近くにいても、離れていても

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 トリニスタン魔法学園アステルダム分校には、エリートであるマジスターの専用とされている場所が幾つかある。敷地内の東には特にそういった建物群があるのだが、その中で最も広大な面積を誇るのが「大空の庭シエル・ガーデン」と呼ばれる花園だった。全面がガラス張りになっている半円形の建物の内部では色とりどりの花が美しいコントラストを描き出していて、まさに貴族の遊園の地といった風情を醸し出している。花園の中央部には花を愛でるための場所が造られていて、葵はそこで初めてキリルの兄であるハーヴェイ=エクランドとの対面を果たした。

(似てるなぁ……)

 階段の上から横顔を覗き見たことはあるものの、こうして面と向かってみると改めて思う。キリルとはずいぶん歳が離れているように見受けられるが、ハーヴェイの容貌は弟にそっくりなのだ。キリルの方が年少なので、彼が兄に似ていると言うべきなのかもしれない。葵がそんなことを考えていると、悠然と脚を組みながら椅子に腰を落ち着けているハーヴェイがクレアに向かって口火を切った。

「フレグランスティーを」

 ハーヴェイの要望に即座に応じたクレアは、手作業で手際よく紅茶を淹れていく。それはハーヴェイと同席しているウィルには配られたものの、テーブルを前に並んで立たされている葵とキリルには支給されなかった。

「……何事だ?」

 異様な雰囲気の中に運悪く飛び込んできてしまった茶髪の少年が、眉をひそめながら疑問の声を上げる。がっちりとしたスポーツマンタイプの体躯をしている彼の名はオリヴァー=バベッジ。アステルダム分校のマジスターの一員である彼は、どうやら今登校してきたばかりのようだった。

「まあ、座りなよ」

 ハーヴェイの隣で優雅にティーカップを傾けていたウィルが、場違いなほどに軽やかな調子でオリヴァーに席を勧める。訝しげな表情のままのオリヴァーが席に着くと、彼の動きを追っていたハーヴェイの目が今度はキリルと葵に向けられた。

「大方の事情はウィルから聞いた」

 ハーヴェイの言葉は弟にだけ向けられたもので、キリルの隣に佇んでいる葵には無関係な内容だった。少なくとも葵はそう思っていたのだが、ハーヴェイはとんでもない言葉を後に続ける。

「キリル、その少女を殴ってみなさい」

 ハーヴェイの発言に耳を疑ったのは、なにも葵一人ではなかった。兄からの命令を受けたキリルも驚いていたし、目を見張ったオリヴァーは反射的にといった様子で席を立つ。

「ハーヴェイさん、何を……」

「大丈夫だよ。今のキルにはアオイを殴れないから」

 抗議の声を上げかけたオリヴァーをウィルが冷静な口調で諭す。オリヴァーは「そういう問題じゃない」と反論していたが、ハーヴェイは彼らの会話には構わず弟との話を続けた。

「出来ないのか?」

「……いえ」

 真顔に戻ったキリルは兄にそう応えると葵に向き直った。次の瞬間には拳が振り上げられたが、それは葵に達する前に急降下していく。

「すいませんでした!!」

 葵の足下で土下座をしたキリルのヤケクソ気味な叫び声が、静かなシエル・ガーデンに響き渡る。弟の醜態を目の当たりにしたハーヴェイは驚くでもなく、ただ小さくため息をついただけだった。

「困ったことをしてくれたものだ」

 嘆息ついでのように独白を零すと、ハーヴェイは静かに椅子を引いて立ち上がる。ハーヴェイが歩み寄って来たので、葵は眉根を寄せながら彼を迎えた。

「よく、見ていなさい」

 キリルにそう言い置くと、ハーヴェイは何の前触れもなく葵の頬を張った。突然の平手打ちを食らった葵は脳に衝撃を覚え、数歩よろめく。

「これで大丈夫だ。もうお前が惑うことはない」

 もう葵には構わず、ハーヴェイは弟にそう言うと再び椅子に腰を落ち着けた。しかし何がどう『大丈夫』なのかを解っているのはハーヴェイだけのようで、キリルやオリヴァーはあ然としたまま動きを止めている。マジスターの中で冷静さを失っていないのはウィルだけで、彼は淡々とハーヴェイに向かって疑問を口にした。

