(……寒い)
夏の夜明けにしては珍しく寒気を感じた葵はネグリジェの上にカーディガンを引っ掛けてから玄関の扉を開けた。すると案の定、アパートの周囲に広がる青草の海が雨で濡れている。夜空に二月が浮かぶこの世界へ来て目にした二度目の雨に、葵の心はざわざわと細波立った。
(帰りたいな)
郷愁が痛みを伴って胸に迫ってきたのは、雨に濡れた大地から立ち込める独特のにおいのせいだったのかもしれない。朝から沈んでしまった葵は目を伏せ、そうしたことで気が付いた異変にビクリと体を震わせた。
「マ、マッド……?」
目を伏せた瞬間、視界に入り込んできた異物の正体は隣の部屋の住人であるマッドのスキンヘッドだった。彼は何故か葵の部屋である202号室の玄関脇に座り込んでいて、葵が独白を零してもピクリとも動かない。非常事態かと思った葵はマッドの横にしゃがみこみ、慌てて彼の体を揺さぶった。
「マッド? ねえ、どうしたの?」
葵が手を触れると、マッドは薄い眉をひそめながら大きなアクビを零した。彼の目元を覆っているサングラスのせいで分からなかったのだが、どうやらマッドは寝入っていたらしい。心配をして損をした葵は少し怒りながら立ち上がった。
「紛らわしいことしないでよ。死んでるのかと思ったじゃん」
先に立ち上がった葵から少し遅れて、廊下にべったりと座り込んでいたマッドも立ち上がる。動いたということは目を覚ましたのだろうが、葵の憤りに対する反応は返ってこなかった。眉根を寄せてマッドの顔を見ていた葵は、やがて彼に話があったことを思い出して口調を改める。
「そうだ、マッド……」
葵の言葉は、マッドが眼前に何かを突きつけてきたことによって遮られた。唐突なマッドの行動に驚いた葵は数歩後ずさったものの、彼が手にしているものが何なのかを認識すると目の色を変える。
「私のケータイ!」
歓喜の声を上げながら携帯電話をひったくった葵は、急いで折りたたみ式の携帯電話を開いてみた。ディスプレイが真っ暗だったため、試しに電源ボタンを押してみる。しかしいくら長押しをしてみても、ディスプレイは明るさを取り戻してはくれなかった。
(やっぱりダメかぁ……)
復元された携帯電話の外装を目にしただけで喜びすぎてしまった葵は、深々と失意のため息をついた。しかし完全に直らなかったのはマッドのせいではない。もともとこの世界に存在しない物を完全に修復しよという方が無理な話なのだ。それなのにマッドは、とりあえず外見だけでも元の形に直してくれた。その礼を言おうと思った葵はそこであることに気がつき、携帯電話から視線を移す。
「もしかして、これを渡そうとして待っててくれてたの?」
頷いて見せたマッドの話によると、彼は一刻も早く復元した携帯電話を葵に見せたかったらしい。だが復元が終了したのが真夜中だったため、彼は葵が部屋から出てくるのを玄関脇で眠りこけながら待っていたのだ。マッドの真意を知った葵は呆れると同時に、気遣ってくれたマッドに感謝したい気持ちになった。
「ありがとう、マッド。でも、待ってないで起こしてくれれば良かったのに」
「朝まで待っていたのは、同志には英気を養ってもらう必要があったからだ」
「うん?」
マッドが妙なことを言い出したので言葉の意味を汲み取れなかった葵は首を傾げた。葵が説明を待っていると、マッドは無言で上着のポケットから何かを取り出す。そしてそれを、再び葵の眼前に掲げて見せた。
「これ……形状記憶カプセル?」
形状記憶カプセルとは、魔法生物の体内で生成されるレア・アイテムである。呼び名の通り本来はカプセル状をしているものなのだが、葵の眼前にあるのは形状が変化した後のものだ。葵の携帯電話を忠実に再現しているそれを片手で軽々と操作したマッドは、葵の目の前にディスプレイを突きつけた。
「このように、この形状記憶カプセルには様々な情報が記録されている。外形の修理は完璧だが、まだその情報を復元出来ていない」
「……今、気付いたんだけどさ。私が修理に出したものが元に戻らなくても、こっちを使えばいいだけの話だったんじゃ……」
