「アル〜。おかえり〜」
「は……?」
予期せぬ反応に眉をひそめる暇もなく、葵に引き寄せられたアルヴァは顔からベッドに倒れこんだ。体に覆いかぶさる形で倒れてしまったのに、葵は動じることもなく首に回した手に力をこめてくる。むしろその体勢を望んだのは、彼女の方だったのだ。
「まっ……、待ってください、ミヤジマ」
呼吸が出来ないほど抱きしめられ、窒息しそうになったアルヴァは慌てて葵の腕を振りほどいた。アルヴァが体を起こすと葵もベッドの上で上体を起こし、追い縋るように再び腕を回してくる。まだ状況に対応出来ていないアルヴァは突然の出来事に困惑しながら、それでも何とか平静を取り戻そうと言葉を次いだ。
「相手が違うのではないですか?」
彼女がこんな風に体を委ねるのは、アルヴァではなくアッシュという恋人のはずだ。冷静を努めながらそう考えたところで、アルヴァは別のことに驚愕して目を瞠った。
「まさか、もう……」
葵とアッシュという青年が付き合い始めたのは、つい先日のはずである。それなのに彼らは、もう体を重ねるような関係になったというのだろうか。しかしそう考えれば、葵の落ち込みようにも何か納得がいくような気がした。
「彼に『証』を見せたのですか!?」
絡み付いてくる葵の体を引き剥がし、アルヴァは思わず声を荒らげた。アッシュという青年がいくらユアンの推薦とはいえ、それはまだ早すぎる。葵が『召喚獣』であると分かった途端に彼が態度を変えたのではないかとアルヴァは勘繰ったのだが、当の本人はヘラヘラと笑うばかりで何も答えなかった。肩を揺さぶっても葵の反応は鈍く、彼女は何かに酔っているかのようなトロンとした目をしている。正気を失っている表情は平素の彼女からかけ離れたもので、徐々に嫌な予感が押し寄せてきたアルヴァは焦燥に駆られた。
「ミヤジマ?」
「あ〜、いいにおい〜」
「におい?」
「アルのにおい〜」
葵が妙なことを口走るので、ゾッとしたアルヴァは彼女から手を引いた。ベッドから離れて窓際に寄ったせいで、何かを踏んだことに気がついたアルヴァは目線を下方へと向けてみる。すると風で倒れたのか小瓶が砕け散っていて、中に入っていた液体が床に黒い染みを作り出していた。
(まさか……)
異変の理由に察しがついたことはアルヴァをさらに青褪めさせた。この砕け散った小瓶に入っていた液体はアルヴァの作り出した魔法薬で、この部屋には他にも同じような瓶が山のようにある。しかしそのほとんどはリラクゼーション用のもので、葵のように人格が変わってしまうような強烈な薬はここには置いていなかった。それでも、魔法薬というものに免疫のない葵は酔ってしまっている。しかも窓を全開にして、換気をしていたにもかかわらず、だ。
あまりの効き目に眩暈を覚えたアルヴァは、同時に平素の冷静さを取り戻した。原因さえ分かってしまえば、後の対処は事もない。まずは魔法で床を掃除し、室内にある魔法薬の全てを葵から遠ざけてから、アルヴァは開きっぱなしになっている彼女の口にカプセルを放った。それを飲み込んだ後も葵はしばらく呆けていたが、やがて彼女の漆黒の瞳にいつもの自我が戻ってくる。我を取り戻した葵はベッドの上から、キョトンとした表情をアルヴァに向けてきた。
「あれ、アル? いつ帰って来たの?」
口を開けばもういつも通りの彼女で、安堵と同時にひどい倦怠感を覚えたアルヴァは深々とため息をついた。
「ミヤジマ、君はもう学園へ行かなくていいよ」
魔法に対してこれほどまでに初な娘を、ハーヴェイの傍に置いておくわけにはいかない。そう思ってしまった瞬間に腹を決めたアルヴァは、つい素の口調で喋ってしまってから「しまった」と思った。
「なに、急に?」
「すみません、少し待っていてください」
話は後だと問答無用で葵を黙らせ、アルヴァはまず開け放たれたままだった窓を閉じた。そうして物質的に室内を外部から隔離してしまうと、今度は目を閉じてイマジネーションを働かせる。葵に魔力を見る能力があれば、このときアルヴァの体から発せられた魔力がじわじわと室内を覆っていく様を見ることが出来ただろう。魔力が室内を覆ってしまえば
「もういいよ。これで普通に喋れる」
「? 今、何かしたの?」
「ちょっとね。いつもだったら『部屋』へ移動するだけで済むのに、手間だな」
