天空に
(……やっぱり、帰って来てないんだ)
夕飯時にマッドがいなかったため、葵はすでに彼が外出しているという情報をアッシュから得ていた。昨夜のこともあるので、外出しているマッドが今日中に帰って来るとは限らない。それでも諦めきれず、葵は幾度か203号室の様子を見に来ていた。しかし結果は、ことごとく空振りである。
(また後で来よう)
次第に眠くなってきていたため、葵はアクビをしながら踵を返した。そのまま自室に戻ろうとしたものの、このままではいつ眠ってしまうか分からないため、気分を変えることにした葵は再び踵を返す。アパートの外階段を下りて地上に降り立った葵は、そのままワケアリ荘の住人が共同で使っている多目的ルームへと足を運んだ。
(管理人さん、いるかな?)
誰かと話をしていれば眠気も紛れるし、何より管理人には訊きたいことが山ほどある。期待をこめて、葵は鍵を使わずに多目的ルームの扉を開いた。刹那、目に飛び込んで来た光景に葵は言葉を失う。
「ようこそ、マドモワゼル。今夜もいい月夜だね」
そんな言葉で葵を迎えてくれたのは、
「こんばんは」
葵に向かってペコリと頭を下げた少女は、204号室の住人であるレイン。そして彼女の腕の中にいたのは、ワニに似た体型をしている魔法生物だった。意外な組み合わせに驚いていた葵はレインの挨拶に応えたのち、チラリと管理人の顔色を窺う。葵の視線を正確に受け止めた管理人は、特に表情を変えることもなく頷いて見せた。『大丈夫』という合図を受け取った葵は緊張を解き、レインの腕に抱かれているマトに視線を向ける。
「もしかして、クレアも知ってるの?」
「いや、キッティーは知らないよ。彼は、知っているけどね」
管理人の目線がマトの方へ向いたので、彼というのはおそらくマトのことなのだろう。人語を話せないはずのマトが人間と同等に扱われていることを不思議に思った葵は小首を傾げながら屋根の上に腰を落ち着ける。すると不意に、それまで大人しくしていたマトがレインの腕の中で身動いだ。
「……いいの?」
瞳を覗き込みながら、レインがマトに語りかける。少し間を置いた後、彼女は曇天色の双眸を隣に座っている葵へと向けた。
「マトが、触れて、って」
「……え、」
唐突な申し出に躊躇した葵は明確な返事をすることが出来ず、固まってしまった。レインとマトはそんな葵を見つめたまま、彼女が行動を起こすのを静かに待っている。彼女達の視線に耐えられなくなった葵は救いを求め、レインの向こう側にいる管理人に目をやった。
「大丈夫だよ、マドモワゼル。触れてごらん」
救いを求めた先で管理人にまで促されてしまったため、葵は成す術なくマトへと視線を落とした。葵が恐る恐る腕を伸ばしても、レインの腕の中にいるマトは微動だにしない。それは葵が手を触れてのちも変わることがなかったのだが、マトの表皮に触れた刹那、葵の方には劇的な変化が訪れた。
(なに、これ……)
マトに触れている指先から、ダイレクトに彼の思考が伝わってくる。それは人間の言葉のようなものではなかったのだが、それでも『マトの意思』というものを頭が理解したのだ。言葉にし難い初めての体験をした葵は、マトが伝えてきた内容に苦笑を浮かべた。
「彼は、何て?」
そんな質問を投げかけてきた管理人には、どうやらマトの『言葉』は伝わっていないようだった。マトの思いをどう表現すればいいのか考えながら、葵はとりあえず口火を切ってみる。
「えーっと……クレアのフォロー、かな?」
瞬時にして多くの情報を葵にもたらしたマトの『言葉』は、そのどれもが彼のパートナーであるクレアに関わりのあることだった。彼女の子供の頃のエピソードまで持ち出してきたマトの真意は、おそらく『クレアはそんなに悪い子ではない』という旨を葵に伝えたかったのではないかと思われる。その愛情の深さは親子や
「私に対する態度が悪いのは理由があるんだって、許してあげてほしいって、何度も言うんだもん。なんか、こっちが照れちゃう」
