お引っ越し

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 ワケアリ荘での賑やかな夕食を終えると、葵を待っていたのは山のように重なった食器の片付けだった。食事の後片付けを終えると今度は翌朝の準備があり、それが終わった時点で食事当番の役目は終了となる。アッシュと共に食堂を出た時にはすでに月が高く昇っていて、伽羅茶きゃらちゃ色の二月がアパートの周囲に広がる大草原を幻想的に染め上げていた。しかし今の葵には、美しい風景を堪能している余裕などない。慣れない家事をしたせいで疲れきった顔をしている葵を見て、アッシュが微かな苦笑を浮かべた。

「疲れた?」

「疲れた」

 ささやかな虚勢を張る元気もなかった葵は率直な思いを言葉にした。突然の引越しを決められた今日は、葵にとってとても長い一日だったのだ。早く風呂に入って、今日はすぐにでも眠りたい。そう思った葵はある疑問を思いつき、隣にいるアッシュを振り向いた。

「そういえば、お風呂ってどうしてるの?」

 二階にある貸し部屋は六畳一間であり、風呂どころかトイレすらついていない。化粧室はアパートに隣接する小屋にあるのだが、ワケアリ荘の内部には風呂場らしきものは見当たらなかった。葵の素朴な疑問に対し、アッシュは今しがた後にしたばかりの食堂を振り返る。すると狙ったかのようなタイミングで扉が開き、肩にタオルをひっかけたクレアが姿を現した。

「風呂、空いたで」

 それだけをアッシュに告げると、湯上りのクレアはすぐさま外階段の方へと歩き出した。食堂から出てきたはずのクレアが何故湯上り姿だったのか、訳が分からなくなった葵は眉をひそめながら首を傾げる。葵の怪訝そうな表情を見たアッシュが淡々と説明を加えてくれた。

「管理人に鍵束をもらっただろう? ここのドアは使う鍵によって場所を変えるんだ」

「へ〜」

 説明を受けても仕組みがちっとも分からず、葵はまじまじと何の変哲もない扉を注視した。おそらくは鍵や扉自体が魔法道具マジック・アイテムになっているのだろうが、それはあまり見たことのない類のものだった。しかし『鍵』というキーワードがある事柄を思い起こさせ、葵は微かに眉根を寄せる。

(そういえば、アルに会いに行く時は鍵が必要なんだった)

 トリニスタン魔法学園の保健室で『鍵』を使うと、扉を開いた先は保健室に似て非なる部屋になる。あれもここと同じ仕組みになっていたのかと思ったところで、葵は考えることをやめた。アルヴァ=アロースミスという青年のことを、今は思い出したくなかったからだ。

「ちょうど空いたみたいだから、先に入っていいよ。上がったら教えて」

 そう言い置くと、アッシュは外階段を上って二階の自室へと引き上げてしまった。管理人からもらった鍵束はスカートのポケットに入っていたので、葵は試しに選んだ鍵を鍵穴に差し込んでみた。

 鍵を使ってから扉を開いてみると、目に飛び込んできたのは後にしてきたばかりの食堂だった。使う鍵を間違えたことを察した葵はすぐに扉を閉ざし、今度は別の鍵を差し込んでみる。すると今度は、食堂と同じ広さの室内に風呂桶がぽつんと置いてある光景が目に映った。風呂場といえば脱衣場がセットになっているものだが、ワケアリ荘の風呂場にはそのような場所は設けられていない。ただ風呂桶の側にはカゴが置かれていて、そこにはタオルやらシャンプーやらの入浴セット一式が用意されていた。着替えは、自分で持って来なければならないようだ。一通り風呂場を観察した葵は一度扉を閉ざし、二階に戻ることにした。

 二階に戻った葵が202号室の扉を開けると、何もなかったはずの室内にはいつの間にか荷物が届けられていた。少ない私物の他に折り畳みが出来る小さな机や布団までもが用意されていて、妙な生活感を覚えた葵は何とも言えぬ気分に陥った。つい今朝方まで広すぎる寝室でキングサイズのベッドを使っていたことを思い起こせば、ものすごいギャップである。

(なんか、変な感じ……)

