自室である202号室を出て空を仰いだ瞬間、葵は「しまった」と胸中で呟きを零した。大草原の真ん中にポツンと佇むワケアリ荘では夜の静寂が漂っていて、くすんだ色合いの二月もすでに傾き始めている。あの月が沈んでしまえば朝が訪れるため、現在の時刻はきっと午前一時くらいだろう。この世界には時計というものが存在しないため正確なところは分からないのだが、葵は今までの経験から大体の時間の感覚を身につけていた。
(明日、ぜったい寝不足だ……)
そう思いつつも、葵はアパートに帰って来てから過ごした時間を後悔してはいなかった。何故ならアルヴァから教わった内容を復習することが、とても有意義な時間だったからだ。
(お風呂入ろ)
夕食は諦めて、とりあえず風呂にだけは入ることにした葵はトリニスタン魔法学園の制服である白いローブ姿のまま風呂場へと向かった。
(あれ?)
ローブを脱ぐ時に異物感を覚えたため、葵はあることを思い出してポケットを探ってみた。そこから出て来たのは葵が元いた世界から持ち込んだ、私物の携帯電話。形状記憶カプセルが作り出した模造品ではなく、復元されたオリジナルの方だ。
(アルに話すの、忘れてた)
葵は元々、この携帯電話のことを報告する目的で保健室を訪れた。しかし思いがけずアルヴァと心地のいい時間を過ごせたため、今の今まですっかり忘れ去っていたのだった。
(……ま、いっか)
アルヴァの言いつけ通り携帯電話は手元に戻ってきたのだし、報告は急ぎでなくてもいいだろう。そう思った葵は修理の完了した携帯電話を衣服と一緒に置き、バスルームでざっと汗を流した。烏の行水でバスルームを後にした葵はすぐに寝ようと思っていたのだが、多目的ルームを出たところでふと足を止める。建物の影から出た葵はアパートの屋根を仰いで見たのだが、そこには屋根の向こう側に半分姿を隠した月しか窺うことが出来なかった。
(今日はいない、のかな)
屋根の上を気にしながら自室へと戻った葵は、畳の上に布団を敷いたところで動きを止めた。脳裏には月下で寂しそうに微笑んでいた青年の姿が焼きついていて、胸の中に生じた小さな靄を広げていく。やはり、会いに行ってみよう。素直に布団に入る気になれなかった葵はそう結論づけ、再び202号室を後にした。
アパートの一階にある多目的ルームの扉を鍵を使わずに開けると、そこはアパートの屋根の上へとつながっている。月明かりに照らされている草原を一望出来るその場所には、葵が求めていた人物の姿はなかった。しかし別の人物の姿があり、葵はこちらを振り向いた少女の傍へと歩み寄る。
「こんばんは」
涼しげな口調で葵にあいさつを寄越してきたのは、204号室の住人であるレインという名の少女だ。彼女の腕にはクレアのパートナーであるマトが抱かれていたので、葵は二人に対してそれぞれにあいさつを返した。
「今日は管理人さん、いないんだね」
レインはよく、この場所でマトと管理人の三人で話をするのだと言っていた。しかし今日は、管理人の姿だけが見当たらない。彼に会いたいと思っていた葵は口調に残念さを滲ませていたのだが、レインは無表情のまま淡々と話に応じた。
「ムーンは気まぐれだから」
「ネコだからねぇ」
仕方がないかと、葵は小さく嘆息した。アパートの周囲に広がる草原に目を向けていたレインが、ため息を聞きつけて顔を傾けてくる。その視線を受け止めた葵はレインに苦笑いを返し、そのままの表情でマトに話しかけた。
「クレアはもう寝てるの?」
「うん、って言ってる。触れないとマトの思いは分からないよ」
マトの言葉を代弁したレインがそう言うので、葵はマトに触れてもいいかを確認してから彼に手を伸ばした。ゴツゴツとした岩のような手触りのマトに触れた刹那、彼の言葉にならない『思い』が葵の脳裏に押し寄せて来る。マトと共有した映像の中にはユアンやレイチェルの姿もあったので、葵は久しぶりに見る彼らの姿に目を瞬かせた。
「マトは水が好きなの」