「今日のマト、おしゃべり」
「そうなんだ?」
初めてマトと意思の疎通をした葵が尋ねると、レインはコクリと頷いて見せた。彼女の口ぶりは、常日頃からマトと会話をしていることを物語っている。マトと言えばクレアの肩口にいるイメージしかなかった葵は、レインの態度を意外に思った。
「マトと仲、いいんだ?」
「ここでよく、ムーンと三人でお話しするから」
「ムーンって……管理人さん?」
レインが頷いたのを見届けて、葵は彼女の奥にいる管理人へと視線を傾ける。彼は会話に参加するでもなく月を仰いでいて、葵が目を向けても反応らしきものは返ってこなかった。
(こういうところ、ネコっぽいなぁ)
葵がそんなことを考えていると、レインの腕の中で再びマトが身動ぎを始めた。葵はもう手を離していたが、マトを抱いているレインは彼の意思を感じたようで、音も立てずに立ち上がる。
「行くね。おやすみなさい」
説明を加えることはせず、レインはそれだけを言うと地上へ通じる扉をくぐって姿を消してしまった。屋根の上に取り残された葵はレインが抜けた分の距離を縮めることはせず、その場から管理人に話しかけてみる。
「急にどうしたんだろう?」
「たぶん、キッティーが探していたんじゃないかな。彼はいつでも、キッティーのことばかり考えているから」
管理人の話によるとマトは、クレアが生まれた時から彼女の傍にいるらしい。どんな時でも共に歩んできた彼女達の歴史は、そのまま愛情の深さにつながっているようだ。そんな推測を聞いて改めて、葵は硬い絆で結ばれた二人が羨ましいなと思った。
「羨ましいね」
思考にかぶさるように管理人が独白を零したので、同じことを考えていた葵は驚いて目を瞬かせた。
「管理人さんって、本名はムーンっていうの?」
胸の痛みを意識しないように、葵は努めて明るく管理人に話しかけた。ようやく月から視線を外した管理人は、葵を振り向いて寂しそうに微笑む。
「初めに僕をそう呼んだのはトリックスターなんだ。彼は僕の毛色が変わるのを面白がって、クレッセント・ムーンなんていう風に呼んだりもするけどね。本当の名前はもう、忘れてしまったよ」
「忘れたって……。管理人さんはそんなに長くこの世界にいるの?」
「数え始めてから、もう五十ほど夜と朝を迎えたかな。近頃はまた数えなくなってしまったから、本当の長さは僕にも分からない」
数えていない間の時間を加えれば、彼はもう百年くらいはこの異世界に留まっているのではないだろうか。滞在期間が長そうだという予測はしていたものの、そのあまりの長さに葵はショックを隠しきれなかった。
(百年……)
管理人の種族がどの程度の長寿なのかは分からないが、百年も経てば葵は間違いなく土の下である。最悪の想像が頭をよぎり、目の前をどんどん暗くしていく。だが奈落の底に沈みきってしまう前に、頬に触れた管理人の手が葵の意識を現実まで引き上げてくれた。
「ごめん。君を失望させるために話をしたわけじゃないんだ」
憂いの表情を見せた管理人の瞳は、瞳孔が細く尖っていた。前髪も大部分が黄色く染まっていることから、彼が間もなく猫の姿になってしまうことが窺える。葵が顔を歪めると、管理人はフッと力ない笑みを浮かべた。
「君と違って僕は、帰ろうとしなかった。だから今もここにいる。君と僕とでは初めから違いすぎるんだよ」
だから絶望することはないのだと、管理人はそう言って葵の額に慰めのキスを落とした。次の瞬間には目の前で、管理人が人間の形を失っていく。闇色をした猫は身軽にアパートの屋根から飛び下り、そのまま青草の海へと姿を消した。
『諦めないで』
別れ際に管理人がそう呟いたような気がして、葵は口元を抑えながら立ち上がると地上へと続く扉を静かに開けた。
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