ワケアリ荘の202号室で布団に横たわっていた葵はふと、何かのキッカケで自然と覚醒した。しかし瞼を持ち上げてすぐ、まばゆい光に目を焼かれた葵は再び視界を閉ざす。頭まで布団をかぶった葵はしばらくそのまままどろんでいたのだが、敷布団と掛け布団がつくるわずかな隙間からも光が侵入してきたため、ハッとして目を開けた。頭をすっぽりと覆っている掛け布団をおそるおそる退けてみると、まぶしすぎる光が目の前を真っ白にする。あまりの眩しさに痛みを覚えた葵は涙を零しながら掛け布団で光を遮断した。
(何、これ)
寝起きの頭では不測の事態に対応することが出来ず、葵はしばらく布団の中で同じ呟きばかりを繰り返していた。しかしいつまでもそうしているわけにはいかなかったため、やがて必死の思いで移動を開始する。とにかく外へ出たかった葵はナメクジのように畳の上を這いずり、なんとか玄関へと辿り着いた。目の前に立ち塞がったものが扉であると知れたのは、葵が掛け布団で作った影の中に身を潜ませているからだ。アパートの廊下へと抜け出した葵は後ろを振り向かないように自室の扉を閉ざし、そこで目にした自然な光景にホッと胸を撫で下ろした。
(何だったんだろう……)
人心地ついたことで冷静になった葵は改めて自室の異常に疑問を感じ、背にしている扉を振り返ってみた。そこで目にした光景に、葵はギョッとする。閉ざされた扉の隙間から外へと漏れ出している光が、通常では考えられないような速度で輝きを増していたからだ。光の洪水は留まることを知らず、そのうちに扉さえも押し開けそうな勢いだっため、葵はにわかに慌て出した。
(ど、どうしよう)
とりあえず扉を押さえてみたものの、室内から溢れているのは光なので、そうすることには何の意味もない。すっかりパニックになってしまった葵はしばらく扉の前で右往左往していたのだが、やがて妙案を思いついてアパートの外階段を下り始めた。
(管理人さんなら何とかしてくれるかも)
そう思って訪れてみた管理人室は、残念ながら誰もいなかった。だが、ちょうど多目的ルームから出てきたアッシュと出会えたので、葵は彼に助けを求めることにした。
「その格好、何?」
葵が口を開くより先に問いを口にしたアッシュは、葵の出で立ちを見て怪訝そうに眉をひそめた。それもそのはずであり、寝起きの葵はネグリジェ姿のままで、小脇には丸めた掛け布団を抱えている。しかしそれどころではなかった葵は火事に遭って焼け出されたような姿には構わず、アッシュの腕を引いてアパートの二階へと戻った。葵の部屋から漏れ出している光を見て、アッシュは再び眉根を寄せる。
「何か魔法を使った?」
「使ってないよ」
「でも、アオイの部屋から魔法の気配がする」
「魔法の気配?」
「波動が安定してるから、
マジック・アイテムと聞き、心当たりのあった葵は小さく呟きを零した。目を細めて扉を見ていたアッシュは眉間のシワを解き、顎に手を当てた格好のまま葵を振り返る。
「何か思い当たることが?」
「うん……」
苦笑いを浮かべた葵はアッシュに、アルヴァからもらった『目覚まし時計』の説明をした。するとアッシュは、納得がいったというように一人で頷いている。
「よく、使用人が使ってるヤツだな。何でそんなものが必要だったんだ?」
「だって、起きられないんだもん」
アッシュが不思議そうな表情をしていたので、葵はクレアの当番を代わりにやっていることを説明した。それで疑問は解決したようで、アッシュは苦笑いを浮かべる。
「最近クレアが頼みに来なくなったのはそういうことか」
「頼みにって?」
「クレアは仕事を持っているだろう? 風呂当番とか夕食当番とかはどうしても都合がつかないことがあるみたいで、前はオレが代わりにやってたんだ」
「へぇ……そうだったんだ」
「アオイも、忙しいんだったらオレが代わるよ」
「えっ、いいよ。悪いし」
「どうせ暇だから。気にせず任せてくれていいよ」
気にせずにと言われても、やはり全てを任せてしまうのは気が引ける。そう思った葵は悩んだ末、アッシュに助力を要請することにした。丸投げはしないが手伝って欲しいという譲歩が強情に映ったのか、アッシュは苦笑しながら頷いて見せる。
「分かった、手伝うよ」
「ありがと。でも、忙しいときは無理に手伝ってくれなくて大丈夫だからね?」
