのは一ヶ月という時を共に過ごした灰色の髪をした青年の姿だった。アッシュという名の彼と葵は付き合っていたのだが、こうして他の男のベッドを借りていても罪悪感はない。彼に別れを告げた時ですら、胸に痛みを覚えることはなかった。その感覚が意味するところは、おそらく……。

(好きじゃ、なかったのかな)

 恋に破れた悲しみもなく、ただただ輝きを失っていった想い。アッシュの婚約者だという少女にも嫉妬するどころか、その必死な様に心を打たれてしまっていた。では、そんな中途半端な想いでどうして彼と付き合おうと思ったのか。それはアッシュのことが嫌いではなく、自分が寂しかったからだ。

(……サイテーだよ)

 アッシュに婚約者がいることを知ったのが付き合った後だったとしても、葵は初めから彼の婚約者に過去の自分を重ねて見ていた。彼女のように闘うこともせず、すぐに諦めてしまうくらいなら、初めからその感情に蓋をしてはいけなかったのだ。考えることを放棄した結果、身勝手でアッシュをより傷つけた。

(アル、早く帰って来てよ)

 話を聞いてもらいたいわけではない。アルヴァが慰めの言葉をかけてはくれないことを、葵はすでに承知しているからだ。それでも今は、とにかく誰かと会話をしたい。第三者の存在を強く求めた葵はベッドの中で体を丸め、アルヴァのにおいに包まれながら固く目を閉ざした。






 木製の玄関戸を開くと風が通り抜けたような気がした。平素ならば自宅に帰って来てそんな体験をすることはないので、アルヴァは軽く眉根を寄せながら室内へと進入する。玄関の先にはまずリビングがあり、リビングの奥にベッドルームがあるのだが、そこへと通じる扉が開け放たれていた。どうやらベッドルームの窓が開いているようで、先程の風はそこから流れてきたようだ。空調関係の魔法を何も施していない部屋は夏の空気に侵食されていて蒸し暑く、窓を閉めようと思ったアルヴァはそのままベッドルームへと足を向ける。そこでは葵が、汗を滴らせながら寝入っていた。

(よく、こんな環境で眠れるものだ)

 アルヴァが室内に入って来ても、葵が気配に気付いたような様子はない。気持ち良さそうだとは到底思えない寝顔だったが、それでもまだ寝入っていられる図太さに、アルヴァは呆れと感心が混在したような気持ちを抱いた。


『私……引っ越したい』


 昨夜そう言っていた葵の顔はくすんだ月明かりが落とす影のせいか、ひどく憔悴しているように感じられた。ユアンの創った模造世界イミテーション・ワールドを気に入っていた彼女が急に転居を申し出て来たのには、何か理由があるはずなのだ。しかしそれがハーヴェイ=エクランドに絡んだ事柄なのかどうか、アルヴァはまだ判断しかねていた。

 額に落ちた前髪が汗で張り付いていたので、ベッドの際に腰かけたアルヴァはそれを退けてやった。しかし肌に手を触れてみても、葵はまだ夢の世界にいるようだ。彼女の寝顔をじっと見ていたアルヴァは起きないのならと、葵に顔を寄せる。だが唇を開かせたところで葵が呻いたため、本来の目的を達成することを諦めたアルヴァは彼女の頬をぺちぺちと叩いた。

「ミヤジマ、起きてください」

 軽い衝撃を与え続けていると、さすがに葵も目を開けた。彼女の眼前に顔を据えたままだったので、葵は悲鳴のような声を上げながらベッドから転がり落ちる。という反応をアルヴァは期待していたのだが、目を覚ました葵は彼の予想とはまったく違った行動を起こした。






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