お引っ越し

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「なんだ、出かけてたんだ? ナイショで部屋を訪ねて驚かせようと思ってたのに」

「ユアン様!?」

 どこからかユアンの声がしてクレアがギョッとした表情をしたので、あ然としていた葵も反射的に声がした方へ顔を傾けた。外階段のさらに外――つまりはアパート二階部分の空中――にいるユアンは人差し指を唇の前で立て、その仕種をクレアに見せるように体の向きを変える。

「ダメだよ。外ではニックネームで呼んでくれなきゃ」

「あ、はあ……。しかし、そう仰られましても……」

「使用人契約第三十六条一項は何だっけ?」

「……使用人の正装を着用していない時は、例えそれが雇用主であったとしても平素の態度で接すること」

「契約内容はぜんぶ頭に入ってるんでしょ? さすだね」

 ユアンがニコリと微笑むと、クレアは諦めたようにため息をついた。『使用人』としての仮面を捨て去った彼女は腰に手を当てながら口調を改める。

「かなわんわぁ。やっぱりその項、撤廃してくれへん?」

「それは出来ないよ。僕はこっちの君の方が好きなんだから」

「素のうちを好き言うてくれるんは嬉しいんやけど、使用人としてはやりにくくてかなわんわ。同じ相手に態度を使い分けるのってけっこう難しいんやで?」

 だが何を言ってもユアンが頷かないことをすでに承知しているようで、クレアはひとしきり愚痴を零したところで話を切り上げた。ユアンとの話を終えたクレアはその後、呆気にとられたまま閉口している葵を親指で指す。

「で、何でこの子がここにおるん?」

「引っ越して来たんだ。202号室だから今日からお隣さんだね。ここのこと、色々と教えてあげてよ」

「何やて!?」

 それまで普通に会話をしていたクレアが、ユアンの一言で急に顔色を変えた。何らかの感情が含まれた鋭い一瞥を葵に向けた後、クレアは再びユアンの方へ顔を傾ける。

「仕事ならともかく、こないにワガママで何も出来んお嬢の面倒なんて看たない! うちは知らんで!」

 一息に捲くし立てると、クレアはさっさと自分の部屋へと引き上げてしまった。姿を消したクレアが憤りを露わに扉を閉ざしたので、それを見たユアンが『仕方がない』といった風に小さく肩を竦める。完全に蚊帳の外に置かれていた葵は初めて聞くクレアの本音にショックを受けていた。

「そんな風に思われてたんだ……」

「本来のクレアは良くも悪くもストレートだから。あんまり気にしない方がいいよ」

 思わず独白を零した葵に、ユアンはフォローにもなっていない言葉を返してくる。ユアンの一言で尚のこと気落ちした葵は彼に背を向け、管理人からもらった鍵で202号室の扉を開けた。葵が一人になりたいことを察したのか、ユアンは追ってこない。六畳一間の狭い部屋に入り込んだ葵は日中の疲れも手伝って、壁際にぐったりと座り込んだ。

(なんか、疲れたな……)

 重いため息が零れてしまったのは疲労のせいだけでなく、クレアの一言が効いているからだ。そのことを自覚している葵はクレアと過ごした日々を思い浮かべ、自分の不甲斐なさに自嘲を浮かべた。しかしすぐ、自嘲の笑みすら口元から消えていく。何もかもどうでもいいと思ってしまった葵は畳に寝転がり、淡いノスタルジーを呼び覚ます香りに包まれながら瞼を下ろした。

(帰りたい)

 次に瞼を上げた時、そこが本やCDで溢れかえった自室だったらどんなにいいか。母親の作ってくれた朝食を食べていつものように学校へ行き、形式ばった授業を受けて友達と他愛のない会話をする。家に帰ったら母親の作ってくれた夕食を食べ、最も愛する芸能人、加藤大輝が出演するドラマや彼がパーソナリティーを勤めるラジオ番組を聴いてから就寝する。そんな日常が、やたらと恋しい気分になった。

(異世界に召喚されちゃう小説は面白かったけど、実際に巻き込まれるとぜんぜん面白くないよ)

 どうせなら冒険要素のある世界に召喚された方がまだ面白味があったかもしれないなどと思考が脱線しかけた頃、不意に扉を叩くような音が聞こえてきた。ユアンだろうと思った葵がのろのろと体を起こすと、今度はドアが壊れるのではないかと思うほど激しいノックの音がする。

