丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校には、学園のエリート集団であるマジスターが専用で使用する場所というものが幾つかある。それは校舎内だけでなく、校舎の東にある建物群は、その全てがマジスターのための場所だった。中でも彼らが特に好んで集っているのが『
「食い物ないのか?」
紅茶を前に座しているキリルが不意に口を開いたので、ティーカップを口に運んでいたオリヴァーはギクリとして動きを止めた。シエル・ガーデンには茶器はあるが、食べ物は置いていない。すぐには用意出来ない物を所望しているキリルが、そのことでまた機嫌を悪くするのではないかとオリヴァーは気を揉んだのだった。
「腹減ったのか? なら、どっかに食べに行くか」
「つーか、紅茶だけだと物足りねぇ」
しかしレストランへ行くほどではないと、キリルは曖昧なことを言う。それならば持って来させるかとオリヴァーが問うと、キリルはそれもいいと断ってきた。最終的には「ま、いーか」とキリルが流したので、オリヴァーは深々と嘆息する。
キリル=エクランドという人物はもともと気難しい性格の持ち主なのだが、オリヴァーがこうも彼の機嫌に気を配っているのには理由があった。事の始まりは、アステルダム分校にクレア=ブルームフィールドという少女が編入してきたことに遡る。編入以前にキリルとトラブルがあったらしいクレアは、その時の恨みを晴らすためキリルに嫌がらせをした。その嫌がらせに激怒したキリルはその後、手当たり次第に器物を損壊していったのである。彼はもともと気に入らないことがあると物を破壊する悪癖を持っているのだが、今回の破壊は並大抵のものではなかった。修繕してもすぐに屋敷を一軒丸々灰にされてしまうとエクランド家の使用人に泣きつかれたオリヴァーは、キリルの機嫌を治すために数日を費やして彼の気を変えたのだ。そうした経緯があるだけに、今のオリヴァーは些細なことにも過敏になっていた。
二人がしばらく話をしていると、やがてシエル・ガーデンに誰かが進入してきた。転移魔法の気配を察したオリヴァーとキリルは、同時に魔法陣がある方角を振り返る。すでに侵入者が誰なのか分かっていたため、二人は座したままその人物が姿を現すのを待った。
キリルとオリヴァーが待つ場所に姿を現したのは真っ赤な髪が特徴的な女顔の少年だった。その少年は名をウィル=ヴィンスといい、彼もまたアステルダム分校のマジスターの一員である。彼らは学園に入学する以前からの友人であるためキリルは特に表情を動かすこともなくウィルを迎えたのだが、ウィルの姿を目にしたオリヴァーは少し非難するような表情を作った。
「どこ行ってたんだよ」
オリヴァーのこの科白は、今日に限ったものではない。ここ数日、ウィルとは連絡の取れない状態が続いていて、そのおかげでエクランド家からのSOSを受けたオリヴァーだけが大変な目に遭ったのだ。キリルがいるので詳しい事情は話せなかったが、オリヴァーは何度も連絡を取ろうとしたことをウィルに伝えた。しかしウィルは、オリヴァーがどんなに恨みの念をこめて睨んでも眉一つ動かない。
「ちょっとね」
真顔のまま空席に腰を落ち着けたウィルはそれだけを言うと、茶器に紅茶を淹れさせるよう呪文を唱えた。不服にくちびるを尖らせたオリヴァーよりも、キリルの方がウィルの発言に噛み付く。
「ちょっとって何だよ。はっきりしろ」
湯気を上げるティーカップを手にしながらも心ここにあらずの様子だったウィルは、そこでようやく本来の彼に戻ってニヒルな笑みを浮かべた。
「キル、プライベートって言葉知ってる? 訊かれたら何でも答えるなんて子供の付き合い方だよ」
「何だと!?」
「あーあ、やめろよな」
ウィルがおもしろ半分にキリルをからかい、キリルがそれに逆上するのはいつものことである。しかし今回はやっとの思いでキリルの機嫌を治した後だけに、オリヴァーは口調とは裏腹な鋭い視線をウィルへ向けた。オリヴァーの視線を横目で受け取ったウィルは「はいはい」と言わんばかりの表情で肩を竦めて見せる。ここでウィルが一言謝ればキリルの怒りも治まるはずだったのだが、彼が口を開くより前に異変が起きた。何者かがシエル・ガーデンに侵入してきたことを認めた三人は一様に花園へと視線を移す。
