近くにいても、離れていても

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「待て!!」

 怪しいフードの人物が人混みに紛れるようにして逃げ出したため、キリルは怒声を発した。キリルの行動を具に見ていたウィル以外は彼の突然の怒りに驚き、何事かとキリルの方を向く。

「どうした、キリル」

「ごめん、兄さん・・・!」

 ハーヴェイにそう言い残すと、キリルは脇目も振らず駆け出して行った。あ然としていたハーヴェイはキリルが人垣の向こうに姿を消してしばらくしてからウィルへと顔を傾ける。無言で説明を求められたウィルは小さく肩を竦めながら答えを口にした。

「会いたがってた女の子がいたんです。たぶん、その子を見つけたんじゃないですかね」

 ウィルの言い方だとキリルが追いかけていったのはあたかも彼の想い人のように聞こえるが、実際はそれほど甘い関係の二人ではない。だがしっかり誤解したらしいハーヴェイは険しい表情になりながらクレアを振り返った。

「キリルとその少女を私の前に連れて来い」

 途端に不機嫌になってしまったハーヴェイは、クレアに下命するとすぐ転移魔法によって姿を消してしまった。まるで自家の使用人のようにハーヴェイから命を受けたクレアは、特に表情を変えるでもなくウィルを見やる。クレアから向けられた含みのある視線を受け止めたウィルは、彼女に向かって楽しそうな笑みを浮かべて見せた。

「僕は先にシエル・ガーデンに行ってるから。あと、よろしくね」

 クレアに向かってヒラヒラと手を振ってみせた後、ウィルも転移魔法によってその場から姿を消す。人だかりの中心に一人で取り残されたクレアは深いため息を吐き出してから、キリルが走り去って行った方角へ歩き出した。






 クレアと共にトリニスタン魔法学園へ登校した途端に全力疾走をする羽目になった宮島葵は、激しく息を切らせながら階段を駆け上っていた。目深に被っていたフードはすでに首元へと流れ、前方から受ける風によって後方へとなびいている。校舎に怒声を響かせながら背後から迫って来ているのは、アステルダム分校のマジスターの一人であるキリル=エクランド。こんな風に追いかけられるのは何度目だろうと頭の片隅で考えながら、葵はとにかく必死で足を動かしていた。

(ああ、もう……)

 ここ数日の平穏が、音を立てて崩れ去っていく。それもこれも、全てはしつこすぎるキリルのせいだ。いい加減うんざりしてきた葵は逃げることをやめることにし、足を止めて背後を振り返った。しかし葵が口を開くより先に、追いついてきたキリルが彼女の胸倉を掴み上げる。瞬間的に殴られると恐怖した葵は固く目をつむったのだが、キリルの拳が振り下ろされることはなかった。

「すいませんでした!」

 例によって、葵に危害を加えようとしたキリルは自身の意思とは無関係な謝罪の言葉を口にし、葵の足元にひれ伏した。この光景を見るのもすでに幾度目かのことであり、ホッとした葵は体から余計な力を抜く。

(そうだった、今は殴られないんだよ)

 頭ではそう理解していても、キリルによって植えつけられた恐怖は体にしみついてしまっているようだ。無意識のうちにどこかで怯えている自分を実感した葵は、そんな自分を悲しく思った。そして出来れば、もう彼には関わりたくない。そう強く思った葵は呼吸を整えてから、意気込みを新たに口火を切った。

「こういう風に追いかけるの、やめてくれない?」

「ああ?」

 自分の無様な行動に苛立っている様子のキリルは、立ち上がりながら鋭い眼差しを向けてきた。威圧するような眼光に怯んでしまった葵は自分を奮い立たせながら言葉を次ぐ。

「あ、あなたが私を嫌いなのは、よく分かったから。でも殴ることが出来ないんじゃ、ストレスが溜まるだけでしょ? もうマジスターには関わらないし、出来るだけあなたの視界にも入らないようにするから。だからもう、私に関わらないで」

