広がる波紋

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 夏月かげつ期最後の月である伽羅茶きゃらちゃの月の十一日、朝からトリニスタン魔法学園に登校した葵はあからさまな空気の変化に戸惑っていた。

(何だろう、この雰囲気……)

 それは校舎に足を踏み入れる前、ひいては正門付近に描かれている魔法陣に出現した時点から容易に察知することの出来る異変だった。どこを見てもとにかく、生徒達が浮き足立っているのである。その高揚感が、マジスターが思いつきで『ゲーム』を主催した時のものに似ていると思った葵は人気のない廊下を歩きながら人知れず顔をしかめていた。

(またアレ、やってるのかな)

 まだトリニスタン魔法学園に編入して日が浅い頃、葵は一度だけマジスターが主催した『ゲーム』を目の当たりにしたことがあった。それはルール無用のサバイバルゲームで、校舎内であっても派手な魔法があちこちで飛び交うような代物だったのだ。マジスターや他の生徒達には『遊び』でも、魔法から身を守る術のない葵にとってそれは生死を左右しかねない大問題なのである。

(……アルの所へ行こう)

 始業間近なのに誰もいない教室を目にした時、やはり何かが起きているのだと確信した葵は踵を返して元来た道を歩き出した。自分の身を護るためにはまず、状況を正しく理解することが先決である。一緒に登校したクレアに尋ねることが出来れば良かったのだが彼女は学園へ辿り着くなり姿を消してしまったため、葵はアルヴァ=アロースミスという青年に会うために保健室へと向かったのだった。

 葵の所属する二年A一組の教室は校舎二階に位置している。目的地である保健室は校舎一階の北辺にあるため、葵は手近な階段を下りることで一階へと向かった。しかし階下から悲鳴に似た嬌声が聞こえてきたため、ビクリとした葵は階段の踊り場で歩みを止める。こうした女生徒の黄色い声はマジスターに向けられることが多いため、葵はそのままで様子を窺った。

(今日は一段とすごいなぁ……)

 葵がそんな感想を抱いていると、やがて踊り場から見える一階の廊下を行列が通過していった。白いローブ姿の生徒達をゾロゾロと引き連れて歩いていたのは案の定、マジスターの面々である。だが平素とは違い、行列の先頭集団にはマジスター以外の者も含まれていた。さらには教師と思しき者達までもが集団の中にいたため、嵐が過ぎ去った後の踊り場で葵は一人小首を傾げる。

(何でクレアがマジスターと一緒にいるんだろう)

 マジスターは学園のアイドル的存在だが、クレアは美青年がストライクゾーンなのである。そのためマジスターは彼女の趣味ではないはずであり、特にキリルとクレアはお互いのことを良く思っていないのだ。行動を共にする理由がなさそうな組み合わせだが実際に彼らは先程、並んで歩いていた。そしてもう一つ、葵が疑問に思ったのはマジスター達と一緒にいた見知らぬ青年の存在だった。

(あの人、誰だったんだろう)

 漆黒の髪に同色の瞳といった容貌をしていた青年は、年齢的にみてもまず間違いなく生徒ではないだろう。だが教師とするには、彼を取り巻いていた環境が尋常ではない。トリニスタン魔法学園においては教師が必ずしも生徒の上に位置するとは限らない存在だからだ。

(……ま、いいか)

 謎の青年は芸能人並みの美貌の持ち主だったが、だからといってそれが葵に直接関係があるわけではない。一人で憶測していても絶対に答えを得られないことを知っている葵は早々と詮索を切り上げ、目的地へ向かうべく再び歩き出した。保健室の前に辿り着いた葵は魔法の鍵マジック・キーを使って扉を開けようとしたのだが、どこかから話し声が聞こえてきたために動きを止める。どうやらこちらへ向かってくる人物がいるようだったので葵は鍵を使わずに保健室の扉を開け、室内に身を潜ませた。

