お引っ越し

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「クレアが言ってた『真名』っていうのはバプティスマ・ネームのことだよ。もう察しはついてると思うけど、ここの住人はワケアリな奴ばかりだからな。別に決まりってわけじゃないけど、本名は教えたがらない奴が多い」

 だから入居時に管理人がニックネームを授けるのだと、青年は淡々と説明を加えてくれた。ようやく一つ疑問が解消した葵は「なるほど」と呟きを零したが、何かが矛盾しているような気がして眉をひそめる。

「クレアって本名じゃないの?」

「彼女は変わり者なんだよ。管理人にもらったニックネームは管理人にしか呼ばせないんだ」

 それは、よっぽど管理人のことを好いているという意味なのだろうか。先程の剣幕から察するに、有り得ない話ではなさそうだと思った葵は苦笑いを隠すことが出来なかった。

「えっと……アッシュさん、でしたっけ?」

「オレは205に住んでるアッシュ。堅苦しいのは嫌いだから、さっきクレアと話してた通りに喋っていいよ」

 さん付けもいらないとアッシュが言うので、同じく堅苦しいのが苦手な葵は彼の言葉に甘えることにした。

「夕食の支度してるの?」

「食事当番だからな」

「……その当番ってもしかして、私にも回ってくる?」

 葵が恐る恐る尋ねると、作業を再開していたアッシュは眉をひそめながら顔を上げた。その表情は「当たり前だ」と言っているのも同じであり、料理のまったく出来ない葵は頬を引きつらせる。

「もしかして、家事出来ないのか?」

「…………」

「こっち来な。教えてやるから」

 無言の返答を受け取ったアッシュは呆れるような表情をするでもなく、カウンターの向こう側から手招きをした。絶対に呆れられると頭から決め付けていた葵は意外な思いで彼の言葉に従う。揃ってキッチンに立つと、アッシュは包丁の使い方から葵に指導をしてくれた。

「今までどういう暮らしをしてきたのか知らないけど、ここは甘くないからな。料理だけじゃなく、掃除や洗濯も当番制だ」

「そ、そうなんだ……」

「あの調子じゃクレアは頼りにならなさそうだし、ここでの生活に慣れるまではオレについてるといい。色々と教えてやるよ」

 アッシュは表情を動かすことなく淡々と語っていたが、その内容は好意的なものだった。勝手の分からない場所での新しい生活に漠然とした不安を抱いていた葵はアッシュの好意に感謝の意を示す。すると、それまで無表情でいたアッシュも笑みを返してくれた。

「さっきバプティスマ・ネームを聞いてしまったけど、ニックネームで呼んだ方がいい?」

「ややこしいから本名でいいよ。ミヤジマでもアオイでも、好きな方で呼んで」

「じゃあ、ミヤジマ。次はこれを切って」

 ブロッコリーのような野菜を手渡された葵はアッシュに了承を伝えた後、少し眉根を寄せた。二月が浮かぶこの世界での『名前』は、ファーストネームが先にくるのが一般的である。おそらくアッシュは親しみをこめてミヤジマの方を選んでくれたのだろうが、その呼び方が葵の脳裏にある人物の顔を浮かばせてしまったのだ。

「ごめん、やっぱアオイの方で呼んでくれる?」

「いいよ。それをぶつ切りにしたら、次は鍋をかき回すの代わって」

 葵の態度が変わった理由を問い質すこともなく、鍋をかき回しているアッシュは空いている方の手で調味料を掴み、それを鍋の中へと投入している。彼の指示通りに急いで野菜をぶつ切りにした葵はアッシュとバトンタッチし、今度は鍋をかき混ぜ始めた。そこでふと、このアパートのキッチンが異様であることに気がついた葵は瞠目する。

(これって……)

 昨日まで住んでいた豪奢な屋敷のキッチンには呪文一つで内部の物を加熱するオーブンレンジのようなものはあったが、コンロのような物は存在していなかった。その理由はこの世界の家屋にはガスも電気も供給されていないため、スイッチで動かす物が存在しないからだ。しかしこのアパートのキッチンには、葵が見知った形のコンロが存在している。火力も魔法ではなくコンロに付いているつまみで調節するらしく、アッシュが火を弱める動作を葵は驚愕したまま見つめていた。

(何で? どうして?)

 見知った物が存在している理由が無性に気になったものの、葵はその疑問をどうアッシュに伝えればいいのか分からなかった。葵が言葉を探してもどかしい思いをしているうちに食事の支度は終わってしまったようで、アッシュが顔を傾けてくる。

「たぶん全員が部屋にいると思うから、呼んできて」

「あ、うん……」

 けっきょく疑問を口にすることが出来ないまま、葵はアッシュの指示に従って食堂を後にした。その件は食事が終わったら改めて尋ねてみようと思い、気分を変えた葵は崩れかけの外階段を上る。201号室の前に立った葵は先程のクレアの態度を思い返し、少し緊張しながら扉を叩いた。

「クレア、ご飯だよ」

 葵が声をかけるとすぐ、201号室の扉は勢いよく開かれた。内部から姿を現したクレアは扉の前に突っ立っている葵を一瞥し、退くように手で指示を出す。犬猫のような扱いを受けた葵が眉根を寄せながら体を退けると、クレアはさっさと外階段を下って行ってしまった。

(クレアって、あんな性格だったんだ……)

 使用人と主人という関係の時は彼女のクールさを寂しく感じたこともあったが、きつく当たられる現状よりはそちらの方がマシだったかもしれない。そんなことを思いながら、葵は次なる住人の元へと向かった。

(203は確かマッドさん、だっけ?)