 言葉の前半は妥協であり、葵の本心は最後の一言に凝縮されていた。ようやくキリルに自分の思いを伝えることが出来た葵は緊張で高鳴った胸に手を当て、乱れた呼吸を整えようと努める。

(い、言った……)

 キリルはもちろんのこと、彼の友人であるオリヴァー=バベッジやウィル=ヴィンスにも自ら接触しない。そうやって接点を無くせば、キリルの心に荒波が立つこともなくなるだろう。しかしこの提案には一つ、大きな壁がある。それはキリルが葵のことを『殴り飛ばしたい』と思っていることであり、彼が妥協出来るかどうかが話し合いのポイントになってくるのだ。

 自身の提案に対するキリルの反応を見るために、葵は伏せていた目を怖々上げてみた。するとキリルはひどく傷ついたような表情をしていて、思いがけない反応に出会った葵はあ然とする。

(何? 何で?)

 嫌いな相手と顔を合わせずに済むことは、キリルにとっても喜ばしいことだろう。なのに何故、彼はそんなに傷ついた表情を浮かべているのか。理解が出来ないからこそ、葵は慌ててしまった。

「あ、あの、ごめん」

「あやまってんじゃねーよ! ムカツクな!」

 忌々しげに吐き捨てると、キリルは顔を見られるのを嫌うように口元を手で覆ってしまった。それきり言葉が途切れたので、気まずい沈黙が流れる。

(どうしよう……)

 キリルが何を考えているのか分からないので、迂闊なことを口に出来ない。だがいつまでもこのまま、お互いに押し黙っているわけにもいかないだろう。何とか糸口を見つけようと、葵はチラリとキリルの顔色を窺った。するとキリルもこちらを見ていたので、視線が絡み合う。

「……じゃねーよ」

「……えっ?」

「嫌いじゃねーって言ったんだよ!」

 苛立たしげに怒鳴りきると、キリルはそっぽを向いてしまった。にわかには信じ難い科白を聞かされた葵はポカンと口を開ける。

「だって、私のこと気に食わないんでしょ?」

「気に食わねぇ! 殴ってスッキリしてぇ!」

「それって、嫌いってことじゃないの?」

「だから! 違うって言ってんだろ!」

 キリルの言葉は支離滅裂で、どう反応していいのか分からなくなってしまった葵は困惑しながら口をつぐんだ。キリル自身にもメチャクチャなことを言っているという自覚はあるようで、彼は苛立たしげに拳を壁に打ち付ける。

「くそっ!」

 キリルの言動はまるで、思い通りにならないことを理由に駄々をこねている子供のようだった。だが本人にすら理解出来ていない苛立ちをぶつけられても、葵には戸惑うことしか出来ない。お互いに成す術なく廊下に佇んでいると、第三者の声が膠着状態を打破した。

「痴話ゲンカはそこまでや」

 姿を現したのはクレアで、彼女は素の口調でそう言うと葵とキリルの元に歩み寄って来た。「痴話ゲンカじゃない!」という反論がかぶってしまったため、葵とキリルは気まずい表情になって黙り込む。それを見て、クレアが呆れたように息を吐いた。

「ハーヴェイ様がお呼びや。一緒に来てもらうで」

 クレアが持ち出したハーヴェイの名に、キリルの表情が一瞬にして凍りつく。今が退散時だと思った葵は踵を返そうとしたのだが、それはクレアの一声によって制されてしまった。

「おたくもや」

「えっ。私も? 何で?」

「うちは知らん。そういうことはハーヴェイ様に訊くんやな」

 疑問を投げかけた葵を冷たくあしらうと、クレアは元来た道を引き返して行った。クレアの物言いに反抗するでもなく、キリルは素直に彼女の後に従う。その姿に得体の知れない恐ろしさを感じたものの逆らうことも出来ず、葵も無言で彼らの後に続いた。






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