「ハーヴェイ様、ステキでしたわね」

「さすがエクランド公爵家の次期当主様。他の方とは貫禄が違いますわ」

 扉の向こう側から漏れ聞こえてきたのは女生徒達の熱いため息混じりの会話だった。熱に浮かされているような調子の話し声は、しきりにハーヴェイという人物を褒め称えている。保健室に身を隠したことで結果として盗み聞きをする羽目になった葵は、息を殺しながら生徒達が通り過ぎるのを待った。しかし彼女達は保健室前の廊下で立ち話をしているらしく、なかなか話し声は途切れない。

「それにしても、あの女は何様のつもりですの?」

「わたくしも同じことを思いましたわ。魔法もろくに使えない田舎者のくせに、ハーヴェイ様にベタベタして」

「調子に乗っていますわよね」

 ミーハーにはしゃいでいた少女達の話題は、いつしかハーヴェイという人物のことから別の誰かの悪口に変わっていた。魔法もろくに使えないと聞き、それがクレアのことを指しているのだと察した葵は眉根を寄せて空を仰ぐ。

(ココ、かな?)

 葵が思い浮かべたココという少女は葵やクレアのクラスメートであり、少し前までは二年A一組の女子を統率している存在だった。しかし彼女はクレアとのケンカに負けてしまい、今やその地位を失ってしまったのである。廊下で話をしているのが彼女であれば納得が出来ると葵は考えたのだが、どうも話し声の主はココではなさそうだ。だが少女達が話している内容から、おそらくクラスメートの誰かだろうということは察せられた。

「いずれ、思い知らせてさしあげなければならないみたいですわね」

「どうせなら再起不能なまでに叩きのめしてさしあげましょうよ」

「賛成ですわ。あのような人がトリニスタン魔法学園の生徒であること自体がおかしいのですから」

 それで話はまとまったらしく、少女達の声は次第に遠いものになっていった。人の気配が完全になくなってから、葵は重い息を吐く。

(ココが負けてからクレアにべったりだったくせに……)

 クレアがアステルダム分校に編入した初日、二年A一組における女子の勢力図は一変した。それ以来、二年A一組の女子生徒はココではなくクレアの機嫌を窺うようになったのだ。だが結局、彼女達は貴族の出ではないクレアを心の底では蔑んでいる。それが表面化してしまったのはクレアの態度にも問題があるからなのだが、やりきれないと思った葵は小さく首を振った。

(私には関係ない)

 自分に関係のないことで憤っても、それは話をややこしくするだけにすぎない。以前にも似たようなことがあって苦い経験をしている葵は、盗み聞いてしまった内容を聞かなかったことにした。扉を開けて廊下へと出た葵は周囲に人気がないことを確認し、今度はマジック・キーを使って同じ扉を開ける。するとそこは保健室に似て非なる窓のない部屋で、『保健室』にはいなかった金髪の青年が葵の来訪を迎えた。彼の名は、アルヴァ=アロースミス。職務をまっとうしているかどうかはともかくとして、白衣をまとっている彼はアステルダム分校の校医である。

「思い知らせてやるとは穏やかじゃないね」

「聞いてたの?」

 自分の中で一度は終わらせた話題をアルヴァが蒸し返したので、葵は嫌な表情を作りながら簡易ベッドに腰を落ち着けた。アルヴァは葵の変化を気にする風でもなく、淡々と答えを口にする。

「あんな所で立ち話をしていたら聞いてくれと言っているようなものだよ」

 不穏な企みを聞かされても、アルヴァはおそらく何もしないだろう。そう思った葵はそこで話を終わらせようとしたのだが、ふと無表情を崩したアルヴァは嫌そうな表情になって髪を掻き上げた。

「まったく、少しも分かっていないじゃないか」

 それは、誰に向けられたぼやきだったのか。独白の意味を汲み取れなかった葵は首を傾げたのだが、アルヴァは説明を加えることはせず、面倒そうな調子で言葉を次いだ。

「ミヤジマは気にしなくていい。余計な手出しもしないでくれ」

「……する気もないよ」

「それならいいんだ」

 そう言うと、アルヴァは葵に珍しくにこやかな笑みを向けてきた。






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