マッドが手にしている携帯電話のディスプレイに映し出されている愛しの芸能人を久しぶりに目にした葵は、自分の鈍さに呆れながら携帯電話に手を伸ばした。しかし葵の手を避けるように携帯電話を引っ込めたマッドは、それは違うと言わんばかりに大きく首を振る。
「形状記憶カプセルは一度その変態能力を使ってしまうと、そのうち消える。だから急いで、こいつの
「コピー……」
複製と聞き、葵の脳裏には携帯電話の機種変更をしに行った時の光景が蘇っていた。送受信したメールの内容やアドレス帳をまっさらな新携帯電話にコピーする。マッドはそれと同じことをすると言っているのではないだろうか。そう理解した葵は期待に目を輝かせた。
「そんなこと出来るの!?」
「出来る、はずだ。そのために同志、君の力を借りたい」
「何すればいい!?」
興奮した葵が詰め寄るとマッドは口元だけでニヤリと笑い、『助力』の内容を説明したのだった。
朝方のワケアリ荘では降りしきる雨の音に紛れて、ドンドンという規則正しい音がこだましていた。その音は貸し部屋が並ぶ二階から聞こえてきているもので、廊下には白いローブをまとった少女が佇んでいる。ワニに似た魔法生物を肩に乗せている彼女の名は、クレア=ブルームフィールド。隣室である202号室の扉を叩き続けていた彼女は、内部から反応がないことを確認すると苛立たしげに髪を掻き上げた。
「おらんのかいな」
もしくは扉を叩く音にすら気付かないほど熟睡しているかの、どちらかである。真相を確かめるために、クレアは202号室のドアを蹴破ろうと足を持ち上げた。しかし構えをとったところで、パートナーであるマトが話しかけてきたので彼に視線を傾ける。
「……そうやな。ドアを蹴破るんは他の場所を探した後でもええわ」
アパートの備品を壊せば管理人の迷惑になるというマトの説得に応じたクレアはドアを壊すことをやめ、一階へと足を向けた。アパートの一階には住人が共同で使用する多目的ルームがあるため、外階段を下りたクレアは多目的ルームの扉の前で歩みを止める。
「何か食べる?」
灰色の髪に空色の瞳といった容貌をしている205号室の住人は、名をアッシュという。飲み物を片手にカウンターキッチンの内側に立っている彼からの問いかけに、クレアは即座に首を振った。
「遅刻しそうやからええわ。それより、お嬢がどこにおるか知らん?」
「明け方にマッドと二人で話をしてたみたいだけど、その後は見てない」
アッシュの答えを聞いたクレアはおかしな組み合わせだと思い、眉をひそめた。しかしすぐ、以前に二人が親しげにしていたことを思い出し、クレアはポンと手を叩く。
「情報提供に感謝や」
アッシュに礼を言うとクレアはくるりと踵を返した。一度食堂を後にした彼女は背後を振り返り、今度は別の鍵を使って扉を開ける。すると案の定、発電室の内部には葵とマッドの姿があった。
「……何しとんのや?」
扉を開けるなり目にした光景に、クレアは疑問を口にせずにはいられなかった。縦横無尽にコードが伸びている発電室の中央にはディ・ナモと呼ばれる自転車に似た装置が置かれていて、葵が汗だくになりながらそれを漕いでいる。ゼーゼーと息を切らせている葵の足元ではマッドが怪しげな装置を手にしていて、一心不乱に何かの作業を行っていた。
「クレ、ア……」
顔だけ傾けてきた葵が途切れ途切れに何かを言っていたので、名を呼ばれたクレアは彼女の正面へと移動した。その直後、それまで手元の装置に目を落としていたマッドが勢いよく顔を上げる。
「出力が落ちている! 回転を上げるのだ!」
「は、はいっ!!」
マッドに一喝された葵は条件反射的に返事をし、勢いを強めてペダルを漕ぎ出した。二人の間には余人が入り込めない異常な雰囲気が漂っていて、それを察したクレアは一言だけで話を終わらせようと口火を切る。
「今日は学園、行かないんやな?」
ペダルを漕ぐことに必死で言葉を紡ぐことが出来ない様子の葵が頷いて見せたので、さっさと発電室を後にしたクレアは一人でトリニスタン魔法学園へと登校した。
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