レインが不意にそんなことを言い出したのは、マトがプールに体を浸している映像を葵が見たからである。場所はおそらく、ユアンの家の庭なのだろう。その豪奢さは貴族の優雅な暮らしぶりを如実に物語っていて、葵は映画のワンシーンみたいだと思いながらレインの話を聞いていた。
「レインもユアンのことを知ってるの?」
葵の問いかけにレインは黙って頷くことで答えとした。ユアンの名を出したことでアルヴァから聞いた
「ここにいるとユアンに監視されてることになるんだって、知ってた?」
またしてもアッサリと、レインは頷いて見せる。その表情はまったく動いておらず、彼女がそのことをどう思っているのか図りかねた葵は首を傾げながら言葉を次いだ。
「レインも何とも思わないんだ?」
「いつも、感じてるから」
彼女が何を感じているのか、葵にはその疑問を口にすることは出来なかった。監視されていると知っていながらも微動だにしないレインを見ていると、そんなことはどうでもいいことのように思えてくるのだ。また葵自身もアルヴァが言うほど監視されているという実感がなかったため、この話題を長引かせることの方が不条理である。そう思った葵はユアンの話題から離れ、今度はマトに話しかけた。
「水に入るの、楽しかったんだ?」
マトが見せてきた映像からは、とにかく楽しい・嬉しいといった感情ばかりが伝わってきた。それほどまでに水が好きなのかと思いきや、どうもマトの喜びには別の要因もあったようだ。
「パートナーと一緒にいるのが嬉しいんだよね?」
レインが静かに問いかけると、マトはこれ以上ないというくらいの喜びを葵達に伝えてきた。それはさながらノロケのようであり、葵はマトに苦笑いを返す。
「そんなにクレアのこと好きなら、ちょっと妬けてるんじゃない?」
葵が暗に話題に上らせたのは、トリニスタン魔法学園にいきなり現れたハーヴェイ=エクランドという人物のことである。美貌の持ち主である彼の人物は、絶対にクレアのストライクゾーンだ。クレアが彼の傍にいるのはそうした理由からだという葵の考えを、マトは苦笑い気味に肯定してみせた。
「へ〜、あの人が学園にいる間だけクレアが世話することになったんだ? でもクレアってユアンの私用人でしょ? それって問題あるんじゃないの?」
ここ最近のクレアの動向についてマトから情報を得た葵は矢継ぎ早に疑問を口にした。しかしその件についてはマトに意見はないらしく、彼からは何の反応も返ってこない。沈黙をクレアへの気遣いだと受け取った葵は小さく肩を竦めてからマトの頭を軽く撫でた。
「マトも大変だね」
「大変じゃないよ、ぜんぜん。大好きな人の傍にいられるのは、それだけで嬉しいことだから」
レインの思わぬ発言に、驚いた葵は目を瞬かせた。彼女が何を思ってそんな発言をしたのかは分からないが、マトはレインの言葉に同調を示している。
「そっか。そう、だね」
想いは叶わなくても、大好きな人の傍にいられるだけで幸せだった。その気持ちには葵も覚えがあったので、口元が自然と緩んでいく。マトから手を離した葵は暖かな気持ちを胸に抱きながら立ち上がった。
「マジスターと一緒にいると敵を増やしちゃうから気をつけた方がいいよ。私が言っても聞かないと思うから、マトが注意してあげて」
余計なお世話かもしれないという思いはあったのだが、マトも葵と同じ心配をしているらしく、彼はレインを通して同意を伝えてきた。クレアが自分と同じ目に遭わないことを密かに願いながら、葵は二人に微笑みを向ける。
「おやすみ」
まだその場にいるらしいマトとレインに別れを告げた葵は足元に気を配りながら元来た道を引き返し、地に足を着いてから屋根の上を仰いだ。くすんだ月明かりに照らされて濃い影になっている少女の小さな背中が、地上からは窺える。しかし先程まで屋根の向こうに見えていたはずの月は完全に隠れてしまっていたため、予想以上に話し込んでしまったのだと知った葵は急いで自室へと戻った。
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