お引っ越し

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 夏月かげつ期中盤の月である橙黄とうこうの月の三十日、雲一つない夜空には今夜も二つの月がぽっかりと浮かんでいた。月初めにはオレンジの色味が濃かった月もこの頃になるとだいぶくすんだ色合いになり、茶に近い暗い月光が広大な庭園に降り注いでいる。月明かりを浴びて色彩を変える庭園は月光が鮮色であるほど美しく、鈍い輝きを映した庭は元が美麗であるだけに、少し不気味にさえ感じる眺めとなっていた。夜に咲く花々がくすんだ月光を受けて怪しい美しさをまとう庭園は、とある屋敷の裏庭にあたる。その屋敷の二階の隅にある一室では大きくとられた窓が開け放たれていて、夏の夜風が薄手のカーテンを微かに揺らしていた。窓の先にはテラスが設えられていて、そこに少女の姿がある。ネグリジェ姿でテラスに佇んでいる少女の名は宮島葵といい、彼女は庭園ではなく鈍い光を発する月に目を向けていた。

 葵は二月が浮かぶこの世界の生まれではなく、夜空に一つしか月が存在しない異世界の者である。葵が生まれ育った世界では、夜の色はいつも代わり映えのしないものだった。しかし二月が浮かぶこの世界では、一ヶ月が過ぎるごとに驚くほど鮮明に夜が色彩を変える。窓辺を照らす月明かりを眺めていたらふとそんなことに思い至ったため、葵はテラスへと出てみたのだった。

(最初は青っぽい光、だったっけ)

 葵のいた世界で言う一月は、二月が浮かぶ世界での『白銀の月』に相当し、この世界ではその後、白殺し・秘色ひそく岩黄いわぎ・橙黄・伽羅茶きゃらちゃ・炎の月と暦が巡っていく。葵がこの世界へやって来たのは秘色の月の初頭であり、そのため月明かりに青味がかっていたのだ。橙黄の月最終日のこの夜が明ければ、明日からは伽羅茶の月。葵がこの世界で暮らし始めてから五ヶ月目に突入、というわけである。

 この四ヶ月の間には、様々なことがあった。それらの出来事をぼんやりと思い返していた葵は記憶に新しい最悪の出来事を頭に浮かべてしまい、ムッとした。

(やめよう)

 憤りや怒りに感情を支配されるくらいなら、その無駄な時間を勉強に費やしたい。そう考えることで早々に頭を切り替えた葵は感傷に浸ることをやめ、テラスから室内へと引き返した。すでに月が昇っている時分のため、人工的な明かりのない室内では窓からの月明かりが最大の光源である。活動するには不自由のない明るさだが机に向かうとなると、少々暗かった。

 魔法が存在するこの世界では、暖をとるのも明かりをつけるのも、ほぼ全てのことに魔法を使うのだが、この世界の生まれではない葵には自身の力で魔法を使うことは出来ない。一人では部屋を明るくすることさえ出来ないため、葵は部屋に使用人を呼ぶことにした。メイドのクレア=ブルームフィールドは葵と同年代くらいの少女で、ワニに似た魔法生物を連れている。どんなに離れた場所にいても魔法生物のマトが呼び鈴の音に反応するため、クレアを呼ぶには小さなベルを鳴らすだけで事足りるのだった。

 葵がベルを鳴らすと、ほどなくしてメイド服姿のクレアが姿を現した。彼女がワゴンと共に寝室へ進入してきたため、お茶を頼んだ覚えのない葵は微かに眉根を寄せる。

「部屋を明るくしてほしくて呼んだんだけど……」

 机に向かうには月明かりだけでは足りないからと葵が付け加えると、今度はクレアが小さく眉をひそめた。

「ナイト・ティーをお淹れいたします。本日はもう、お休み下さい」

 クレアが宥めるようにそう言ったのは、このところ葵が勉強ばかりしているからである。トリニスタン魔法学園に行かなくなったことを機にクレアを指導者に見立てた葵は朝となく夜となく、とにかくひたすらに勉強をしているのだ。今朝も早くから夕食後まで葵に付き合わされているので、クレアはもううんざりしているのかもしれない。そう思った葵は無理強いをせず、大人しくベッドに向かうことにした。

 葵がベッドに腰を落ち着けると、クレアは月明かりが差し込む窓辺で紅茶の準備を始めた。アーリーモーニングティーを淹れる時もアフタヌーンティーを淹れる時も、クレアはいつもそこで作業をする。すっかり見慣れてしまった光景を葵が何となく眺めていると、手際よく紅茶を淹れたクレアがベッドに近寄って来た。

「わたくしがお嬢様のために紅茶をお淹れするのは、これが最後になります。明朝からは平素のように、市販の茶器に命じて下さい」

 ソーサーごとティーカップを受け取った葵は、それを口元へ運ぼうとしたところで動きを止めた。

「それ、どういう意味?」

「わたくしはユアン=S=フロックハート様のご下命を拝し、このお屋敷でメイドとして働いてきました。その契約期限が、今宵までなのです」

 まだ日付が変わる前の本日は、橙黄の月の三十日である。この世界の一ヶ月は三十日と決まっているので、明日からは伽羅茶の月に入る。クレアが突然やって来たのが橙黄の月の頭ごろだったので、契約は一ヶ月だったということなのだろう。クレアがいなくなると不都合なことが増えてしまうが、葵は彼女を引きとめようとは思っていなかった。

「そっか。色々と、ありがとね」

「それがわたくしの仕事です。お嬢様が使用人に礼を言われる必要はございません」

 初めて顔を合わせた時から、クレアの態度は『あくまで自分は使用人』という徹底したものだった。それが最後まで崩れないことに妙なおかしさと愛着を感じつつ、葵は笑みを浮かべる。

「ユアンの所に戻るんだよね?」

「はい」

「じゃあさ、ユアンに直接伝えて。連絡ほしい、って」

 葵はクレアを通して、ユアン=S=フロックハートという少年と連絡を取ろうとしていた。しかしユアンはかなり多忙な身らしく、未だに彼との連絡は取れていないのだ。こちらから連絡する術がない以上は他にどうすることも出来ず、葵はクレアに伝言という形で望みを託したのだった。

「畏まりました。では、失礼いたします」

「うん。マトも、バイバイ」

 葵が手を振ってみても、クレアの肩口で寝そべっているマトは特に反応を示さなかった。彼の主人であるクレアも自身の肩口を一瞥しただけで、特にマトを促したりするような様子も見られない。マトから目を上げたクレアは葵に改まった一礼をして、淡白な別れを告げた主従はワゴンと共に寝室を出て行った。

(明日からまた一人、か)

 無駄に広いこの屋敷には、葵とクレアしか住んでいる者はいない。しかし元々は、葵はこの屋敷で一人暮らしをしていたのだ。魔法を刻まれた道具が家事を勝手にやってくれるので、使用人がいなくなっても生活面での不便さはそれほど感じないだろう。問題はそのことよりも今後の勉強を誰にみてもらうか、である。このところ不登校を続けているトリニスタン魔法学園へ行けば、教えを乞うことの出来る人物に一人だけ心当たりがあった。だが彼にだけは、もう絶対に頼らない。そう心に決めている葵は温くなってしまった紅茶を一息に干し、空になったティーカップをテーブルの上に置いた。

(何とかなるよ、きっと)

 導いてくれる人がいないと能率は悪くなってしまうかもしれないが、もともと勉強は一人でやるものである。とりあえず寝て、起きてから物事を考えることにした葵はキングサイズのベッドに転がって瞼を下ろした。






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