お引っ越し

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 夏月かげつ期最後の月である伽羅茶きゃらちゃの月の三日。パンテノンという街の郊外にある、とある貴族の邸宅に、一人の少年が姿を現した。長い茶髪を無造作に束ね、がっちりとしたスポーツマンタイプの体躯をしている彼の名は、オリヴァー=バベッジという。転移魔法を使ってこの屋敷をおとなったオリヴァーは魔法陣を抜け出すと、屋敷の玄関口である二枚扉を軽くノックした。しかしいくら待ってみても、屋敷内からは反応が返ってこない。不審に思ったオリヴァーは自らの手で扉を開き、エントランスホールで声を張った。

「おーい、クレアー」

 クレアという人物は、この屋敷のメイドである。以前に訪れた時はすぐに彼女が対応に出て来たのだが、今日は呼びかけてみても姿を現す気配がない。使用人の許しなく他家を歩き回ることはマナー違反とされているため、オリヴァーは所在無くその場に立ち尽くした。

 手持ち無沙汰になってしまったオリヴァーはエントランスホールの中央にある階段まで移動し、そこに腰を下ろしてクレアが現れるのを待つことにした。しかし腰かける動作を起こす前に、ある異変に気がついて動きを止める。階段に設えられている手すりから手を離したオリヴァーは、今度は指で手すりをなぞってみた。すると指に、埃と思しきものが付着する。これは常に清潔に保たれているはずの貴族の屋敷においてあるまじき出来事だった。

 眉根を寄せながら指を拭ったオリヴァーは足下に視線を移し、そこで目にした曇った床に驚きを露わにした。よくよく見れば磨かれた形跡がないのは床だけでなく、階段や窓枠にも薄っすらと埃が積もっている。大理石の床にいたっては目を凝らせば足跡まで見える始末であり、オリヴァーは改めてこの屋敷に変事が起きていることを察した。

 屋敷内を観察していると不意に遠くの方でガシャーンという音がしたため、オリヴァーは急いで音の聞こえてきた方向へと向かった。破壊音はどうやら、厨房と思われる場所から聞こえてきたようである。オリヴァーがその場所を覗くと、そこには床に散らばった調理器具を前に立ち尽くす黒髪の少女の姿があった。

「アオイ」

 オリヴァーが声をかけると呆けたように立ち尽くしていた葵が顔を上げた。その漆黒の瞳にオリヴァーの姿を映すなり、葵は驚いた表情になる。

「オリヴァー? 何やってんの?」

「それはこっちの科白だって。何やってんだ」

 オリヴァーの視線が床に落ちたため、それを追って自分の足下に目を落とした葵は苦い表情をした。

「これは、その……」

 料理をする準備をしようとして散らかしてしまったのだと、葵は言う。彼女の言葉に不可解さを募らせたオリヴァーは小さく首を傾げた後、一人で納得して頷いた。

「そうか、アオイは魔法が使えないから自分でやるしかないのか」

「うん、まあ……そうなんだけど……」

「あれ? でも、それって何かおかしくないか?」

 自分の発言に違和感を覚えたオリヴァーは、自分ですぐにその答えを見つけた。本来であれば、この場所にいるべき人物は屋敷の主である葵ではない。葵が四苦八苦する前に、料理などの家事は使用人がやるべきことなのだ。

「クレアは?」

「何でオリヴァーがクレアのこと知ってるの?」

「前に来たとき名前聞いた」

「ああ、そういえば……」

 そんなこともあったねと、葵は遠い目をしながら独白する。屋敷内だけでなく葵の様子もそこはかとなく変だったので、オリヴァーは眉をひそめながら言葉を次いだ。

「留守なのか?」

「留守っていうか、もういない」

 葵の話によるとクレアは期間限定の使用人で、契約期間を終えた彼女は本来の雇用主の所へ帰ってしまったらしい。そのため葵一人が屋敷に取り残されたのだが、厄介なことに彼女は魔法を使えないのである。魔法を使えないということは何をするにも自分でやらなければならず、家事に不慣れな葵は掃除はおろか日々の食事さえ満足に取れていないらしかった。

「なんだ、それならそうと言ってくれればいいのに」

 不健康な顔色をしている葵から視線を外し、オリヴァーはまず『アン・ナントゥルポゼ』と呪文を唱えた。オリヴァーの呪文に命じられた調理器具はひとりでに宙を舞い、棚や引き出しへと収まっていく。片付けついでに屋敷内にある清掃道具を召喚したオリヴァーはそれらに掃除を命じ、それから改めて葵を振り返った。

「飯は何にする?」

 ぽかんと口を開けたままオリヴァーの動きを見ていた葵は、声をかけられたことで我に返ったようだった。よほど腹を空かせていたのか、彼女は切実さを表情に滲ませながら口火を切る。

