月夜の集い

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 天空に伽羅茶きゃらちゃ色の二月が浮かぶ夜、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の校舎は月色に染め上げられて静かに色彩を変えていた。本来であれば完全に無人となる時間帯だが、その夜は窓から月の光を取り込んでいる校内をひたひたと歩く音が聞こえていた。その人物が歩みを止めたのは校舎の北辺に位置する、とある部屋の前。扉の上部に掲げられているプレートには、この世界の文字で『保健室』と書かれていた。

 保健室の前で佇んでいるのは紅の髪を持つ私服の少年。一見すると少女のようにも思える恐ろしいまでの女顔をしている彼の名はウィル=ヴィンスという。アステルダム分校のマジスターである彼がこんな時分に校舎を訪れたのには、ある理由があった。目的意識を持ってこの場所を訪れたウィルは、ノックもせずに保健室の扉を開く。内部に人間の姿はなかったが、窓際にあるデスクの上に白いウサギの姿があった。

 自然界に見る生物としての兎とは様相を異にする体型をしているこのウサギは、アステルダム分校の保健室の主だ。そのウサギは少なくともウィルが入学した時から学園の校医をしていて、一般の生徒には『ウサギ先生』などと呼ばれている。しかし「先生」とは名ばかりで、知能の低いウサギが校医らしい働きをしているところをウィルは一度たりとも見たことがなかった。このウサギを玩具としてしか見ていないウィルは、完全に侮った態度で口火を切る。

「僕に何の用?」

 ウィルをこの場所へと導いたのは伝言メサージュという簡易な魔法だった。メサージュは相手に一方的な意思を告げるために使われる魔法で用途は手紙レトゥルに似ているが、紙を媒体とするレトゥルとは違い、メサージュは伝達が行われた形跡を残さない。メッセージの送り主が誰かも判別がつかないため、ウィルはこの場所で自分を待ち構えていたウサギがメサージュの送り主なのではないかと思ったのだった。

「オ名前と、クラスを教エてクださい」

 ウサギから返ってきた言葉に、ウィルは二重の意味で首を傾げた。一つは、メサージュの送り主かと思われたウサギが何も承知していなさそうなことに。もう一つはウサギの機械的な喋り方に対する違和感に、だった。このウサギは普段、舌ったらずな子供のような喋り方をする。そのため平素はよく出来た魔法道具ヌイグルミだと思えるのだが、デスクの上で静止している今の姿は壊れかけの玩具そのものだ。

「名はウィル=ヴィンス。クラスには所属してないよ」

 日中は活発に動いているウサギの動力は、太陽光なのかもしれない。そんな洞察をしながら、ウィルはとりあえず質問の答えを口にした。するとそれまで濁っていたウサギの瞳が、急に赤々と輝き出す。

「ウィル=ヴィンスさま。お待ちしておりました」

 口調を改めると同時に背筋と耳をピンと正したウサギは不意に、何もない空間を仰いだ。ヒゲと鼻をヒクヒクと動かしている姿は、まるで何者かと交信しているかのようである。

「ウィル=ヴィンスさまに大いなるエクスペリメンターからの言葉をお伝えいたします」

 しばらく鼻を動かした後、ウィルに向き直ったウサギはそんな言葉を口にした。どうやら実際に、ウサギは誰かの意思で動いているものらしい。実験者エクスペリメンターと聞き、ウィルは少しだけ眉を動かした。

「我らは魔法の枠組みカドルを外れた、魔の道を追求する集団である。ウィル=ヴィンス、君に魔道への関心があるようであれば、我らは君を同胞はらからとして迎え入れる用意がある。ただし、これは取引である。血の誓約サン・セルマンを受け入れられぬようであれば、今宵のことは忘れてくれて構わない」

 ウサギの口から滔々とうとうと語られた言葉は、勧誘と言うにはいささか圧迫感の強いものだった。興味をそそられる内容ではあったものの肝心な箇所は全て伏せられていたため、ウィルは冷めた瞳でウサギを見下ろす。

「ずいぶんと礼を欠いたやり口だね。能力を示すこともせず、研究の内容も明かさないなんて、判断の仕様がないと思うんだけど?」

 ウィルの返答を受け、ウサギはまた空中を仰いだ。今度はさほど間を置かず、ウサギはルビーのように真っ赤な瞳を再びウィルへと向ける。それまで後ろ足だけでデスクの上に立っていたウサギが前足もデスクに着くと、その姿は光を帯びながら変形を始めた。やがて一回りほど縮んでしまったウサギはヌイグルミのような形ではなく、生物として自然な形へと変貌を遂げている。中途半端な変態メタモルフォーゼを目の当たりにしたウィルは、美しい面を怪訝そうに歪めた。

