「わざと怒らせるようなことするなよ!」
炎を防ぐために水球を作り出した後、オリヴァーは真っ先にクレアに文句を言った。しかしクレアは悪びれもせず、涼しい表情で言葉を紡ぐ。
「安い挑発に乗ってくるお坊ちゃんが単純バカなだけや。せやけどこれしきで、うちの腹立たしさは治まらんわ」
吐き捨てるように言うと、クレアは肩口にいる魔法生物に手を伸ばした。彼女がパートナーの名を呼んで
「何なんだ、一体?」
クレアが見せたギャップと不可解な言動が強烈すぎて、混乱したオリヴァーは水球の中で大人しく佇んでいる葵に助けを求めた。オリヴァーがあまりにも困惑していたからか、葵は苦笑いを浮かべながら口火を切る。
「私もよく知らないんだけど、前にキリルがクレアにケガさせたことがあったの。それを根に持ってるみたい」
「そんなことがあったのか……。それにしても、性格変わりすぎだろ」
「うん……私も最初は驚いた」
葵の発言にひっかかりを覚えたオリヴァーは眉根を寄せたが、今は長話をしている場合ではない。とにかくケンカを止めないとまずいと思ったオリヴァーが顔を上げると、上空に避難していたウィルが水球の中へと入って来た。
「自分からケンカふっかけたくせに、手も足も出ないみたいだね」
ウィルが冷静に戦況を分析するので、つられたオリヴァーもキリルとクレアの方へ顔を傾けた。シエル・ガーデンの花々が燃え盛っている
「てめっ、うろちょろすんな! 燃えろ!!」
「うすのろバーカ。悔しかったらうちを殴ってみぃ」
「……上等だっ!!」
手も足も出ないぶんクレアの口はよく動いていて、完全に頭に血が上っているキリルは稚拙な悪口に翻弄されている。傍から見ていると遊ばれていることは明らかであり、オリヴァーとウィルは同時にため息をついた。
「程度の低いケンカだね。せっかく魔法生物の
「実力差ははっきりしてるからなぁ。クレア、どうやってこのケンカを終わらせるつもりなんだ?」
オリヴァーがそんなことを言った刹那、キリルに追われたクレアが真っ直ぐこちらに突き進んで来た。急激な方向転換にすぐさま対応したウィルは再び上空へと逃げ出したが、取り残されたオリヴァーは慌てた声を上げる。
「ちょ、こっち来んなって!」
すっかり気が緩んでいたため、唐突な出来事に対応できなかったオリヴァーはその場から走って逃げ出した。しかし葵を置き去りにしてきてしまったことに気がつき、すぐさま振り返る。だがその時には、もう手遅れだった。クレアが葵の背後に逃げ込んだため、勢い余ったキリルは彼女に向かって拳を振り下ろす。だがその拳は葵に届く前にピタリと止まり、痙攣するように体を震わせたキリルはそのまま葵の足元に倒れこんだ。
「すいませんでした!!」
怒気を孕んだ声音で謝罪を口にしながら、キリルは地に額をこすりつけている。それを見て、クレアがぷっと吹き出した。
「あはははははは! ホンマに土下座しおった!」
最初からコレが狙いだったらしく、クレアはおかしくてたまらないといった笑い声を上げ続けている。腹を抱えて笑っているクレアとは対照的に、ゆっくりと頭を上げたキリルの表情は恥辱にまみれていた。
「てめぇ……マジで殺す!」
しかしクレアは葵を盾にしているため、勢い込んで立ち上がろうとしたキリルは再び地面に這いつくばる。彼の口からは再び謝罪の言葉が飛び出したので、クレアが一段と高らかに笑った。
「キルを手玉に取るなんて、いい度胸してるね」
隣にふわりと下り立ったウィルがそんなことを言ってのけたので、呆けていたオリヴァーも我に返った。よくよく見ればキリルとクレアの間に挟まれている葵が懇願するようにこちらを見ていたので、オリヴァーは頭を掻きながら歩き出す。
「しばらく荒れそうだな」
怒りの治まらないキリルに八つ当たりされることを容易に想像してしまったオリヴァーは人知れず、嘆息と独白を零したのだった。
天の遥か遠くに
(疲れたぁ……)
日中はシエル・ガーデンでクレアのストレス発散に付き合わされ、ワケアリ荘に帰って来てからは家事に追われたりと、気の休まる暇のない一日だった。昨夜は一睡もしていないため本当ならば早く寝たいところなのだが、あいにくまだ明朝の準備が残っている。加えて湯船で中途半端にうたた寝をしてしまったことが、葵をよりいっそう疲れさせていた。
