天空に
保健室の前で佇んでいるのは紅の髪を持つ私服の少年。一見すると少女のようにも思える恐ろしいまでの女顔をしている彼の名はウィル=ヴィンスという。アステルダム分校のマジスターである彼がこんな時分に校舎を訪れたのには、ある理由があった。目的意識を持ってこの場所を訪れたウィルは、ノックもせずに保健室の扉を開く。内部に人間の姿はなかったが、窓際にあるデスクの上に白いウサギの姿があった。
自然界に見る生物としての兎とは様相を異にする体型をしているこのウサギは、アステルダム分校の保健室の主だ。そのウサギは少なくともウィルが入学した時から学園の校医をしていて、一般の生徒には『ウサギ先生』などと呼ばれている。しかし「先生」とは名ばかりで、知能の低いウサギが校医らしい働きをしているところをウィルは一度たりとも見たことがなかった。このウサギを玩具としてしか見ていないウィルは、完全に侮った態度で口火を切る。
「僕に何の用?」
ウィルをこの場所へと導いたのは
「オ名前と、クラスを教エてクださい」
ウサギから返ってきた言葉に、ウィルは二重の意味で首を傾げた。一つは、メサージュの送り主かと思われたウサギが何も承知していなさそうなことに。もう一つはウサギの機械的な喋り方に対する違和感に、だった。このウサギは普段、舌ったらずな子供のような喋り方をする。そのため平素はよく出来た
「名はウィル=ヴィンス。クラスには所属してないよ」
日中は活発に動いているウサギの動力は、太陽光なのかもしれない。そんな洞察をしながら、ウィルはとりあえず質問の答えを口にした。するとそれまで濁っていたウサギの瞳が、急に赤々と輝き出す。
「ウィル=ヴィンスさま。お待ちしておりました」
口調を改めると同時に背筋と耳をピンと正したウサギは不意に、何もない空間を仰いだ。ヒゲと鼻をヒクヒクと動かしている姿は、まるで何者かと交信しているかのようである。
「ウィル=ヴィンスさまに大いなるエクスペリメンターからの言葉をお伝えいたします」
しばらく鼻を動かした後、ウィルに向き直ったウサギはそんな言葉を口にした。どうやら実際に、ウサギは誰かの意思で動いているものらしい。
「我らは魔法の
ウサギの口から
「ずいぶんと礼を欠いたやり口だね。能力を示すこともせず、研究の内容も明かさないなんて、判断の仕様がないと思うんだけど?」
ウィルの返答を受け、ウサギはまた空中を仰いだ。今度はさほど間を置かず、ウサギはルビーのように真っ赤な瞳を再びウィルへと向ける。それまで後ろ足だけでデスクの上に立っていたウサギが前足もデスクに着くと、その姿は光を帯びながら変形を始めた。やがて一回りほど縮んでしまったウサギはヌイグルミのような形ではなく、生物として自然な形へと変貌を遂げている。中途半端な
「ウィル=ヴィンスさまにはこれで十分だろうと、エクスペリメンターは仰っています」
「……へぇ、そういうこと」
口元に浮かんだ笑みを隠すために、ウィルは唇に手を当てながらウサギに相槌を打った。魔力を有さないこのウサギは天然の魔法生物ではない。しかしウィルが思っていたように、
「誓約の内容を聞こうか」
もう微笑みを隠そうとはせず、ウィルは薄い笑みをウサギへと向けた。再びヌイグルミのような姿に戻ってから、ウサギは月明かりを取り込んでいる窓へと顔を傾ける。
「儀式の準備は整いました。どうぞ、グラウンドへ」
後ろ足だけでデスクの上に立っているウサギが窮屈そうに頭を下げるのを尻目に、ウィルはすぐさま保健室を後にした。静まり返っている廊下へ出た彼は、そのまま徒歩で校舎の外へと向かう。指定されたグラウンドへ足を運んでみると、そこには巨大な魔法陣が描かれていて、その中央に鮮やかな金髪をした青年が佇んでいた。
(空間が隔離されている)
グラウンドに描かれた魔法陣から立ち上る魔力が空間を遮断していて、魔法陣の内部だけが切り取られた別の世界へと姿を変えている。いくら月の光で魔力を助長しているとはいえ、そのようなことは誰にでも出来ることではない。実験者とやらの力をまざまざと見せ付けられたウィルは、肌が粟立ったのを感じながら唇を笑みの形に歪めた。
グラウンドに描かれている魔法陣に見覚えはなかったが、これはおそらく
「お誘い、ありがとう」
「さすがに、いい度胸をしている」
実験者が開口一番に言ったことは、もしかすると皮肉だったのかもしれない。しかしそれを褒め言葉と受け取ったウィルは微笑みでもって青年に応えた。
「それで、誓約の内容は?」
「簡単なことだよ。ミヤジマ=アオイとクレア=ブルームフィールド、僕はこの二人の保護者でね。調べられると都合が悪かったんだ」
意外な名前が出てきたものだと思いながら、それでウィルは『取引』の内容を理解した。どのみち魔法陣に踏み込んだ時点で拒否する権利は失われてしまっているため、ウィルはあっさりと頷いて見せる。
「あとは、禁呪の口外無用くらいかな」
「
「誓約は交わしてもらうよ。それがイニシエーションだからね」
「その前に、名前くらい教えたらどう?」
「その必要はない。僕のことは
「……ふぅん」
ウィルは少しだけ目を細めたが、それ以上追及を重ねるようなことはしなかった。鮮やかな金髪にブルーの瞳を持つ実験者も、会話を切り上げて空を仰ぐ。
「いい頃合だ。そろそろ、始めようか」
そう告げると、実験者は指先にまとわせた風で己の皮膚を切り裂いた。下方に向けられた実験者の指からは鮮血が滴り落ち、そのまま魔法陣へと吸い込まれていく。実験者に倣い、ウィルもまた己の血液を魔法陣へと滴らせた。二人分の血を吸った魔法陣は鮮烈な光を天へと放ち、魔法陣の内側にいる者達を光で覆い隠していく。伽羅茶色の二月が魔法陣の真上に昇った夜、儀式を伴う
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