「お風呂に入りたい」

 葵からの申し出は予想外なものであり、困惑してしまったオリヴァーは思わず身を引いた。






 橙黄とうこうの月の三十日にクレアが屋敷を去ってから、早三日。たった三日の間に、葵は自分が何も出来ないことを痛感していた。クレアが来る以前はこの屋敷で一人暮らしをしていたわけなのだが、その時は料理も掃除も無属性魔法を刻まれた道具が呪文一つでやってくれていた。しかし今は、ある事情から魔法を使うことが出来ない。全てを自分でやるしかないという『本当の一人暮らし』を経験して初めて、葵は自分が誰かに支えられながら生きていたのだということを実感したのだった。

 同じ状況下でも、慣れ親しんだ生活習慣の中であればもう少しまともな生活が送れたかもしれない。だが生まれ育った世界ではボタン操作一つで沸く風呂も、この世界では水を風呂桶まで運ぶことから始めなければならない。魔法ならば呪文二つくらいで済むことなのだが、これを手作業でやるとなると大変な労力である。夏場ではあってもさすがに冷水に体を浸すことは出来なかったため、葵は三日ほど風呂に入れていなかった。そのためオリヴァーが訪ねて来てくれたことは彼女にとって奇跡のような出来事だったのだ。

 三日ぶりとなる入浴を終えて食堂へ行くと、そこにはすでに豪勢な料理が並べられていた。三日ぶりとなる食事を前に、葵の腹の虫が騒ぎ出す。それを聞いたオリヴァーが呆れたような顔をした。

「どーぞ、召し上がれ」

「うわぁ、いただきます!」

 食べることの出来る喜びを噛みしめながら、葵は泣きたいような気持ちで三日ぶりの食事を堪能した。葵が食事をしている間、テーブルに頬杖をついて眺めていたオリヴァーがふっと笑みを零す。

「なんか、ペットの世話焼いてる気分だな」

 オリヴァーが食後の紅茶まで淹れてくれたので、ペット扱いされたことよりも人心地ついたことの方が重要だった葵は改めて感謝の思いを言葉にした。

「ありがと。ほんと、助かった」

「それはいいけどさ、男に風呂の世話までさせるのは大問題だろ。早く新しい使用人を雇った方がいいぜ?」

 誘われてると勘違いされるからと、オリヴァーは軽口のノリで言う。そんなことに構っていられなかった葵には苦笑いを浮かべることしか出来なかった。

「そういえば、何でオリヴァーがここにいるの?」

 葵がいまさらながらの疑問をぶつけると、オリヴァーは「遅っせー」と言いながら笑った。自分でもそう思ったので、葵は所在無く頭を掻いてみる。ひとしきり笑った後、オリヴァーは穏やかな笑みを表情に残しながら答えを口にした。

「ちょっと心配だったんだよ」

「心配って……何が?」

「キルがまた何かしたみたいだったからさ。アオイが最近学園に来てないのはそれが原因かと思ってな」

「ああ……」

 そのことかと、葵は胸中で呟きを零した。

 橙黄の月の終わり頃、葵はキリル=エクランドという少年のせいで大切に思っていた人達に別れを告げられた。しかし葵がトリニスタン魔法学園へ登校しないのは、何もキリルのせいだけではない。そして、いくらキリルの友人であるとはいえ、オリヴァーには何の責任もない話なのだ。

「あいつのしたことには確かに腹が立ったけど、学校へ行かないのはそれだけが原因じゃないから」

「他にも何かあったのか? 俺で良ければ話、聞くけど?」

 オリヴァーの言葉が同情から出たものだったのか、それとも好奇心からくるものだったのかは、分からない。だがオリヴァーにそう尋ねられた時、葵はこの世界へ連れて来られてからの出来事を一切合切ぶちまけてやろうかという気になった。そんな気分になってしまったのは偏に、アルヴァ=アロースミスという青年の悪行のせいだ。しかし凶暴な気持ちはすぐ虚しさに取って替わられ、葵は小さくため息をついた。

(そんなことして何になるのよ)

 嫌なことをされたから嫌がらせを仕返す。そんなことをしても、きっと気分が晴れるのは一時だけだ。そう思い直した葵は返答を待っているオリヴァーに苦笑を向けた。

「ありがと。でも、大丈夫だから」

「そうか? なら、いいけど。あんまり無理するなよ?」

 どうやらオリヴァーは本気で心配してくれているようで、何かあったらいつでも来いと言い置いてから帰って行った。オリヴァーの優しさは心に沁みたものの、彼はトリニスタン魔法学園アステルダム分校のエリート、マジスターなのである。エリートに関わるとろくなことがないということを身を持って経験している葵はオリヴァーの心遣いに感謝はしつつも、頼ることはないだろうなと心の中で呟いた。






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