普段は何も描かれていないグラウンドに、今宵は巨大な魔法陣が描かれていた。グラウンドを取り巻くように集っている白いローブの群れに紛れて見物していたら、きっとその全体像を窺うことは出来なかっただろう。それほどまでに巨大な魔法陣を、葵は校舎の五階の一室から見下ろしていた。隣にはクレアが佇んでいて、彼女は興味深げにグラウンドへと目を注いでいる。
「あれが儀式用の魔法陣いうわけやなぁ」
マトと二人で「立派だ」と言い合っているらしいクレアが、魔法陣の意味を本当に理解しているのかどうかは定かではない。ただ確かに、その規模は驚くに値するものだった。
「なるほどなぁ。この場所取りのためにクラス対抗戦なんちゅーもんが行われとるわけや」
クレアが口にしたクラス対抗戦とは、アステルダム分校の女子生徒による女の闘いである。そんな闘いが行われる理由は、ただ一つ。誰よりも近くでマジスターを見るためだ。しかし闘いが白熱していたわりには、一般の生徒が集っている場所はマジスターからあまりにも遠かった。魔法陣自体がかなりの大きさを有しているため、あれでは最前列にいてもマジスターの顔さえ見えないだろう。
「あれ、顔見えるんかいな?」
クレアも同じことを考えていたらしく、訝しげな口調で問いかけてくる。葵が無理だろうと答えると、クレアは苦笑いを浮かべた。
「なんや、ちょお切なくなってきたわ」
「うん……そうだね」
「ま、あいつらのことはええわ。時にお嬢、
クレアがグラウンドを指差すので、葵は小さく首を振ってみせた。
「ううん。アルと一緒にここから見てた」
「そういや、アルは何でおらんの?」
「用事を済ませてくるとか言ってたけど」
「そら残念や。解説してもらおう思っとったのに」
「あー、そうだね」
確かに、アルヴァがこの場にいれば色々なことを教えてもらえただろう。彼は自分が絡む話にはなかなか口を割らないが、純粋に知識を教授する時には教えを受ける側が解り易いようにちゃんと説明を加えてくれるからだ。
(どっかで見てんのかな?)
葵がそんなことを考えていると、静まり返った校内に鐘の音が響いた。それは通常時のようにはっきりした音色ではなく、空耳かと思うほどか細い音だった。実際、現実か空耳かの区別がつかなかった葵は周囲を見回す。
「始まるみたいやで」
鐘の音には構わずに窓の外を注視していたクレアが声をかけてきたので、葵はやはり空耳ではなかったのかと思いながら視線を戻した。窓の外を見るとちょうど誰かが魔法陣に入って来たところで、中央の
「あの黒い人、誰だろう?」
迎夏の儀式もそうだったのだが、こうした大掛かりな魔法は学園のエリート集団であるマジスターが執り行う。白いローブを着ている三人がキリル・ウィル・オリヴァーであることは分かるのだが、四人目の人物に葵は心当たりがなかった。しかし疑問に思っているのは葵だけのようで、クレアは確信に満ちた口調で答えを口にする。
「ハーヴェイ様や」
校舎からグラウンドまではかなりの距離があり、どんなに目を凝らしてもグラウンドに佇む人物の顔までは分からない。それでもクレアが即答したのは、彼女が顔形ではなく魔力によって個人を識別したからだ。
「ものごっつぅ、ツイてるわ。ハーヴェイ様が儀式に臨むお姿を見れるとは思わんかった」
「……嬉しそうだね?」
「そら嬉しいわ。こないな機会、そう滅多にあるもんやあらへん」
瞳を輝かせてグラウンドに見入っているクレアの反応が不思議な気がして、葵は首を傾げた。クレアはユアンの私用人で、ユアンは貴族である。そういった人に仕えていればパーティーやら儀式やらには慣れているのではないかと、なんとなくそんなイメージを抱いていたからだ。しかしクレアが言うには、そういった公の場で伴をするのは家庭教師の仕事らしい。
「お忍びのときは、よう駆り出されるけどなぁ。メイドっちゅーのは基本、屋敷を護ることが仕事やさかい」
「へぇ、そうなんだ?」
クレアと雑談をしているうちに儀式の準備が整ったらしく、グラウンドに描かれている魔法陣が、放つ光を強め始めた。クレアがその様子に見入ってしまったので、葵も閉口して窓の外へと視線を転じる。ローブ姿の四人はそれぞれが五芒星の頂点に佇んでいて、迎夏の儀式を思い出した葵は懐かしいような物悲しいような、複雑な気分になった。
夏を迎える儀式を行った時、アステルダム分校にはまだマジスターが五人いた。そのため五芒星の頂点に空きはなかったのだが、今は応援要員が入っても、点の一つが欠けている。日常から欠けてしまった大切な人達の姿を思い浮かべた時、葵は自然と胸に手を当てていた。
(元気にやってるかな?)
