月夜の集い

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 扉を開けると青い匂いがした。それは地上から立ち上ってくるもので、後ろ手に自室の扉を閉ざした宮島葵は遠くへと視線を傾ける。青い匂いの正体はアパートの周囲に広がっている草原で、長く伸びた青草が清々しい香りを空へ向けて運んでいるのだ。清涼な空気と共にその独特な香りを思いきり吸い込んだ葵は深呼吸を終えるとアパートの廊下を歩き出した。向かう先は隣室である、203号室。その部屋の住人に用があったのだが、葵がいくら呼びかけても室内はしんと静まり返ったままだった。

(まだ帰って来てないんだ……)

 203号室の住人はスキンヘッドに色眼鏡という変わった風体をしている青年で、名をマッドという。葵は日中から幾度も隣室を覗きに来ているのだが、未だにマッドとは会うことは出来ずにいた。205号室の住人であるアッシュの話によると今日は出掛けているらしいのだが、いつ戻って来るかは分からないとのことのことだった。

 203号室の扉を閉めた葵はその後、試しに外階段を下って地上へと下りてみた。屋根のある所から少し外れると見上げた夜空の様子がよく分かるのだが、伽羅茶きゃらちゃ色の二月はすでに中天に昇っている。この月が沈んでしまえば朝が訪れるため、アパートの方を振り返った葵はため息をついた。

(今日はもう戻って来ないのかも)

 これ以上夜更かしをしていると、また朝寝坊をしてしまいそうである。明日でいいやと思った葵は踵を返そうとしたのだが、ふとあることに思い当たり、足を向ける先を自室から変更することにした。葵が現在住んでいるアパートの名はワケアリ荘といい、ワケアリ荘の一階には住人が共同で使用する多目的ルームがある。自室にはいなくとも、もしかするとそこにいるかもしれないと思ったのだ。

(あれ? 開いてる)

 多目的ルームの扉は、使う鍵によって様々な場所に繋がる。少しだけ開いているこの扉の先がどこに繋がっているか分からなかったため、葵は恐る恐る扉に手をかけた。

「誰かいるの?」

 扉を開けた先が浴室で、誰かが入浴中という可能性も無きにしも非ずだったため、葵はいちおう扉を開く前に声をかけてみた。しかも返答らしきものはなく、水音なども聞こえてこない。もし扉の先が浴室だったとしても、誰かが入浴しているということはなさそうだ。大丈夫そうだったので扉を開けると、その先には葵が予想もしていなかった光景が広がっていた。

(……えっ)

 急に視界が開けたことで目が回ってしまっていた葵は、やがて自分が置かれている状況に気がついて顔色を変えた。チラリと下方に視線を移すと、普段は近い場所にある青草の海が遠い。また目が回ってしまいそうだったので焦って顔を上げると、今度は空が近かった。夜空にぽっかりと浮かんだ月が、くすんだ色彩で青草の海を照らしている。状況から察するに、おそらくここはアパートの屋根の上だろう。

(こ、怖っ!)

 心構えもなく屋根の上に上ってしまった葵は落下の恐怖に駆られ、硬直してしまった。しかしそのまま突っ立っているのも怖いので慎重に体を屈め、その場にへたり込む。上体だけ捻って背後を見ると、幸いなことに扉は消えていなかった。それはもう扉というよりは別の場所が四角く切り取られて映っているだけの『映像』だったが、そこを通って来たからには元の場所にも戻れるだろう。そう思った葵が方向転換しようと四苦八苦していると、不意にどこかから声が降ってきた。

「これはまた、珍しいお客さんだ」

 聞き覚えのある声に驚いた葵は、やっとのことで出来た方向転換を放棄して背後を振り返ってしまった。そうして目にしたのは、黒い毛並みをした猫。しかし猫を視界に捉えた刹那、急な方向転換でバランスを崩した葵は屋根を滑り下りてしまった。

「大丈夫かい、マドモワゼル?」

 急な出来事に体も頭も対処出来なかった葵は、気がつけば目をつむっていた。しかし声をかけられたことでハッとして、葵は慌てて目を開ける。その瞬間瞳に映ったものは、奇抜な髪型をした青年の顔だった。

