帰ってきた日常

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 雲一つない夜空に浮かぶ伽羅茶きゃらちゃ色の二月が、虫の音さえも聞こえてこない静寂を静かに照らしていた。昼間は陽光に照らされて青々としていた草もくすんだオレンジのような月明かりを浴び、セピアで描かれた風景画のような眺めとなっている。そんな幻想的な大草原の海に、一軒のアパートが佇んでいた。くすんだ色彩の月光に照らされて、元よりもさらに古ぼけた佇まいを際立たせているそのアパートの名は、ワケアリ荘という。その名の通りワケアリな人物ばかりが入居しているアパートの廊下は、月が天頂にかかっている時分ということもあって静まり返っていた。しかしその、虫の音さえも聞こえてこない静寂は程なくして破られることになる。そのきっかけは、夜半に開かれた201号室の扉だった。

「遅なってしもうた。まだ湯があるとええんやけど」

 独白を零しながら201号室を後にしたクレアは、その足ですぐ外階段へと向かった。人が歩くたびギシギシと音がする階段を下りる彼女は下着に近い服装をしていて、とても外を歩き回る格好ではない。何故彼女がそんな格好をしているのかといえば、つい先程仕事が終わって、部屋に帰るなり仕事服を脱ぎ捨てて来たからである。そんな彼女の肩口には、ワニによく似た魔法生物が堂々と体を落ち着けている。マトという名の彼はクレアの肩で腹這いになっていたのだが、ふと、ある場所で細長い口を持ち上げる動作をした。

「どないした?」

 パートナーの変化を敏感に察したクレアは階段を下りきった所で足を止め、マトが見据えている先を見上げてみた。しかしそこにはアパートの屋根があったため、その先に何があるのかを窺い知ることが出来ない。視界に映っている光景には異常がなかったので、クレアは屋根の下から抜け出して月が支配している天を仰いでみた。

「ああ、ネコがおるなぁ」

 夜空を見上げたクレアが目に留めたのは、アパートの屋根に座している猫の影だった。くすんだ色彩の月明かりに照らされて少し茶色味を帯びて見える彼の猫は、動き出す気配もなくじっと月の方を見つめている。これまでにも幾度か、クレアは夜にあの猫の姿を見かけたことがあった。それはクレア以上にマトがあの猫の存在を気にかけていて、姿を見つけると反応を示すからだ。

「仲良うなりたいんやったら今度、話しかけてみぃや」

 未だ屋根の上を見上げているパートナーの顔を優しく撫で、クレアは本来の目的地へ向かうために踵を返した。まだ名残惜しそうに背後を気にしていたマトも、やがては諦めてクレアの肩に体重を預ける。もう猫もマトも気にすることなく、クレアはアパート一階にある住人の共用スペースへと向かった。

 ワケアリ荘の一階にある住人のための共用スペースは、貸し部屋がある二階の202号室から205号室の広さに相当する。多目的ルームであるここには食堂や風呂場などの施設が揃っているのだが、その内部へと通じる扉は一つだけである。扉を開けるとどこに繋がるのかは魔法の鍵マジック・キーによって選ぶことが出来、クレアはまず『発電室』と呼ばれる部屋の鍵を鍵穴に差し込んだ。その理由は、すでに温くなっているであろう風呂を追い炊きするためだ。風呂を沸かす当番は順番で回ってくるが入浴の時間は限られているため、その時間帯から外れてしまった者が使用する時は自分で温めなおすのがワケアリ荘の決まりだった。

 発電室の扉を開けた刹那、異変を目にしたクレアはあ然として動きを止めた。普段ならばアパート全体が寝静まっていてもおかしくない時分に、発電室には人がいたのである。しかもその組み合わせが、意外を通り越して異様なものだった。

「あ、クレア」

 進入してきたクレアに気付いた葵が、まず声を発した。続いて203号室の住人であるマッドが振り返ったが、彼はクレアの姿を見るなりそそくさと顔を背ける。スキンヘッドの男が真っ赤になってしまった理由を、クレアは慌てた様子の葵の一言で察した。