王都にあるトリニスタン魔法学園の本校へ行ってしまった彼らも、今夜はきっと同じ夜空を見上げている。そう思うと胸が温かくなるのはおそらく、彼らと過ごした日々が思い出に変わっているからだ。
(ハル……)
あのころ感じたときめきは、どうしようもなく恋だった。胸が張り裂けそうな痛みも味わったけれど、好きになったことを後悔してはいない。そうして初恋を振り返ることが出来るようになった今だからこそ、思う。寂しさを紛らわせるための恋は本物ではないのだ。
(もう、二度としない)
困惑していたアッシュの顔をしっかりと瞼の裏に焼きつけ、葵は自分自身を戒めた。刹那、隣で嘆息が零れる。ハッとした葵がグラウンドに目を移すと、魔法陣から発せられた光が柱となって天に立ち上っていた。天頂に浮かんでいる月を目指している光は一本ではなく、あちこちから立ち上る光が夜空で収束していく。それらはやがて天で弾け、大地に光の雨が降り注いだ。
「ハデやなぁ」
隣からクレアの声が聞こえてきたが、葵にはまぶしすぎて直視することが出来なかった。まるで夕立のように、ひとしきり降ってしまうと夜を切り裂いていた光は一気にその輝きを失う。再来した夜に慣れるために瞬きを繰り返していた葵は、改めて目に飛び込んできた光景に言葉を失った。
儀式の途中まで、夜空には伽羅茶色の二月が浮かんでいた。だが今は、物の輪郭をぼやけさせるくすんだ色彩の月明かりは注いでいない。二月もすでに姿を消していて、代わりに夜を支配していたのは怖いほど鮮やかな紅の月だった。
「七番目の月や。夜空にお月さんが一つだけなんて久しぶりやなぁ」
血を流したように紅い空にも動じることなく、クレアは呑気な独白を零すと窓を開けた。すると迎夏の儀式が終わった直後のように空気が入れ替わっていて、肌寒いくらいの風には夏の名残が微塵も感じられない。しかし空気の変化よりも、葵の目は真っ赤な月に釘付けになっていた。
「なんや、お嬢? そないに珍しいもんでも見るような目ぇして」
ひょっこりと視界の片隅に現れたクレアが目線の先を追うような仕種をしたため、我に返った葵は慌てて月から目を逸らした。
(あれ?)
視線を転じた先でふと違和感を覚えた葵は小首を傾げながらグラウンドを注視した。巨大な魔法陣が描かれたグラウンドではマジスター達がまだ五芒星の頂点に佇んだままだったのだが、その光景に何か妙な点があるような気がしたのだ。違和感の正体が『人数』であることに気付いた時、葵は無意識に独白を零していた。
「アル?」
アルヴァの名前に反応を示したクレアが顔を傾けてきたが、彼女が葵に話しかけるより前に異変が起こった。儀式が終わったはずの魔法陣が再び輝き出し、また光が立ち上ったのだ。しかしそれは天までは届かず、まるで目隠しのようにグラウンドだけを覆っている。と、思いきや、今度はその光の内側から炎が飛び出してきた。雛が卵の殻を破るように飛び出てきた炎は辺りを蹂躙し、グラウンドの周囲に集まっていた生徒達にも容赦なく襲い掛かる。グラウンドは一瞬でパニックに陥り、その余波が校舎の方にも流れてきたため、クレアが慌てて窓を閉めた。
「何やったんや、あれ」
暴走かいなと愚痴を零すクレアが息を切らせているのは窓を閉めた後、グラウンドから一番遠い校舎の北辺へと移動してきたからだ。乱れた呼吸を整えてから、葵はクレアの疑問に「さあ?」と応える。
「よく分からないけど、儀式は終わったんだよね?」
「せやな。儀式は終わってると思うで」
窓から差し込む紅い月明かりに視線を転じながらクレアが言うので、葵はアルヴァとの待ち合わせ場所に行くことを彼女に告げた。それを聞いたクレアは納得したように手をポンと叩き、葵に人差し指を突きつける。
「それで、そないな格好しとったんや?」
本日の葵の服装はトリニスタン魔法学園の制服であるローブではなく、白いワイシャツにチェックのミニスカートという高等学校の制服姿である。クレアに頷いて見せた葵は「これが一番動きやすいから」と付け加えてから表情を改めた。
「じゃあ、行ってくるね」
「気ぃつけてな。アルを襲わんように」
「襲わないよ!」
クレアは軽快な笑い声を上げると「また来年」という言葉を残して歩き出す。苦笑いでクレアに別れを告げた葵も踵を返し、一階にある保健室へ向かうために階段を下った。
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