「か……管理人さん?」

「足場の悪い所で急に動くと危ないよ」

 葵の体を抱き上げていた管理人は、そう言うと屋根の上にゆっくりと葵を下ろした。管理人に促されるままその場で腰を落ち着けた葵は、まだ整理のつかない頭で疑問を口にする。

「あの、今、何がどうなったんですか?」

「まず、君が足を踏み外して落下をした。それを僕が抱きとめて着地して、その後また屋根の上まで跳んで来たんだよ」

「え、ええっ?」

 説明を聞いても俄かには信じ難い話だったため、葵は胡散臭げな声を出してしまった。その反応がおかしかったのか、管理人はくすくすと笑いを零している。笑われてしまったことで気恥ずかしくなった葵は、やがてここが魔法の存在する世界なのだということを思い出し、平静に戻った。

「助けてくれて、ありがとうございます」

「助けた、と言うほどのことはしていないよ。そもそも、君を驚かせてしまった僕の責任だからね」

 管理人の一言で落下前の状況を思い出した葵は、同時に猫のことも思い出して周囲を見回してみた。しかしもう、屋根の上に猫らしき影は見当たらない。

「あの、誰か猫を飼ってるんですか?」

「……猫?」

「さっき黒い猫がいたような気がしたんですけど……気のせいですかね?」

 それまで笑みを浮かべていた管理人が真顔に戻ってしまったので、尋ねてはならないことを聞いてしまったのかもしれないと察した葵は『気のせい』ということで話を自己完結させようとした。言葉の途切れた屋根の上で、葵から視線を外した管理人はどこか遠くを見つめている。何やら気まずい空気が漂ってしまったため、退散しようと思った葵はその旨を管理人に告げた。すると彼は、腕を伸ばして葵の行動を制する。驚いた葵は目を見開き、再び管理人に向き直った。

「管理人さん?」

「マドモワゼル、僕の顔をよく見てごらん」

 言葉の意味が把握出来ないまま、葵は眉をひそめて管理人の顔を注視した。伽羅茶色の月明かりに映し出されている彼の顔は、平素と変わらず端整だ。どこかミステリアスな印象を受けるのは、彼のことをほとんど何も知らないからなのかもしれない。

(……あれ?)

 管理人の顔を見ているうちに何かが引っかかり、葵は首を傾げた。違和感の正体を見つけようと、葵はさらに管理人の顔を凝視する。やがて視線が辿り着いた先は、管理人の前髪だった。

(管理人さんの前髪って、ぜんぶ染まってたっけ?)

 そこまで考えたところで、葵の脳裏にはワケアリ荘に初めて来た時の光景が蘇った。あの時、ユアンが彼のことを『クレッセント・ムーン』と呼んでいた。前髪の一部だけが黄色く染まった管理人の髪型を見て、葵はその呼び名に密かに納得していたのだ。

「クレッセント・ムーン……?」

 夜空に二月が浮かぶこの世界では、月が欠けることはない。何故なら常時見えている月は二つだが、この世界の空には七つの月が存在していて、それらが欠けた部分を満たしながらゆっくりと入れ替わっていくからだ。よくよく考えてみれば『クレッセント・ムーン』という呼び名自体がおかしい。そう気付いた葵が眉根を寄せると、管理人はニコリと微笑んだ。

「今度は僕の目を見てごらん」

 言われるがまま、葵は管理人の目元を凝視した。少し吊り目の彼は虹彩が金色で、瞳孔が細くなっている。その部分だけを注視していると、彼の姿はあまりにも……。

「そろそろ限界みたいだ」

「……えっ?」

 いつの間にか管理人の瞳に見入っていた葵は彼が発した呟きで我に返った。近付きすぎていたことに気が付いた葵が慌てて身を引いた刹那、管理人の体が淡い光を放ち出す。輪郭を残したまま光の塊となってしまった彼はやがてその輪郭をも変えていき、葵が再び我に返ったときには視界から管理人の姿が失われていた。

「管理人さん……?」

「ここだよ、マドモワゼル」

 すぐ傍で応える声が聞こえたため、少しだけ目線を下げる。すると先程まで管理人が座っていた場所に、葵が落下する直前に見た黒い毛並みの猫が行儀良く座していた。







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