 根暗な変人だとクレアが言っていたので、葵は少なからず不安を感じながら203号室の扉をノックした。アッシュは全員が部屋にいるはずだと言っていたが、内部からの返答はない。しばらく待ってみても反応がなかったので、今度は声をかけながら扉を叩いてみた。

「マッドさん、ご飯ですよ」

 葵の声に反応して、今度は扉が開いた。しかしその扉は隣の204号室のものであり、203号室の前にいる葵は首を傾げるようにそちらを振り向く。204号室から出て来たのはユアンよりもう少し年下と思われる、小さな女の子だった。

(うわっ、カワイイ)

 ウルトラマリンの髪を肩口で切り揃えている少女は子供ながらにともて端整な顔立ちをしていて、表情がない面はまるでよく出来た人形のようだった。曇天のような色彩をしている瞳も印象的で、葵はその独特な容姿に思わず見とれてしまう。しかし葵に凝視されても、少女は眉一つ動かすことがなかった。

「ごはん?」

 少女が声を発したことで我に返った葵は柔らかな笑みを浮かべて見せながら頷いた。204号室の住人である彼女の名は、レイン。おそらくはニックネームなのだろうが、雨という表現が彼女の容姿に不思議とよく似合っていた。

「私、宮島葵。202号室に越してきたの。よろしくね?」

 にこやかに少女に話しかけてから、葵は自分の科白のおかしさに気付いて笑ってしまった。強引に進められた転居話に最初は乗り気ではなかったのに、いつの間にかワケアリ荘の住人となることを受け入れてしまっている。それを適応力と言えるのかどうかは微妙なところだが少女に宣言してしまった手前、葵はこの場所での新生活を始めることで腹を括った。

 葵が自己紹介を終えると少女は無言で頷いた。こくんと頷く仕種がまた可愛く、彼女の素直さに癒された葵は気の抜けた笑みを浮かべる。レインは葵に向けていた視線を外すと、それを203号室へと転じた。

「マッドは、外から呼んでも出て来ないよ」

 それだけを告げると、レインは葵の横をすり抜けて外階段を下って行く。二階の通路に取り残された葵はレインの一言に眉根を寄せ、203号室の扉を仰いだ。

(入れってことかな)

 外から呼んでも出て来ないというのであれば、勝手に侵入するしかない。念のためもう一度だけノックをして反応を見た後、葵は203号室の扉を少しだけ開けた。しかし扉のすぐ側に衝立があり、扉を開けただけでは内部の様子を窺うことが出来ない。何故そんな物があるのかと不審に思った葵は203号室に進入し、真っ白な衝立を観察した。

 よくよく見ると、衝立にはちょうど目の高さに切れ目が入っていた。小窓のようになっているその部分の脇には、何かのボタンが設置されている。それがインターホンに酷似していたので、葵は考えるより先にボタンを押してみた。すると少し間を置いた後、小窓が内側から開かれる。そこから顔だけを覗かせた人物の形相に、葵はギョッとしてしまった。

 衝立の小窓から顔を見せたのはスキンヘッドの男だった。彼は何故か室内にいながら黒のサングラスをかけているので、眉毛が薄いということくらいしか顔立ちが分からない。葵がその風貌に驚いたように203号室の住人も見知らぬ人物が訪ねてきたことに驚いてしまったようで、彼はすぐにまた小窓を閉ざしてしまった。しかし衝立の向こう側から、声が聞こえてくる。

「だ、だだ、誰だ!」

 怯えているようなマッドの声で我に返った葵は、衝立越しにとりあえず自己紹介をしてみた。衝立の向こう側はしばらくシンとしていたが、やがて再び小窓が開かれる。今度は鼻から上だけを覗かせたマッドに向かって、葵は努めてにこやかな笑みを浮かべた。

「あの、ご飯です。アッシュに皆を呼んで来てって言われたので知らせに来ました」

 マッドは小声で「すぐ行く」と告げると、葵に出て行くよう要求をした。あまり関わり合いになりたくない類の相手からの促しに、葵も素直に従う。203号室の扉を後ろ手に閉ざすと、葵は深く息を吐いた。

(クレアが言ってたことが分かったような気がする)

 根暗はともかく、マッドという人物を表現するのに『変人』は当てはまりそうである。そんなことを考えながら外階段を下った葵は、最後に管理人室に立ち寄った。しかし何度ノックをしても、内部からの反応はない。203号室の時のように室内を覗いてみようとしたものの鍵がかかっていたため、葵は管理人に声をかけるのを諦めて食堂へと戻ることにした。






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