「……アルが何言ってんのか全然分かんない」
「順を追って説明するよ。まずは、お茶でも飲もう」
アルヴァが茶器に紅茶を淹れるよう命じると、葵は嬉しそうに瞳を輝かせた。ちょうど喉が渇いていたのだと、彼女は無邪気に言う。あんな暑い中で眠っていたのでは当然だと、アルヴァは葵にアイスティーを渡してやった。一息にグラスを干した彼女がおかわりをねだるので、それに応えてやってからアルヴァは本題を口にする。
「まず、学園にあった僕の部屋の話からしようか」
「アルの部屋って、あの窓のない保健室のことでしょ?」
何が何やら分からなさすぎて尋ねる機会を逸してしまってはいたがずっと気になっていたのだと葵が言うので、アルヴァは学園にあった『部屋』について説明を加えてやった。彼女はすでに魔法の卵やイミテーション・ワールドのことを知っていたので、ちゃんと説明をすればすんなりと理解を示してみせる。続いて、昨夜その『部屋』を葵が壊してしまったのだと明かすと彼女は目を見開いた。
「私の、せい?」
「結果的にはそうなるけど、ミヤジマは知らなかったんだから気にしなくていいよ。それより昨夜、何があったのか話してくれないか」
昨夜、ユアンの作り出したイミテーション・ワールドで何かがあったことだけはハッキリしている。しかしその話題になると、やはり葵は口をつぐんでしまった。
「じゃあ、聞き方を変える。昨夜、彼と寝たのか?」
「はあ?」
イエスとノーだけで答えられる問い方をすると、葵はあんぐりと口を開けてしまった。疑問の答えを得るにはその反応だけで十分であり、ひとまずホッとしたアルヴァは短く息を吐く。
「そうか。それならいい」
「ちょっ、勝手に話を完結させないでよ。意味が分からないんだけど」
「僕以外の男に肌を許すのはまだ早い、ということだよ」
「……ねぇ、それわざとでしょ?」
「何が?」
「……いい、何でもない。アッシュとは別れたから、そんなこともうないよ」
葵がうんざりした調子でぽろりと零した一言は、アルヴァにとって寝耳に水だった。別れの原因に召喚獣のことが絡んでいないとも限らないため、不安を煽られたアルヴァは葵を問い詰める。しかし葵は存外に冷めた表情で、アルヴァが危惧しているようなことは何もなかったと語った。
「どっちから別れを切り出したんだ?」
「その話はもういいでしょ。それより私の引っ越し先、決まった?」
あからさまに話を逸らした葵は、彼との別れの件については詳細を語るつもりがないらしい。昨夜の今日ならば、それも仕方がないことかもしれない。差し迫った疑問には答えを得ていたので、そう思ったアルヴァはこの場は手を引くことにした。
「以前に使っていた屋敷に戻る。だけど、どうせ三十日には出発するんだ。休みが明けるまでは屋敷でゆっくりしているといいよ」
「ゆっくりって……学校行くなってこと?」
「そうだね」
「いつもは行けって言うのに。何で?」
「聞いたら、後悔するかもしれないよ?」
「その意味ありげなのやめてよ。そんなの、聞けって言ってるようなもんじゃん」
葵が少し怒ったような口調で反論してくるので、アルヴァは先程の出来事を包み隠さず教えてやった。しかし正体をなくしていた葵には自ら迫って来た記憶はないようで、彼女はまったく信じていない様子で笑い飛ばす。
「私がアルに迫るなんて、あるわけないじゃん」
「そう? 僕にはまだはっきりと、ミヤジマの体の感触が残っているんだけどね」
「……いや、ない……でしょ?」
「僕のにおいが好きとか言ってたから、抱き合ってみたら思い出すかもよ?」
腕を広げながら少し距離を縮めると、葵は悲鳴のような声を上げながらベッドから飛び下りた。今度こそ予想通りの反応に、アルヴァは満足して腕を下ろす。しかし壁際まで遠ざかった葵はまだ警戒心を解いていないようだった。
「い、妹通り越して娘だって言ってたくせに!」
「そう、相手が僕だったから何事もなく済んだんだよ」
アルヴァが真顔で答えたのが利いたらしく、青褪めた葵は彼の提案を素直に受け入れた。その後で顔をしかめた彼女は伏し目がちに「でも……」と言葉を続ける。
「ずっとそのままってわけにもいかないんでしょ?」
「
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