七番目の月

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 夏月かげつ期最後の月である伽羅茶きゃらちゃの月の二十九日。その日も、夏の夜は穏やかに明けた。豪奢な飾り窓から差し込む斜光は大理石の床に複雑な影を映し出していて、日が昇るにつれて少しずつ位置を変えるその影は人知れずシャドウダンスを披露している。テラスに面した窓は少しだけ開いていて、爽やかに吹き込む朝の風が窓にかかっている薄手のカーテンを揺らしていた。

 室内の中ほどに置かれているキングサイズのベッドで目を覚ました葵は上体を起こすと、まだはっきりしない寝起きの頭を小さく振った。それから改めて周囲を見回すと、自分がやけに広い空間に身を置いていることが分かる。環境の変化にはまだ慣れていなかったが、まったく見知らぬ場所でもなかっただけに、葵は複雑な思いを抱きながらベッドを抜け出した。ここは葵がワケアリ荘に引っ越す以前に住んでいた屋敷である。勝手を知っているので不便を感じることは特になかったが、無駄に広いこの屋敷には他人の気配というものがない。アパートでの生活はすぐ隣に人が住んでいたため、葵は寂しさを感じながら寝室を後にした。

 とりあえず顔だけは洗ってきたものの、寝乱れた髪やネグリジェをそのままに葵が屋敷内を闊歩しているのは見咎める者がいないからだ。二階の端にある寝室から一階の隅にある食堂へと移動した葵は来客が十人いても平気そうな食卓に一人で着き、器具に料理を作らせる呪文を唱えた。しばらくして葵の前に出てきたのは、パンとコンソメのスープとサラダの朝食セット。このところ毎朝のように食べているそれは、昨日とも一昨日とも同じ味だった。

(飽きたなぁ)

 そう思うのならば別の料理を作らせればいいだけのことなのだが、葵は料理の名前をほとんど覚えていなかった。器具に料理を作らせるにしても、呪文スペルには一つ一つの料理の名前が組み込まれているのだ。つまり料理の名前を覚えていなければ、単純な無属性魔法を使うことも出来ない。半自動的に食事が出てくることに慣れすぎてしまった葵は自分の不甲斐なさを呪いたい気持ちになりながら味気ないパンを噛みしめた。

(みんな、どうしてるかな)

 一人で食事をしているとどうしても、ワケアリ荘での食事風景が蘇ってくる。あのアパートでは食事を一人でとることは滅多になく、食堂に行けば誰かしらの姿があったものだ。しかし葵には、その賑わいを懐かしむ資格がない。あの優しい空気に包まれた場所を捨ててきたのは、他の誰でもなく葵自身なのだから。

 不毛なことを考えながらのろのろと食事をしていると、不意に物音が聞こえたような気がした。一日に一度は必ず姿を見せるアルヴァが来たのではないかと思った葵は食器に片付けを命じてから食堂を後にする。しかしエントランスホールへ行ってみると、そこに佇んでいたのは予想外の人物だった。

「クレア!」

 数日ぶりに見た友人の姿に嬉しくなってしまった葵は慌てて彼女の傍へと駆け寄った。トリニスタン魔法学園の制服である白いローブを纏っているクレアは、走り寄って来た葵を見て破顔する。

「元気そうやないか」

「うん?」

 クレアの意図が分からないままに、葵は首を傾げてから頷いて見せた。しかし違和感を口にはしなかったため、クレアは何事もないように会話を続ける。

「これ、お嬢の荷物や」

 差し出された袋の中には葵の私物である鞄や高等学校の制服、それに魔法書やコンバーツというゲームのセットが入っていて、中身を確認した葵はクレアに礼を言った。

「ええって。あの夜はお嬢も大変やったやろ? 住む場所がいきなりなくなるいうんは難儀なもんやな」

 クレアが何気なく零した一言に、葵はまたしても首を傾げてしまった。どうも、話が噛み合っていない。そう感じた葵はクレアの言葉を止めさせ、疑問をぶつけてみた。

「住む場所がなくなったって、どういう意味?」

「アルから聞いてへんの? ユアン様の創ったイミテーション・ワールドが崩壊したって」

「えっ、聞いてない」

 クレアはケロリとした調子で何でもないことのように言ってのけたが、葵はギョッとした。それはつまり、あの青草の海に囲まれたアパートもなくなってしまったということなのだろうか。葵がそのことを尋ねてみると、クレアはまたしてもアッサリと肯定する。