「なんて格好してんの!」

 葵に指摘されて改めて自分の体を見下ろしたクレアは、しかし動じることもなく堂々と腰に手を当てる。

「見せて減るもんやなし、どんな格好してようがうちの自由やろ?」

「そーゆー問題じゃないでしょ!」

「うっさいわ。うちは仕事帰りで汗かいとるんや。風呂沸かすのにジャマやから、二人とも出て行き」

 早く風呂に入りたかったクレアは二人とも追い出そうとしたのだが、何かを思い出したらしい葵が食い下がってきた。

「待って。ちょうどいい所で会えた」

「うちはおたくに用はない。明日も早いんや。お嬢はさっさとおねんねしぃや」

「形状記憶カプセル、ちょうだい!」

「はあ?」

「前に私が壊されたモノを再現してくれたでしょ? あれがどうしても必要なの」

 葵が口にした形状記憶カプセルとは、魔法生物の体内で生成されるレア・アイテムである。一度使えば消滅してしまうがその用途は広く、クレアは以前、葵が壊されたモノを再現するために彼女にカプセルをあげたのだ。しかしそれはあくまで『使用人』としての義務を果たしたまでであり、世間知らずのお嬢様に付き合う気のなかったクレアは冷然と葵を見下ろした。

「断る。おたく、アレがどれだけ貴重なシロモノか分かってないやろ?」

 クレア自身は日常的にカプセルを使用しているが、マトが一日に生み出すことの出来るカプセルの数は限られている。貴重なアイテムを他人にあげてしまうことで、自分の日常に支障をきたさないとも限らないのだ。メイドとしての契約期間を終えた今、葵にそこまでのことをしてやる義理はない。だがクレアがきっぱりとそう告げても、葵は引かなかった。

「お願い! 何でもするから!」

「……何でも?」

 葵が切羽詰った様子で零した一言に、クレアはピクリと眉を動かした。

「せやったら、うちの小間使いが出来るんやな?」

「コマヅカイって何?」

下僕しもべっちゅーことや。そうやなぁ、手始めに明日からの当番全部代わってもらおか。食事の支度も後片付けも、風呂沸かすんも洗濯も全部おたくが一人でやるんや」

 この申し出にはさすがに、勢い込んでいた葵も口をつぐんでしまった。最初から『お嬢様』に出来るわけがないと思って無茶なことを言い出したクレアは当然の反応に鼻で笑う。

「ほら、みぃ。出来もせんくせに大口叩くんやないで」

「……分かった。やる」

「は?」

「料理でも洗濯でも、何でもやるよ。だからあのカプセル、ちょうだい!」

 葵に必死の形相で訴えられ、今度はクレアの方が言葉に詰まってしまった。どうやら本気のようで、彼女はさらに詰め寄ってくる。根負けしたクレアは迫ってくる葵から身を引きながら交渉が成立したことを彼女に伝えた。

「前に渡したやつと同じでええんやな?」

 クレアが最終的な確認をすると、葵は深刻そうな表情で何度も頷いてみせた。葵の言う『壊されたモノ』が彼女にとってだれだけ価値があるものなのか知らないクレアは、その熱意に呆れながら自らの肩口に視線を落とす。

「マト」

 クレアが呼びかけると、彼女の意を受けたマトは小さく頷くような仕種をして見せた。しばらくの後、普段は閉じっぱなしになっているマトの口がガバリと開く。これにはマッドだけでなく幾度か見ているはずの葵までもが身を引いたが、クレアは彼らの様子を気にすることもなく生成された形状記憶カプセルを掌で受け止めた。

「お嬢」

 カプセルを握った手を差し出すと、葵はハッとしたような表情を浮かべた。恐る恐る手を伸ばしてきた葵に、クレアはカプセルを渡してやる。その直後、葵がカプセルを床に叩きつけようとしたので焦ったクレアは口早に容喙した。

「何しとんのや!?」

「えっ? こうやって使うんじゃなかったっけ?」

 クレアがいつもそうしているからと、葵はキョトンとしたまま言ってのける。頭痛がしてきたクレアはこめかみに指をあて、嘆息後に簡単な説明を加えた。

「あれは地面に魔法陣を描くからや。カプセルが何を再現するかによって使い方が変わるに決まっとるやろ。今はフツーに呪文を唱えたらええ」

「フツーに呪文……どんな?」

「……もうええ!」

 葵の手からカプセルを奪い取ったクレアは「アン・フォルマスィオン」と呪文を唱えた。すると呪文に反応したカプセルは光を放ちながら形状を変えていき、やがてまったく別の形へと変化を遂げる。そうして生み出された用途不明の物体を、クレアは葵に向かって放った。

 投げ渡された長方形の物体を見事にキャッチした葵は、掌の上に乗っているそれを目にするなり瞳を輝かせ始めた。その後に何をするかと思えば、葵は手にしているものをマッドに掲げて見せる。するとそれまで隅で縮こまっていたマッドも興奮し始め、彼らは何事かを話しながら発電室を出て行った。静かになった室内に一人取り残されたクレアは深々と嘆息する。

「なんや、あれ。わけ分からん」

 たまたま発電室を訪れたことで騒動に巻き込まれたクレアはぐったりしながら、それでも本来の目的を果たすために発電機に跨ったのだった。






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