黒猫になってしまった管理人の姿を目にしても、葵はあまり驚きを感じてはいなかった。それは彼が、事前にヒントを与えてくれていたからかもしれない。遅ればせながら管理人の気遣いを察した葵は、猫になってしまった彼にまずお礼を言った。
「管理人さんも魔法生物なの?」
すでにクレアのパートナーであるマトが
「魔法生物というのはこの世界で魔力を備えて生まれてきた、人間以外の動物のことなんだ。僕はそもそも、この世界の者ではないからね」
突然の告白に、葵は耳を疑った。驚愕した葵は目を見開き、焦って問いを口にする。
「それって、別の世界から来たってこと?」
管理人は答えなかった。しかし彼は、少し間を置いてから穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「僕たちの種族には超感覚という能力が備わっていてね、未来を見ることは出来ないのだけれど予兆のようなものを察知することが出来るんだ。けれど、君に初めて会った時に感じたのは超感覚の直感じゃなかった。世界の壁を越えた時のような、不思議な感じだったよ」
即答ではなかったものの管理人からはっきりとした答えを得た葵は嬉しいようなホッとしたような、複雑な気分になった。しかし喜ぶよりも先に知りたいことがあり、葵は矢継ぎ早に質問を重ねる。
「元の世界に帰れる方法、知らない?」
「残念ながら、力にはなれそうにない」
先程の問いかけとは違い、今度の答えは即答だった。期待に胸を膨らませていた葵はガックリと肩を落とす。
「……そっか」
「君は、望んでここにいるわけではないのだね」
「管理人さんは帰りたいとか思わないの?」
「僕は、自らが望んでこの世界へ来たんだよ」
自ら望んでと言うわりには、管理人の声音は苦いものだった。彼の過去に何かがあったのは確かなようで、葵は眉根を寄せて口をつぐむ。
(管理人さんもワケアリ、かぁ……)
誰が名付けたのかは分からないが、こうもワケアリな者ばかり集っていると皮肉にも思えてくる。ふと、それを考えたのがユアンではないかと思った葵は表情を改めて管理人に向き直った。
「ユアンは管理人さんのことも知ってるの?」
「彼は僕らの理解者なんだ。この空間も彼に創ってもらったものなんだよ」
「つくったって……どういうこと?」
「トリックスターから何も聞いていないのかい?」
何の前触れもなく突然葵の前に姿を現したユアンは帰る時も別れの言葉一つなく、いつの間にか帰ってしまっていたのだ。彼の口からはワケアリ荘についてほとんど何も聞いていないことを葵が告げると、管理人は不意に彼女から視線を外した。
「マドモワゼル、あれを見てごらん」
促された葵は管理人の目線の先を追い、アパートの周囲に広がっている大草原に視線を移した。いつもより高い場所から眺めてみると改めて、草の海がどこまでも広がっていることが見て取れる。草原には果てがなかったものの、葵はその途中にある樹木に目を留めた。草原を構成している青草は瑞々しく茂っているのに、その海の中に佇む木は葉をつけていない。天に向かって枝を伸ばしているシルエットがなんだか物悲しげに思えて、立ち枯れた樹から視線を外した葵は隣にいる管理人を振り向いた。行儀良く座したままの黒猫は未だ大樹を見つめたまま、淡々と語り出す。
「この草原は僕の故郷なんだ。それに似せて、トリックスターが『世界』を創ってくれた」
「世界って創れるものなの?」
「もちろん、マドモワゼルや僕がもともと住んでいたような『世界』じゃない。ここは僕たちが今いる『世界』の一部を隔離した擬似世界なんだ。あの枯れている樹は、その境界線なんだよ」
だからあの樹より先へ行ってはいけないと、管理人はそう付け加えた。もう一度樹に視線を移した葵は感嘆の息を吐いてから言葉を次ぐ。
「世界を創っちゃうなんて、ユアンって案外すごいんだね」
「トリックスターは敬愛に値する人物だよ」
心なしか管理人の頬が緩んだような気がしたが、猫の姿では本当のところは分からない。猫の姿を見ていてふと、ある疑問を抱いた葵は率直に問いかけを口にした。
「ねぇ、管理人さん。猫の姿と人間の姿、どっちが本当の管理人さんなの?」
「どちらも本当の姿だよ。僕たちの種族は月の満ち欠けによって姿を変えるんだ」
「そうなんだ? でも、この世界では月って欠けないよね?」
「そうだね。それでも僕の体は故郷の月に支配されている。今は違う世界にいるのに、不思議なことだね」
この世界へ来た当初は変態のリズムが狂ってしまい、体調を整えるのが大変だったと管理人は過去を語った。葵もすでに自分が元々いた世界とこの世界とでは時間の流れが異なることを知っていたため、管理人の意見に苦笑で同意する。
「私も早く帰らないと、浦島太郎になっちゃうよ」
軽口を言ってしまってから補足が必要なことに気がついた葵は『浦島太郎』のおとぎ話を管理人に話して聞かせた。目を丸くしながら葵を仰いでいた管理人は、話が終わると同時に感嘆の息を零す。
「君のいた世界の者は
生まれ育った世界のことを褒められても、どう応えたらいいのか分からなかった葵は曖昧な笑みを浮かべた。しかしふと、浦島太郎の話がただのおとぎ話で片付けられないことに気がついて真顔に戻る。現時点で、葵がこの世界へやって来てから六ヶ月近くが経過している。
(うわっ、笑えない)
この世界での一年が七ヶ月とはいえ、葵は着実に歳を重ねている。この世界での滞在が長引けばいずれ、生まれ育った世界で同級生だった者達よりも年上になってしまうという事態に陥りかねないのだ。
「元の世界に帰った時、この世界で過ごした分の時間ってどうなるんだろう?」
世界の壁とやらを越えて元いた世界に帰る時、それも精算されないのだろうか。そんな淡い期待を抱きながら葵が独白を零すと、管理人は目を瞬かせた。どうやらそうした考え自体、彼は思いつきもしなかったらしい。
「君は、光のようだね」
「光?」
「それも朝日のように
そう言ったかと思うと、管理人は不意に立ち上がった。跳躍した彼は猫らしい身のこなしでアパートの屋根を駆け下り、そのまま夜の草原へと消えて行く。管理人の突然の行動にあ然としていた葵はしばらくの後、青草を揺らす音が途絶えたのを機に我に返った。
(行っちゃった……)
どこに姿をくらましてしまったのか、眼下に広がる草の海にはもう管理人の気配はない。静寂を取り戻した草原からは虫の音さえも聞こえてこず、まるで時間が止まっているかのように青草たちも静止している。管理人の気配を探して草原を見つめていた葵は、やがて夜空にぽっかりと浮かんでいる月を仰いだ。
どこまでも青草の海が広がるこの空間は、ユアンが創り出した擬似世界なのだと管理人は言っていた。ならばいつもより近い場所にあるこの月も、もしかしたら本物ではないのかもしれない。そう考えるとよりいっそう生まれ育った世界が遠くなったような気がして、葵は小さく息を吐いた。
(……寝よう)
どれだけ郷愁が胸に迫って来たとしても、帰れないものは帰れないのである。そのことをすでに承知している葵は感傷に浸ってしまうことを避けるため、慎重に足元を確かめながら元来た道を引き返したのだった。
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