「話をする前に場所を移しましょう」
葵が顔を傾けるとすぐ、アルヴァは彼女に先立って口火を切った。それはまるで葵に口を開く隙を与えないかのようなタイミングであり、しかめっ面をやめた葵は不可解に眉根を寄せる。しかしアルヴァは葵の疑問には応えず、さっそく行動を起こした。彼が「アン・フルメ」という呪文を唱えると、保健室の内部が若干の変化を見せる。それまで朝日を取り込んでいた窓がなくなった室内はすでに『保健室』ではなく、アルヴァの『部屋』へと姿を変えていた。
簡易ベッドが並ぶ保健室に酷似した『部屋』に移動すると、アルヴァはすぐにきちんと整っていた服装を自ら乱し始めた。シャツの裾を出してネクタイを外し、胸元をはだけさせるアルヴァの行動はいつものことである。すでに見慣れてしまっている葵はアルヴァの動作には構わず、彼を牽制しておくつもりで自ら口火を切った。
「大人しくしてたからって許したなんて思わないでよね」
「そんなことは分かってる。廊下での騒ぎようが全部筒抜けだったからね」
だからこそわざわざ『保健室』で待ち構えていたのだと、椅子に腰を落ち着けたアルヴァは疲れた声音で語った。クレアと話をしていた時にはにこやかな笑みを見せていたが、彼の端整な顔にはもう気怠さしか浮かんでいない。アルヴァがひどく疲れているように見えたので、葵は微かに眉をひそめた。
「何でそんなに疲れてるの?」
「レイチェルと実際に関わりがある人物と話をするのは神経を遣うんだよ。それがレイチェルに陶酔してる人間なら尚更、ね」
アルヴァは素直に口を割ったが、彼と彼の姉がどういう関係にあるのか知らない葵にはうまく話を理解することが出来なかった。しかしふと、以前にユアンが言っていた科白が脳裏に浮かんでくる。
『アルはレイにコンプレックスを持ってるからね』
コンプレックスという言葉がアルヴァのイメージに合わなかったため、葵はユアンのこの言葉を半信半疑に聞き流していた。だが今のアルヴァを見ていると、それがコンプレックスというものなのかどうかまでは分からなくとも、彼とレイチェルの間には確かに何かがありそうだと思える。それがアルヴァの弱みになるのなら是非とも聞き出したいと思い、葵は興味本位で問いを重ねた。
「アルってもしかしてレイのこと苦手?」
「実に短絡的な質問の仕方だね。僕の弱みを握りたいって思惑が顔にも出てるよ」
呆れ顔になったアルヴァはデスクの引き出しから煙草を取り出し、深いため息と一緒に煙を吐き出した。いきなり本音を暴かれてしまったがそれならそれでいいと、葵は話を続ける。
「だったら何? アルが私にしてきたことと大して違わないでしょ?」
「ミヤジマもずいぶんと強かになったね」
知り合って間もない頃は怒ることしか出来ない子供だったのにと、アルヴァは平然とそんなことを言ってのける。発言した方に大意はなくとも、その科白を言われた側にしてみれば「けなされた」と感じるのは当然のことで、葵はムッとした。
「誰のせいでそうなったと思ってるのよ」
「そこでムキになってしまう辺り、まだまだ子供だけどね。まあ今日のところは、この話は置いておこう」
悪びれた様子もなく一方的に話を切り上げたアルヴァは、そこでふと表情を改めた。アルヴァが真顔に戻ったため、文句を言ってやろうと口を開きかけていた葵も仕方なく閉口する。葵が話を聞く体勢に入ったのを見届けてから、アルヴァは改まって話を切り出した。
「ミヤジマ、僕と取引をしないか?」
「……取引?」
なにやら怪しげな雰囲気が漂う単語に、葵は疑念を抱いたことを隠そうとしなかった。しかし葵の反応など予想の範疇だったらしく、アルヴァは淡々と説明を始める。
「僕は今後、ミヤジマの意思を無視した行動を慎み、助言を惜しまない。その代わりにミヤジマは僕の秘密を護って欲しい。これが取引の内容だ」
アルヴァがあまりにも平然と言ってのけるので葵は怒る気も失せるほど呆れてしまった。『助言を惜しまない』はともかく、他人の意思を無視した行動を取らないことは一般常識である。しかしアルヴァはからかっているわけでも軽んじているわけでもなく、本気でそれが葵との取引材料になると思っているようだった。