「……見てくる」
シエル・ガーデンには窓やドアがないため、この場所へ来るためには転移魔法を使わなければならない。しかし侵入者は、魔法を使った形跡を残さずに現れた。そんなことが出来る人物は限られているため、嫌な予感を覚えたオリヴァーはすぐに席を立ったのだ。しかしオリヴァーの苦労を知らないウィルが呑気な調子でそれを制す。
「こっちに来るみたいだし、わざわざ出迎えてあげることもないんじゃない?」
「座ってろよ。オレ達が動く必要ねぇ」
ウィルの意見に同調したキリルはすでに静かな怒りを滲ませている。ここで反論すれば逆効果になると察したオリヴァーは仕方なく椅子に腰を落ち着けた。そうこうしている間にも侵入者はこちらへ向かって来ており、やがてその姿が見えてくる。マジスター以外の者が簡単に入ることを許されていないシエル・ガーデンに姿を現したのは、トリニスタン魔法学園の制服である白いローブをまとった一人の少女だった。
肩口にワニに似た魔法生物を乗せている少女の名は、クレア=ブルームフィールド。彼女は今、キリルと最も会わせてはならない人物だった。馬鹿にされた時の憤りが蘇ってしまったのかクレアの顔を見るなり、それまで穏やかだったキリルの魔力が色めき立つ。暴走の兆候を感じ取ったオリヴァーが慌てて二人の間に入ろうとしたのだが、それよりも先にクレアがキリルの元へと歩み寄って行った。クレアは真っ直ぐにキリルを見据えていたため、応戦体勢に入ったキリルも椅子を倒す勢いで席を立つ。しかしキリルが次の行動を起こすより前に、クレアが予想外の行動に出た。
「先日の愚行をお詫びいたします。申し訳ございませんでした」
クレアがキリルに歩み寄って行った時、その場にいる誰もが『またケンカを売りに来た』と思った。しかし彼女は、キリルに向かって深々と頭を下げたのだ。一番虚を突かれたのは応戦体勢に入っていたキリルだろう。拳を振り上げたところで静止していた彼は、やがて眉根を寄せながら腕を下ろした。
「どうするの、キル?」
シエル・ガーデンにはしばらく沈黙が流れていたが、それを破ったのはウィルだった。クレアは未だ低頭したまま、キリルの返事を待っている。だがキリルはウィルの問いにも応えようとせず、むっつりと口をつぐんでしまった。
「頭を下げたくらいじゃ許さない、ってさ」
「では、どうすればお許しをいただけますか?」
ウィルがおもしろ半分にキリルの気分を代弁したのに対し、頭を上げたクレアは至って真剣に問い返してきた。彼女が本気で謝罪していることを察したウィルは少し目を細め、つまらなさそうな表情になりながらキリルを振り返る。
「キル、とりあえず殴っておけば?」
ウィルが軽々しく殴れなどと言い出したので、傍で話を聞いていたオリヴァーはギョッとした。しかし当事者であるクレアはウィルの提案を受けて、平然とキリルの足元に跪く。普段は誰彼構わず力でねじ伏せるのがキリルなのだが、さすがにクレアの行動には奇妙さを感じたらしく、嫌な表情を作って後ずさった。
「何だ、この女」
「あれ? キルって押しに弱かったの?」
「うるせぇ!!」
他人事を面白がっているウィルが茶々を入れたため、キリルの関心はもう完全にクレアから離れてしまった。いつものように仲間内だけで会話を弾ませているウィルとキリルにため息をついたオリヴァーは、二人の目を盗んでそっとクレアの傍に寄る。
「もういいから。帰りな」
「そういうわけには参りません。わたくしはきちんとしたお詫びをしなければならないのですから」
気持ちだけでいいと説得をしてみても、クレアは頑として譲らない。クレアの強情な態度に弱り果てたオリヴァーは眉根を寄せて空を仰いでいたが、やがて妙案を思いついてポンと手を打った。
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