「まあ、卵はいつか割れるもんやてユアン様が言うてたからなぁ。うちもマトもけっこう気に入ってたさかい、残念やけどしゃーないわ」

「そ、それって、何が原因でとか聞いてる?」

「詳しいことは知らん。それよりお嬢、アッシュとは連絡取れてるんか?」

 クレアが不意に持ち出した名前に、葵は表情を凍らせた。それを連絡が取れない不安からきているものだと解釈したらしいクレアは、慰めるように葵の肩口へ手を乗せる。

「そんな顔せんでも、大丈夫や。うちがちゃんとユアン様に聞いておくさかい」

「ち、違う! もう、いいの」

「もういい? それ、どういう意味や?」

 理解出来ないと言わんばかりに首を傾げているクレアに、葵はアッシュとは別れたのだということを告げた。顔を強張らせたクレアは一度唇を引き結び、それから改めて口火を切る。

「ちょお、話しよか?」

「……うん」

 エントランスホールで立ち話をする内容でもないので、葵とクレアは屋敷の二階にある葵の寝室へと移動した。葵が別れに至るまでの出来事を説明すると、黙って耳を傾けていたクレアは話が終わるなり息を吐く。

「お嬢。それはアッシュが可哀想なんやないか?」

「……うん。分かってる」

 葵は思っていることを何も語らずにアッシュに別れを告げた。話し合いをする場すら設けてあげなかったことは彼に対する裏切りであり、アッシュの心をひどく傷つけただろう。それが分かるようになったのはワケアリ荘から逃げ出して、アルヴァの部屋で目覚めた後のことだった。

「アッシュに謝らなきゃ」

 自分のすべきことを見つけたような気になった葵は、贖罪の念に駆られた。しかしクレアは葵の背を後押しすることはせず、逆に冷静になるよう諭してくる。

「その必要はないと思うで?」

「……え?」

 ついさっきまではアッシュが可哀想だと言っていた彼女がまさか反対するとは思わず、葵は呆気に取られてしまった。一人でしたり顔になっているクレアは悠然と腕を組み、意味もなく頷きながら言葉を重ねる。

「お嬢の気持ちを伝えて話し合っても、元の鞘に収まるわけやないんやろ?」

「……うん」

「せやったら、言う必要あらへん。お嬢がその本音言うたらアッシュ、もっと傷つくで?」

「…………」

「こんな風に生き別れるんやったら、それがお嬢とアッシュの主命メーテルやったんや。アッシュが諦められん言うて追いかけてきおったら立派やけど、そないなことまず有り得へん。お嬢の前ではカッコつけとったけど、アッシュはヘタレやからな」

 クレアがあまりにも堂々とアッシュの人柄を断言するので、神妙に話を聞いていた葵も思わず吹き出してしまった。するとそれまでの緊張感は一気に和らぎ、少し気が楽になった葵は雑談に転じる。

「ところで、メーテルって何?」

「オルドゥル・デュ・メーテル。幸・不幸のめぐりあわせのことや。この国では天命デスタンとも呼ばれとる」

「運命、みたいなものかな?」

「へぇ。お嬢の国ではウンメイ言うんや?」

 クレアとそんな話をしたからなのか、葵の脳裏にはアルヴァがいつか言っていた『世界の監視者』という単語が蘇っていた。それは即ち、この世界の創造主のことであり、もしもそんな者が実在するのならば葵が元の世界へ帰る方法を知っているのではないかという話だ。

(いるのかな、カミサマ)

 世界を知る旅で、その片鱗でも見つけることが出来たなら。そんな願いを抱いた葵は祈るような気持ちで指を絡ませた。

「ところでお嬢、明日の儀式には出るんか?」

 明日は、伽羅茶の月の三十日。夏の終わりである。迎夏げいかの儀式を目にしている葵としては夏の終わりがどうやって訪れるのかも見たいのだが、それは葵の一存で決められることではなかった。

「うーん、アルに相談してみないと分からないなぁ」

「もし行けそうやったら一緒に行こうや」

「うん。一緒に行きたい」

「うち、トリニスタン魔法学園の儀式を見るんは初めてなんよ。楽しみやわ」

 クレアが喜々として語るので彼女と一緒に学園の行事に参加してみたいと思った葵は、その旨をアルヴァに話してみることにした。






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