(……もう、いい。アルはこういう奴なんだって思おう)
いい加減、直情的になって振り回されるのにも飽きてきた。アルヴァが犯してきた所業を許すわけではないが、葵はそう思い込むことで彼との関係修復を自分に認めさせた。何と言ってもアルヴァは、唯一何の気兼ねもなく疑問をぶつけられる相手なのだ。例え反りが合わなくても必要不可欠な存在なのだから、譲歩するのは仕方のないことだ。
「分かった。アルの秘密って、猫かぶってるってこと?」
「それも含め、この部屋のことやレイチェルのこともだ。僕がユアンと個人的な関わりがあることも伏せておいて欲しい」
「要するに、クレアに何訊かれても答えるなってことね?」
「まあ、そういうことだね。ミヤジマさえ余計なことを言わなければ後はなんとでもなるから」
淡々とした調子で紡がれるアルヴァの言葉には、やはりどこか棘がある。しかし小さな棘に気を取られていては、この相手と上手く付き合うことは難しい。そのことを学んだ葵は無闇に反発せず、重い息を吐いただけで話を終わらせた。
「ちょっとそこに座っていてくれ」
アルヴァがベッドを指差したので立ち話をしていた葵は言われるがまま腰を落ち着けた。その間に白衣のポケットから何かを取り出したアルヴァは、それを両手で包み込んだまま何事かを呟き始める。少し距離があったため葵にはアルヴァの言葉が聞き取れなかったのだが、どうやらそれは呪文だったらしい。ゆっくりと開かれたアルヴァの掌の上に光を放つ
「それ……」
近付いて来たアルヴァが手にしている指輪に目を留めて、葵は少しだけ顔をしかめた。無色透明な楕円形の石が嵌めこまれている指輪は無属性魔法を佑ける
「拾ってきた。僕の魔力が使われた
葵がわざと捨てたことも理解しているようだったが、アルヴァは特に気分を害された風もなく淡々とした口調を崩さない。自分ばかり気にするのも損なだけだと思った葵も言葉を返すことなく、アルヴァから行動の真意が語られるのを待った。
「もう特別な魔法はかけていないから魔法を使わなければ蓄えた魔力が減ることもない。前と同じ感じで、魔力が空になったら補給に来るといい。ただ、ミヤジマはフロンティエールからの留学生ということになっているから学園内では身につけない方がいいね」
アルヴァとは約一ヶ月ほど顔を合わせない時期があったのだが、その間に起きた出来事も彼は全て承知しているらしい。常に監視の目に晒されているのだと改めて思い知った葵はため息をつきながら指輪を受け取った。
「りょーかい。じゃあ、そろそろ行くね」
「その前に一つ、訊いておきたいことがある」
「何?」
「彼女はずっとあの屋敷にいるつもりなのか?」
「彼女?」
「クレア=ブルームフィールドだよ。彼女、ミヤジマの世話を焼いているんだろう?」
ああ……と、葵は小さく呟きを零した。確かに少し前までは、葵とクレアはかりそめの主従関係だった。しかし貸し与えられていた屋敷を離れた今となっては、もう遠い昔の出来事のようだ。
「今はクレアも私も、あの家にはいないよ」
「ミヤジマも? どういう意味だ?」
「昨日ユアンが来て、引っ越しさせられたの。クレアはもともと、一ヶ月だけ私の面倒みてくれるって契約だったみたいだけど」
「引っ越し?」
さすがに昨日の今日では知らなかったらしく、アルヴァは狐につままれたような表情になった。しかし無表情を崩したのは一瞬のことで、アルヴァはすぐ真顔に戻る。何事かを考えているらしい彼は口元に手を当て、束の間の沈黙の後に言葉をつないだ。
「すぐに済む話じゃないね。帰りにまた寄ってよ」
「……りょーかい」
こちらからも尋ねたいことは山ほどあったため、葵は素直にアルヴァの願いを聞き届けると保健室に酷似した『アルヴァの部屋』を後にした。
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