 違和感は拭えないが、それと同時に葵は得体の知れない安心感も覚えていた。そんな複雑な心境になったのは畳の青い香りが生まれ育った世界を彷彿とさせるからなのか、それとも隣人という存在が安らぎを与えてくれているからなのかは、分からない。ただ、広大な屋敷に独りでいるよりも今の環境の方が自分には合っているのかもしれないと、葵はそんなことを思った。

(そうだ、早くお風呂に入らないと)

 アッシュを待たせていることを思い出した葵は考えを打ち切り、とにかく入浴の支度を整えて部屋を出た。パジャマは相変わらずネグリジェだったが、着の身着のままこの世界に連れて来られた葵にとっては貸してもらえる服があるだけでもありがたいことである。一階に戻って風呂場に入った葵は、内側から扉が開かないことを慎重に確認してから湯船に体を浸した。

(ああ……気持ちいい)

 お湯は温めだったが、夏の気候の中ではそれがちょうどいい。風呂桶が足を伸ばして入ることの出来るサイズだったので、葵はゆったりと入浴を堪能した。

(そういえばユアンと連絡取る方法、また訊くの忘れちゃったな)

 ユアンがいつの間にか帰ってしまったため訊きそびれてしまったが、今はクレアが隣に住んでいるのである。彼女の態度は友好的とは言い難いが、いざとなればクレアを通して連絡を取ることが出来るだろう。そんなことを考えているうちにメイド服姿ではないクレアを頭に思い浮かべた葵は深々とため息をついた。

(あの様子じゃあ勉強教えてなんて言えないよね)

 葵には魔法を学ばなければならない理由がある。勉強をするにあたっては独学よりも教えてくれる人が傍にいてくれた方が格段にはかどるが、それをプライベートのクレアに求めることは出来そうもない。他に誰かいないかと考えたところで、葵は何となくアッシュの顔を思い浮かべた。

(でも、どうなんだろう)

 まだ知り合って間もない人物に頼みごとをするのは躊躇われるという気持ちよりも、葵は別のことが気になって心を決められないでいた。アッシュは、クレアがメイドの仕事をしていた時のように手作業で料理を作っていた。魔法道具マジック・アイテムが呪文一つで様々なことをやってのける世界において、これは異例のことと言っていいだろう。このアパートの名前が『ワケアリ荘』と言うだけに、そこには何らかの事情があるのかもしれない。そう勘ぐってしまうと「魔法を教えてくれ」と言うのは非常に言い出し辛い事柄なのだ。

(かといって、学校に行くのは嫌だしなぁ……)

 葵の身分は一応、トリニスタン魔法学園の学生である。王立のトリニスタン魔法学園は魔法を学ぶ者にとっての聖域なのだが、いかんせん、葵の感覚ではあの学園の校風についていけないのだ。加えて、学園には葵が今最も顔を合わせたくない人物が校医として勤めている。彼の悪行を思い出してしまった葵は次第に腹立たしい気分になってきてしまい、長風呂をしてしまったことを少し悔やみながら風呂を出ることにした。

(やっぱ独学で頑張るしかないかぁ)

 嘆息しながらアパートの外階段を上った葵は入浴セットを抱えたまま205号室を訪れた。ドアをノックするとすぐ扉が開き、アッシュが顔を覗かせる。彼は葵の姿を見て、少し驚いたような表情を見せた。アッシュの変化を察した葵は小首を傾げながら問いを口にする。

「どうしたの?」

「いや、合わないなと思って」

 葵には初め、アッシュが何を言っているのか分からなかった。次にネグリジェが似合わないと言われたのかと思ったのだが、どうもそういう意味ではなかったらしい。少し間を置いた後、和風のおんぼろアパートにシルクのネグリジェ姿の自分がミスマッチなのだと気付いた葵はアッシュに苦い笑みを浮かべて見せた。

「じゃあ、おやすみ」

 すれ違いざまに葵の頭をポンと叩くと、アッシュは階下へと姿を消した。湯冷めしないうちに部屋へと戻った葵はすぐに布団を敷き、濡れた髪もそのままに体を横たえる。疲労のせいですぐに眠りに落ちてしまった葵はその夜、夢も見ないほど熟睡した。






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