「そこにおるんやろ? 居留守使っとらんと、はよ開けんかい!」

 怒鳴り声はクレアのもので、驚いた葵は慌ててドアを開けた。202号室の前で仁王立ちをしていたクレアは不機嫌極まりないといった表情で言葉を重ねる。

「案内してやるさかい、ついて来ぃや」

 クレアからの意外な申し出に困惑した葵はすぐに行動を起こすことが出来なかった。ただそれだけのことでもクレアをイラつかせてしまったらしく、さっさと踵を返した彼女は外階段の辺りで再び声を張り上げる。

「はよせい!」

 クレアに怒られたことで我に返った葵は慌てて202号室を後にした。通路で葵を待っていたクレアはまず、二階の一番端にある201号室を指し示しながら説明を始める。

「あそこがうちの部屋や。で、202がおたく。203はマッドっちゅー根暗な変人が住んどる。204の住人はレイン。205はアッシュ。管理人を除けばこれで全員や」

 後半は明らかに簡略に、クレアはワケアリ荘に住んでいる者達の紹介を終えた。住人の説明が終わるとすぐさま、クレアは甲高い音を響かせながら外階段を下り出す。着いて来いとは言われなかったものの、葵は急いで彼女の後を追った。

「あの、ユアンは?」

 会話の糸口を見つけようと、葵は先程から姿を見せないユアンのことを話題に上らせた。すると何故か、クレアは鬼のように険しい形相で振り返る。あまりの険しさに怯んだ葵は階段を下っている途中で足を止めてしまった。

「お帰りになられたわ。あの方はおたくの道楽にいつまでも付き合っていられるほど暇なお人やない。それと、あの方のニックネームはトリックスターや。軽々しくその名を口にするんやない」

 葵の非を厳しく責め立てると、足を止めていたクレアは再び歩き出した。理不尽なことを言われた葵は『さっきは自分もユアンと呼んでいたくせに』と胸中で文句を零しながら、無言でクレアの後に従う。外階段を下りきった後、クレアはアパートの一階にある扉を指しながら言葉を重ねた。

「あそこが管理人の部屋や。あの人に色目つこうたら、うちが許さんからな?」

 どうやらクレアはワケアリ荘の管理人に惚れているらしく、彼についての説明はこの一言だけだった。使用人としての彼女にストイックなイメージを抱いていただけに、葵は冷静沈着なクレア像が崩れ去ったことに妙なおかしさを覚えた。しかしとても軽口を叩ける雰囲気ではなかったので、笑いを自分の胸だけに留めた葵は黙々とクレアの後を追う。

 ワケアリ荘の一階は二階のように部屋が連なっているわけではなく、管理人室の脇はすぐ通路になっていた。ちょうど202号室から205号室までの広さの部屋に、扉が一つだけついている。腰に緩めに巻いているベルトから鍵束を取り外したクレアは鍵を一つ選んで、扉に差し込んだ。

「まずは食堂や」

 クレアがそう告げながら扉を開くと、その先は大衆食堂のような造りの部屋になっていた。扉に近い手前には十人ほどが座れそうなテーブルがあり、奥まった所はキッチンになっている。キッチンに人がいたため、クレアはその人物に声をかけながら奥へと歩を進めた。

「アッシュ、新入りや」

 食事の支度をしていた青年はクレアの声に手を休め、顔を上げた。彼の容貌があまりにも独特なものだったため、葵は思わず青年の顔を凝視する。おそらくは二十代前半だろうと思われるその青年の髪は見るも鮮やかな灰色をしていて、瞳の色はよく晴れた日の空を写し撮ったような透明な青だった。現実離れしたその容姿に葵が見とれていると、クレアが焦れたように言葉を重ねる。

「新入りは新入りらしく、はよ自己紹介せんかい」

「あ、宮島葵です。よろしく……」

 唐突に自己紹介を強要された葵は紡ぐ言葉に困りながらも何とか名前だけは伝えた。しかし何故か、クレアが呆れたような口調で容喙する。

「アホか。おたくのそれ、真名やろ?」

「まことな……って何?」

「うわっ、さぶいぼ立ったわ! やっぱりうち、おたくのこと苦手や。ってことでアッシュ、後は頼んだで」

 どうやらクレアは「鳥肌が立った」と言ったらしく、大胆に露出している二の腕をさすりながら食堂を出て行った。あからさまに嫌われたことよりも唐突すぎる展開に理解が追いつかず、葵はぽかんと口を開けたままクレアの背を見送る。その後、どうしていいのか分からなくなってしまった葵は助言を求めてキッチンにいる青年を振り返った。






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