お引っ越し

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 平坦な大地に茂った青草が夏の風に揺れていた。野原のあちこちでは名前があるのかないのかも分からない小さな花が咲いていて、青草との美しいコントラストを描き出している。草の海の他には何もない場所に、ユアンの言う『新居』はひっそりと佇んでいた。

「……もしかして、あれ?」

 ユアンの転移魔法によって草原の只中に出現した葵は、前方に佇む建物の外観に一抹の不安を覚えながら隣にいる少年を振り向いた。葵の指し示している先には今まで見学してきた豪奢な屋敷とは対極に位置する、おんぼろで、こじんまりとしたアパートが建っている。内部まではまだ見ていないものの斜光を浴びて薄気味が悪くすら感じる古いアパートに、葵は自分の発言を後悔し始めていた。しかし葵がそんなことを考えているなどとは知らないユアンは笑顔で頷く。

「行こう。管理人に紹介する」

 今さら嫌だとも言えず、葵はユアンに手を引かれながら草原を歩き出した。遠目からでも古めかしい雰囲気を漂わせていたアパートは近くで見れば見るほどおんぼろで、一見すると廃墟のように壁などがひび割れている。しかしその佇まいが西洋風のアパルトマンというよりは日本の古めかしい民宿や旅館に近いものだったので、その点で少し、葵の拒否感は和らいだ。

(なんか……ちょっと和風?)

 ユアンから貸し与えられた屋敷にしろ、パンテノンの街並みにしろ、この世界の建造物は大体が西洋風である。行動範囲が狭いので知らないだけなのかもしれないが、葵はこの世界へ来てから初めて目にした和風の建造物に妙な懐かしさを覚えていた。そしてそれは、二階建てアパートの一室の扉を開けると同時に驚愕へと変わった。

「タタミ!?」

 畳の敷かれた部屋は葵に一瞬、ここが異世界だということを忘れさせた。畳がこの世界に存在していることもさることながら六畳一間という部屋の構造自体が、生まれ育った世界のそれと酷似していたのだ。だが驚いているのは葵だけで、彼女に先立って室内に進入したユアンは平然としたまま顔を傾けてくる。

「アオイの所ではそう呼ぶんだ? ここではトリコート・エルブって呼ばれてるよ。珍しいものだから香りを嫌がる人が多いけど、僕はこの青草の匂いが好きなんだ」

 だから時たまこの場所を訪れるのだと、ユアンは邪気のない笑顔で語った。呆気に取られながらユアンの話を聞いていた葵も、畳の青い匂いに癒されて次第に平静さを取り戻していく。すると今度は強烈な郷愁が胸に迫ってきた。

(ああ……帰りたい)

 畳の香りが次々と記憶を呼び覚まし、元いた世界での友人や両親の顔が浮かんでくる。しかし望郷の思いに駆られたのも束の間、葵の感慨は第三者のひどく明るい声によってぶち壊された。

「Viens! 会えて嬉しいよ、トリックスター!」

 調子外れな声と共に何もなかったはずの場所から室内に姿を現したのは、二十代後半と思われる青年だった。少し吊り目の彼は目鼻立ちの整った顔つきをしているが、それ以上に目を引くのが彼の髪型である。その青年は黒を基調とした髪の一部を黄色に染めるという奇抜な髪型をしていたが、それがまた不思議とよく似合っていた。青年に笑顔で歓迎されたユアンもまた、彼に対して親しげな調子で話し出す。

「僕もだよ、クレッセント・ムーン。ここに来るとトリコート・エルブの香りに癒されるんだ」

「少し前から君が来るような気がしていたからね。トリコート・エルブを新調しておいたんだ」

「予感、というやつだね? いや、天命デスタンと言った方がステキかな」

「splendide! けれど僕の超感覚は君の目的までは教えてくれなかった。仔猫ちゃんキッティーに用事かい?」

「彼女には後で会いに行くよ。その前に、この子にニックネームをつけてあげて欲しいんだ」

 それまで蚊帳の外に置かれていた葵はユアンからの突然の指名にギクリとした。クレッセント・ムーンと呼ばれた青年までもが視線を傾けてきたので、葵は慌ててユアンに話しかける。

