帰ってきた日常

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 夏月かげつ期最後の月である伽羅茶きゃらちゃの月の五日、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校は生徒達が登校する時間帯を迎えて賑わいを見せていた。この学園の制服である白いローブを身にまとった生徒達は一様に敷地の中央にある校舎を目指しており、正門から続く生徒の流れは上空から見ると白い川のようになっている。思い思いに談笑しながら歩いている生徒達の大半は苦労を知らない良家の子供なのだが、その流れの中には爽やかな夏の朝に似つかわしくない、どんよりとした表情をした少女の姿があった。黒髪に黒い瞳といった世界でも珍しい容貌をしている少女の名は、宮島葵。いかにも寝不足だという顔をしている彼女は大きなアクビをした後、小さく頷くような仕種を繰り返した。

「いつまでそうしてるつもりや。しゃんとせんかい!」

 隣を歩いていたローブ姿の少女が不意に、葵の腰の辺りを思い切り叩いた。つんのめるような形で前に押し出された葵は危うく転びそうになりながらも何とかバランスを保つ。肝を冷やしたおかげで少し頭が冴えた葵は、恨めしい思いで隣の少女へ視線を傾けた。赤味の強いブラウンの髪をこざっぱりとまとめている少女の名は、クレア=ブルームフィールド。ワニに似た魔法生物を肩に乗せて堂々と歩いている彼女は葵にとって元使用人であり、現在は居住しているアパートの隣人にあたる存在である。昨日に引き続いて今朝もまた、葵はクレアに叩き起こされて学園へとやって来たのだった。

(目覚まし時計が欲しい……)

 クレアの怒鳴り声で目を覚まし、急かされながら支度をする朝がこれから毎日訪れるのかと思うと気が滅入ってくる。しかし葵は、目覚まし時計が欲しいというささやかな願いが成就しないことをすでに承知していた。何故ならこの世界には『時計』というものがそもそも存在しないからである。そんな中にあって、この世界の住人がどうやって予定通りに動いているのか、葵には不思議でならなかった。

「ねぇ、クレア。朝って、どうやって起きてるの?」

「はあ?」

 言葉だけでなく表情でも、クレアは『言っている意味が分からない』と言っている。言葉が足りなかったかもしれないと思った葵は真意を理解してもらうために補足しようとしたのだが、あいにくうまい言葉が出てこなかった。

(ダメだ、アルにでも聞こう)

 余計なことを口走ると余計な詮索をされるかもしれない。特にクレアには隠し事が多いので、葵は早々に諦めて口をつぐんだ。質問を投げかけておいて勝手に自己解決してしまった葵にクレアは訝しげなまなざしを注ぐ。

「まぁたお嬢が妙なこと言い出しおった。やっぱりうち、おたくのこと苦手やわぁ」

 嫌そうな表情はしているものの、クレアは完全に葵から遠ざかろうともしない。そんなに嫌なら先に行けばいいのにと胸中で呟いた葵は自分から別れを告げることにした。

「じゃあ、ちょっと寄る所があるから」

 エントランスホールでそう告げた葵は適当に迂回して教室を目指そうと思っていたのだが、進路を変える前にクレアに腕を引かれてしまった。クレアを気遣ったつもりでいた葵は彼女の行動を訝しく思い、首を傾げて眉根を寄せる。

「何?」

「抜け駆けは許さん。保健室ならうちも行くで」

 その一言で不可解な行動に納得がいった葵は、クレアの思惑に呆れてしまった。嫌いだ苦手だと言うわりにクレアが葵から離れようとしないのは、アルヴァ=アロースミスという青年に会いたいがためらしい。

「別に、保健室には行かないよ」

「せやったら、どこに行くつもりや?」

「……トイレ」

 疑り深いクレアもこの答えには「あ、そ」と言うに留まった。クレアから腕を取り戻した葵は朝から疲れを感じてしまい、深々と息を吐く。

(めんどくさい……)

 アステルダム分校の校医をしているアルヴァ=アロースミスという青年は、確かに女子ウケのする美貌の持ち主である。だがクレアがアルヴァを気に入っているのは、どうもそれだけが理由ではないようなのだ。もしかしたらクレアは、アルヴァに彼の姉を重ねて見ているのかもしれない。久しぶりにレイチェル=アロースミスの姿を思い浮かべた葵は何となくアルヴァが隠れていたい理由が分かったような気がして、少しだけ彼に同情を寄せた。