 変態メタモルフォーゼは魔法ではなく、魔力を持って生まれてきた魔法生物に特有の能力だ。メタモルフォーゼをしたということはこのウサギも魔法生物のはずなのだが、そう結論づけてしまうにはどうしても不可解な点があった。魔法生物は通常の生物とは違って、人間のようにその身から魔力を発している。つい先程までは保健室のウサギもそうだったのだが、変態を遂げた後のウサギには魔力のカケラもなく、一見しただけでは普通の動物と変わらないのだ。それでもなお、保健室の主は人語を操り始めた。

「ウィル=ヴィンスさまにはこれで十分だろうと、エクスペリメンターは仰っています」

「……へぇ、そういうこと」

 口元に浮かんだ笑みを隠すために、ウィルは唇に手を当てながらウサギに相槌を打った。魔力を有さないこのウサギは天然の魔法生物ではない。しかしウィルが思っていたように、魔法道具ヌイグルミというわけでもないようだ。ならば人語を操るこのウサギは、何者かの手によって生み出された人工の魔法生物ということになる。だが人為的に魔法生物を生み出す研究は生態系に悪影響を与えるという名目で王家から禁止令が出されているのだ。このウサギを生み出してしまった実験者は禁忌タブーに触れている。しかし誰も完成させることが出来なかった禁呪を確立した能力は、評価するのに十分なものだった。

「誓約の内容を聞こうか」

 もう微笑みを隠そうとはせず、ウィルは薄い笑みをウサギへと向けた。再びヌイグルミのような姿に戻ってから、ウサギは月明かりを取り込んでいる窓へと顔を傾ける。

「儀式の準備は整いました。どうぞ、グラウンドへ」

 後ろ足だけでデスクの上に立っているウサギが窮屈そうに頭を下げるのを尻目に、ウィルはすぐさま保健室を後にした。静まり返っている廊下へ出た彼は、そのまま徒歩で校舎の外へと向かう。指定されたグラウンドへ足を運んでみると、そこには巨大な魔法陣が描かれていて、その中央に鮮やかな金髪をした青年が佇んでいた。

(空間が隔離されている)

 グラウンドに描かれた魔法陣から立ち上る魔力が空間を遮断していて、魔法陣の内部だけが切り取られた別の世界へと姿を変えている。いくら月の光で魔力を助長しているとはいえ、そのようなことは誰にでも出来ることではない。実験者とやらの力をまざまざと見せ付けられたウィルは、肌が粟立ったのを感じながら唇を笑みの形に歪めた。

 グラウンドに描かれている魔法陣に見覚えはなかったが、これはおそらく血の誓約サン・セルマン用の魔法陣なのだろう。血の誓約は儀式を伴う誓いで、誓約の中でも最も重い強制力を有する。まだ誓約の内容すら知らされていなかったが、ウィルは迷わず魔法陣の内部へと歩を進めた。そして魔法陣の中心に佇む青年の目前で、ピタリと歩みを止める。

「お誘い、ありがとう」

「さすがに、いい度胸をしている」

 実験者が開口一番に言ったことは、もしかすると皮肉だったのかもしれない。しかしそれを褒め言葉と受け取ったウィルは微笑みでもって青年に応えた。

「それで、誓約の内容は?」

「簡単なことだよ。ミヤジマ=アオイとクレア=ブルームフィールド、僕はこの二人の保護者でね。調べられると都合が悪かったんだ」

 意外な名前が出てきたものだと思いながら、それでウィルは『取引』の内容を理解した。どのみち魔法陣に踏み込んだ時点で拒否する権利は失われてしまっているため、ウィルはあっさりと頷いて見せる。

「あとは、禁呪の口外無用くらいかな」

血の誓約サン・セルマンっていうくらいだから、もっと色々な制約があるのかと思っていたけど。意外と簡単なんだね」

「誓約は交わしてもらうよ。それがイニシエーションだからね」

「その前に、名前くらい教えたらどう?」

「その必要はない。僕のことは実験者エクスペリメンターと呼べばいいからね」

「……ふぅん」

 ウィルは少しだけ目を細めたが、それ以上追及を重ねるようなことはしなかった。鮮やかな金髪にブルーの瞳を持つ実験者も、会話を切り上げて空を仰ぐ。

「いい頃合だ。そろそろ、始めようか」

 そう告げると、実験者は指先にまとわせた風で己の皮膚を切り裂いた。下方に向けられた実験者の指からは鮮血が滴り落ち、そのまま魔法陣へと吸い込まれていく。実験者に倣い、ウィルもまた己の血液を魔法陣へと滴らせた。二人分の血を吸った魔法陣は鮮烈な光を天へと放ち、魔法陣の内側にいる者達を光で覆い隠していく。伽羅茶色の二月が魔法陣の真上に昇った夜、儀式を伴う血の誓約サン・セルマンはこうして密やかに執り行われたのだった。






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