「ニックネームなんていらないよ。フツウに自己紹介すればいいだけの話でしょ?」

「アオイ、このアパルトマンの名前を見なかったの?」

「アパートの名前?」

 そんなものを見た覚えのなかった葵は眉根を寄せながら宙を仰いだ。葵の反応を見たユアンは問いかけても無駄だと判断したのか、すぐさま自分で答えを口にする。

「大草原の小さな家プティ・メゾン、その名も『ワケアリ荘』だよ」

「ワケアリ荘って……」

 ユアンの科白を繰り返しながら、葵はあからさますぎるネーミングセンスに呆れてしまった。だが恥ずかしげもなくアパートの名前を口にしたユアンは、葵と同じ感想を抱いてはいないようだ。彼はすぐさま葵を捨て置き、再びクレッセント・ムーンに向かう。

「どう? いいニックネームが浮かんだ?」

お嬢さんマドモワゼル、僕に真名バプティスマ・ネームを教えてくれるかい?」

 不意に管理人の青年が顔を寄せてきたので、驚いた葵は慌てて身を引いた。狼狽えている葵を見てニヤッと笑ったユアンが、何かを思い立ったかのような様子で管理人に顔を傾ける。

「それでいいよ、ムーン。彼女はお嬢マドモワゼルだ」

「マドモワゼル、ワケアリ荘へようこそ。君の部屋は202号室だよ」

 鶴の一声であだ名が決まってしまったらしく、管理人は葵の手を取ると小さな鍵を握らせてきた。どうすればいいのか分からなかった葵は掌に鍵を乗せたままユアンを振り返る。目が合うと、ユアンは柔らかく微笑んで見せた。

「僕は彼に話があるから、アオイは先に部屋を見てきなよ」

 余人には聞かれたくない話をするのか、ユアンはそう言うと葵を室外へと追い立てた。背後でぴっちりと扉が閉められてしまったため、まだ状況に対応出来ないでいる葵は茫然と立ち尽くす。だがいつまでもそうしていても仕方がないのでとりあえず部屋を見てみようと思い、歩き出した。

 管理人から渡されたのは複数の鍵がリングでまとめられている鍵束で、その一つには『202』というタグがついていた。202号室というからには、おそらく部屋は二階にあるのだろう。そのため葵は外階段を上り始めたのだが、錆びた鉄製の階段は一段上るごとにギシギシと音がするような壊れかけだった。

(うわぁ……大丈夫なのかな、これ)

 生まれ育った世界では、葵はファミリータイプのマンションに住んでいた。アパートと呼ばれる建物へも行ったことはあるが、これほど古い建造物に進入するのは彼女にとって初めての経験である。思い切り踏みつけたら壊してしまいそうで、葵はゆっくりと時間をかけて階段を上りきった。

 二階部分へ辿り着くとそこは予想に反さず、やはり古ぼけた佇まいを見せていた。日中に見学してきた豪奢な屋敷とは世界が違うのではないかと思えるほど格差のある眺めに、葵は呆れながら息を吐く。

(確かに広くなくていいって言ったけど、極端すぎだよ)

 今まで住んでいた屋敷のような無駄な広さは必要ないものの、せめて外観はもう少し小奇麗な方が好ましい。葵がそんなワガママなことを考えていると、不意に背後から足音が聞こえてきた。カンカンカンという甲高い音を立てながら階段を上ってくる足音は、どうやらハイヒールの音のようである。久しぶりに聞くその音色に興味を引かれた葵が振り返ると、やがて階下から一人の女が姿を現した。彼女は二階の通路に佇んでいる葵に目を留めるなり、おもむろに顔をしかめる。小さく「げっ」という声を耳にしたような気がした葵もまた、アパートの住人であろう女を見据えたまま眉をひそめた。

 おんぼろアパートの二階に姿を現した女は、一言で言うと派手だった。大胆に肌を露出した服装をしている彼女は赤味の強いブラウンの髪を強めに巻いた髪型をしていて、メイクもばっちりと決めている。甲高い音の正体はやはりピンヒールで、それが彼女の脚をスラリと長く見せていた。しかし女の派手な容姿は、この際どうでもいい。問題は見ず知らずの彼女が葵を認めて明らかに狼狽を見せたことだ。

(知り合い……?)

 彼女の態度にはそう思わせるだけの力があったのだが、葵の方には思い当たる節がない。葵が戸惑っていると、女の方が先に口火を切った。

「何でおたくがこんな所におるん?」

「……えっ」

 女が声を発したことで何かが頭の中で噛み合った葵はさらに困惑の度合いを高めた。言葉遣いが妙だが、彼女の声には記憶を揺さぶる何かがある。もう一度、よくよく目の前の派手な女を観察した葵はある結論に行き着いて愕然とした。

「もしかして……クレア?」

 彼女は葵の問いに答えなかったが、それはもはや肯定の意でしかなかった。






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