「先、行くで」

 クレアがそう言い置いて歩き出そうとした刹那、エントランスホールの方から喚声が上がった。女生徒の黄色い声は葵にとっては聞き慣れたものだったのだが、この出来事に初対面のクレアは驚きのあまり足を止めてしまっている。

「お嬢! なんや、この騒ぎは!?」

「あ〜、これね……」

 言葉で説明するよりも実際に現場を見た方が話が早いと思った葵はクレアを誘導してエントランスホールの二階部分へと上がった。手すりの付近にはすでに女子生徒が鈴生りになっていたので葵とクレアは彼女達の足下に潜り込み、そこからこっそりと顔を覗かせる。するとやはり、エントランスホールの一階部分にはアステルダム分校のマジスターが雁首を揃えていた。

(相変わらず、かぁ)

 マジスターとは、トリニスタン魔法学園におけるエリートの称号である。貴族の子息ばかりが集っているトリニスタン魔法学園においてもマジスターと呼ばれる者達は別格であり、その権威は教師であっても冒すことは出来ない。だからこそ彼らはスター集団なのだが、橙黄とうこうの月の終わり頃にそのマジスターの権威を失墜させるような出来事があった。しかし未だにこれだけの歓声を浴びているところをみると、女子生徒の間ではあまりあの出来事に対する影響はなかったようだ。

(まあ、クレアのおかげでココ達には絡まれなくなったから、いいか)

 クレアが二年A一組の主導権を握ったため、少なくとも教室内では揉め事に巻き込まれることはなくなった。あとはマジスターと接触さえしなければ、周囲もそのうち葵の存在など忘れていくだろう。そのためには、マジスターがいる場所に長居は無用。そう思った葵はクレアを促してその場を去ろうとしたのだが、ふと顔を上げたマジスターの一人と目が合ってしまった。

(また、よりにもよって……)

 この人混みの中で何故、よりにもよって一番好ましくない人物と目が合ってしまうのか。偶然にしては出来すぎな接触を果たしてしまった葵は自分のツキのなさを呪いたい気分になった。そして案の定、エントランスホールから雄叫びに似た怒声が上がる。

「てめーら、散れ!!」

 エントランスホールに群がっている女子生徒を半ば力任せに散らしながら、黒髪に黒い瞳といった容貌をしている少年が階段を駆け上って来る。クレアを人混みの中に残してその場を離脱した葵は全速力で、少年が駆け上って来ているのとは反対方向の階段を駆け下りた。

「あ、アオイ」

「キル! やめろって!」

 葵の姿を認めて呑気な声を発した少年は名をウィル=ヴィンスといい、葵とは逆方向に向かって走り出した茶髪の少年は名をオリヴァー=バベッジという。そして一心不乱に葵を追いかけてきている黒髪の少年は名をキリル=エクランドといい、彼ら三人がアステルダム分校の現在のマジスターである。オリヴァーに続いてウィルともすれ違った後、葵はエントランスホールを抜けて校舎の外へと走り出た。

(あっつ……)

 夏の日差しに容赦なく晒されながら疾走した葵は、校舎の影で足を止めるとその場に座り込んだ。都合の悪いことに今日からローブを着用することに決めてしまったため、全力疾走後のダメージが平素よりも大きい。壁に背を預けた葵はローブの裾をまくり上げ、汗で張り付いてしまう胸元は手ではためかせた。

(けっきょく、何も変わってない)

 顔を突き合わせれば追い回される状況が、いつまで続くのだろう。乱れた呼吸を整えながら何か打開策がないかと考えていた葵はふと、アルヴァに相談することを思いついた。

(でもその前に、一回帰ろう)

 呼吸が落ち着いて少し汗も引いてきたところで、そう結論づけた葵はゆっくりと立ち上がった。しかしアパートに帰るためには、どこかドアのある所まで赴かなければならない。保健室が適当だと思った葵は慎重に辺りを窺いながら元来た道を引き返した。






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