(ああ……寝たい)
疲弊している葵は切にそう願ったのだが、責務の多い彼女にとって睡眠は恐怖でもある。この世界には時計というものが存在しないため、それに頼りきって暮らしてきた葵の体はまだこの世界の理に馴染めていないのだ。朝食の準備を怠って眠ってしまえば、明日の朝は間違いなくクレアの怒声で叩き起こされるだろう。夜のうちに準備だけしておいても朝が間に合うか自信のなかった葵は重々しいため息をついた。
(でも、しょうがない。やるかぁ)
葵が苦手な家事を請け負っているのは、それ相応の取引の結果である。頑張るしかないと腹を決めた葵は洗面器に詰めた入浴セットを置くために部屋へ戻ろうとしたのだが、アパートの二階に行くための外階段へ辿り着く前に再び足を止めてしまった。
「Bon soir。いい月夜だね、マドモワゼル」
葵の視線を受け止めて声を発した青年は、ワケアリ荘の管理人である。前髪の半分ほどを黄色に染めるといった奇抜なセンスをしている彼とは入居日に顔を合わせたきりだったが、とっさに何かが違うと思った葵は小さく眉根を寄せた。
「僕の顔に何かついているかい?」
「えっ、いや、そんなことは……」
管理人に指摘されて初めて、彼を凝視していることに気がついた葵は慌てて視線を逸らした。しかし違和感の正体が気になり、すぐに管理人の顔を盗み見る。目が合ってしまうと、彼は葵に優しく微笑みかけた。
(不思議な人……)
笑顔に、癒される。初対面に近いはずなのにそう感じてしまったのは、何故だろう。管理人の背中では月明かりに染められた青草がさわさわと夜風に揺れていて、青い香りが急に胸に迫ってくる。表現し難い感情に支配された葵は言葉もなく、しばらく管理人の笑みを見つめていた。
「もうみんな眠っている。君は寝ないのかい?」
管理人が口火を切ったことで我に返った葵は、苦い笑みを口元に上らせながら答えを口にした。
「出来ればそうしたいところなんですけど……」
まだ、明日の朝食の準備が残っている。葵がそう告げると、管理人は小首を傾げた。
「明日の当番は確か、キッティーだったと思ったけれど?」
管理人が口にした『キッティー』とは、クレアの愛称である。彼はアパートの住人と寝食を共にすることはないが、さすがに管理人だけあって当番などは把握しているようだ。葵がクレアの当番を代わっていることを教えると、管理人は小さく眉をひそめた。
「それはいわゆる、イビリというやつかい?」
「ち、違いますよ!」
管理人が急に不穏なことを言い出したので、驚いた葵は慌てて否定した。年上好きなクレアはアルヴァだけでなく、この管理人の青年も気に入っている。ここで肯定してしまったら後でどんな目に遭わされるか分かったものではないと思った葵は念のため、周囲を窺ってしまった。
「その怯えよう、あながち
「ぷれ……? 何ですか、それ?」
「ジョーク、だよ」
「ああ、何だ……」
からかわれただけだと知って、葵はホッと胸を撫で下ろした。管理人の発言はただの冗談ではなさそうだったが、彼も特に葵の誤解を解こうとはしない。一度唇を結んだ彼は少し間を置いた後、再び葵に微笑みかけた。
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫です。好きで……はやってないですけど、そういう約束だから」
「そう。困ったことがあったら遠慮せず言うといい」
「あ、じゃあ、一つお願いしてもいいですか?」
管理人の申し出をこれ幸いと、葵は『お願い』の内容を彼に伝えた。朝、起こして欲しい。たったそれだけのシンプルな願いに、管理人は涼やかな笑みでもって応えた。
「おやすみ、マドモワゼル」
笑みを残したまま言い置くと、軽やかに踵を返した管理人は草原の方へと歩き出す。てっきり管理人室へ戻るのだとばかり思っていた葵は首を傾げながら、管理人の姿が草の海に消えるのを見送った。
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