気を遣った葵が念を押すと、アッシュは苦笑いのまま本当に暇なのだということを強調した。それを社交辞令だと受け取った葵は何気なくその話を続ける。
「アッシュだって、たまには友だちと遊んだりとかするんでしょ?」
「それより、今はこれを何とかしないと」
アッシュがあからさまに話を逸らしたため、葵はまずいことを口走ったのだと気がついた。ここは普通のアパートではなく、詮索を嫌う者ばかりが集っている『ワケアリ荘』なのである。いたって普通の青年に見えるアッシュも、ここで暮らしている限りは何らかの事情を抱えているのだろう。それなのに葵は、無粋にプライベートを侵す発言をしてしまった。詮索するつもりはなかったものの配慮が足りなかったことは事実であり、アッシュに申し訳なく思った葵は頭を下げる。
「ごめん」
葵の謝罪に対し、アッシュは彼女の頭を優しく撫でるだけで返事とした。葵に顔を上げさせると、アッシュは何事もなかったかのように話を再開させる。
「入居する時に管理人から聞いたと思うけど、ここは世界の理から外れた空間だから。魔法だけじゃなくて、
そうなんだと、アッシュの説明を聞いた葵は胸中で呟きを零した。おそらくはアッシュだけでなく他の住人達も、入居する時に管理人から注意を受けているのだろう。だからワケアリ荘の人々が魔法を使っている姿を見たことがないのかと、葵は一人で納得した。しかしすぐ、あることに思い当たって眉根を寄せる。
「あれ? でも、クレアは魔法を使ってるよね?」
「彼女のは純粋な魔法じゃないから。詳しいことは分からないけど、その辺りの事情が関係しているんじゃないかと思う」
葵の問いに答えながら202号室の扉を開けたアッシュは、室内から溢れてきた光に怯んで慌てて扉を閉ざした。扉が開いた途端に飛び出してきた光の量は半端なものではなく、異様な光景を目にした葵も口元を引きつらせる。
「目が覚めるどころの騒ぎじゃないな」
呆れたように独白を零した後、アッシュは何故か隣の203号室へと向かって行った。後を追わなかった葵は自室の前に佇んでいるのだが、隣室からは203号室の住人を呼ぶアッシュの声が聞こえてくる。しかし不在だったのか、やがてアッシュ一人が廊下へと戻って来た。
「マッド、いなかったの?」
「いたけど寝てたから、勝手に借りてきた」
そう言うと、アッシュは手にしていた色眼鏡を葵の前で装着して見せた。デザイン性を無視している無骨なサングラスは、203号室の住人であるマッドが愛用しているものだ。
「それ、こういう時には便利だね」
「マッドはもともと、そういう用途でかけてるみたいだから」
「そういう用途?」
「前に尋ねたことがあるんだ。これ、シュミでかけてるのかどうかって」
半ばゴーグルのように目を覆っているサングラスの縁を指で持ち、アッシュは質問をした時のマッドの答えを教えてくれた。その話によるとマッドは問いに、実験に必要だから掛けているのだと答えたらしい。アッシュからそうした話を聞いた葵は小首を傾げた。
「実験って、何の?」
「オレも不思議に思って訊いてみたんだけど、説明が専門的すぎてまったく解らなかった。けど、とりあえず、ファッションで掛けてるわけじゃないみたいだ」
「……もしかして、あのスキンヘッドにも何か意味が?」
マッドの容姿で目を引くのは、キレイに剃り上げられたスキンヘッドと目元を覆い隠しているサングラスである。トレードマークの一つに意味があったのなら、もう一つにも何か理由があるのかもしれない。そう話を繋げてしまった葵は、訊かずにいられなかったのだ。葵があまりにも真剣な表情で尋ねたからなのか、アッシュは顔を背けて吹き出した。
「そこ、やっぱり気になってたか」
「そりゃ、気になるでしょ。で、どうなの?」
「さすがにそこまでは訊いてない。マッドと仲いいみたいだし、機会があったら自分で訊いてみなよ」
そこで話を切り上げたアッシュは202号室の扉を開け、光が溢れすぎている室内へと進入して行く。アッシュの一言でマッドにも用事があったことを思い出した葵は扉が開きっぱなしになっている203号室の内部を覗きこんだものの、室内が静まり返っていたために出直すことにして再び廊下へと戻った。
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