「今ので何がどう変わったんですか?」

「そこの少女に手を上げられたことで、キリルにかかっている魔法が正常に作用しなくなっていたようだ。その歪みを、私は正しただけだ」

「キルにかかってる魔法って、人体に作用するやつですか?」

 魔法は通常、学問によって様々にカテゴライズされている。もっとも一般的な分類である自然学では火魔法学・水魔法学・土魔法学・風魔法学の四大魔法学と無属性魔法を含めた五分類によって魔法を学ぶのだが、生物学では自然学とはまったく違った分類となる。一例を挙げると転移魔法は自然学の分類では無属性魔法に属するが、生物学では人体学と植物学・動物学・魔法生物学など、ほぼ全ての分類に属しているのだ。ウィルが話題に上らせたのは生物学上の人体学のことであり、ハーヴェイはこの分野の第一人者なのだった。

「そうだ。まだ研究途上のものだがな」

 ハーヴェイに叩かれた頬を押さえたまま茫然と話を流し聞いていた葵は、彼が発した一言により正気を取り戻すと同時に目を見開いた。ハーヴェイの言い種はまるで、弟を実験動物モルモットとしてしか見ていないと言っているように聞こえる。加えて信じられないことに、キリルの友人であるはずのウィルまでもがハーヴェイと同じ目線で話を進めていた。

「何かの魔法が作用しているような感じはしていたんですけど、目で捉えられるほどの変化じゃなかったから半信半疑でしたよ。さすが、ハーヴェイさんですね」

「それはキリルが私の同母弟だからだ。血のつながらない人間に同じことをすれば、やはりそれなりの変化は目に見えてしまうだろう」

「ああ、なるほど。でも、何でキルだったんですか? エクランド家にはキルの他にも兄弟はたくさんいますよね?」

「この魔法は長期的な経過を観察することで完成に近付く。そして観察対象は出来れば、自我が確立してしまっている大人より無垢な子供の方が望ましい。当時はキリルの他に適齢者がいなかったのだ」

「現時点ではインプリンティングに近いみたいですけど、最終的には自我の確立した他者を操る魔法に育てたいわけですね?」

「実はこの魔法は魔力を有する人間や魔法生物よりも、魔力を持たない動植物に働きかける方が難しいのだよ。自然学の哲理に因れば容易なことだが、私はそれを生物学のみで成し遂げてみたいのだ」

「自然学と生物学の別離、ですか……」

 それは壮大な試みですねと、ウィルは苦笑いに似た表情を浮かべている。だがその表情の中には『成し遂げられるわけがない』という思いは含まれていなかったようで、ハーヴェイも気にすることなく口元に笑みを上らせた。

「よく、学んでいるようだ」

「ハーヴェイさんに褒めてもらえるなんて光栄です」

 紅茶を口に運びながら談義しているハーヴェイとウィルには、もう先程の出来事など頭にないかのようだった。外部の雑音が届かないシエル・ガーデンではしばらく二人の声だけが聞こえていたのだが、やがて第三者がハーヴェイとウィルの間に割って入る。

「一つ、聞かせて下さい」

 厳しい声音で口を挟んだのは、オリヴァーだった。いつになく真剣な表情をしている彼はウィルには視線を向けず、ハーヴェイだけを見据えて言葉を重ねる。

「キルが変わったのは、その魔法のせいなのですか?」

 オリヴァーの問いかけに対し、笑みをおさめたハーヴェイは無言のまま彼を見上げた。しかし沈黙は長くは続かず、ハーヴェイは真顔を保ったまま口火を切る。

「そうだと言ったら、どうする?」

 答えを得ると同時に質問を返されたオリヴァーは言葉に詰まった様子で口をつぐんだ。自身の問いかけに対する答えを待っているのか、ハーヴェイもオリヴァーを見据えたまま次の言葉を紡ごうとはしない。一瞬だけ逡巡の表情を見せたオリヴァーは改めてハーヴェイに向き直ると、彼に向かっておもむろに頭を下げた。

「キルにかけた魔法を解いてやってください」

 オリヴァーの突然の行動に目を見開いたのはハーヴェイではなく、キリルとウィルだった。オリヴァーに懇願された形のハーヴェイは目を細め、途端に冷たい顔つきになる。

「私に意見するというのか?」

 この問いかけに対する言葉での返答は、なかった。オリヴァーはただ頭を下げ続けていて、その行為が彼の意思を強く表している。いつまで経ってもオリヴァーが頭を上げなかったからか、ハーヴェイは険を解くと深く嘆息した。

「オリヴァー=バベッジ。君はどうやらキリルの友人として相応しくないようだ」

 静かなシエル・ガーデンに響き渡ったハーヴェイの一言は拒絶、だった。それがどのような意味を持つものなのか分からないが、キリルとウィルが見たことのない表情をしているので深刻な事態なのだということは察することが出来る。ゆっくりと頭を上げたオリヴァーは渋い表情をしていて、ハーヴェイの顔を見るなり目を伏せた。態度を変えないでいるのはハーヴェイだけで、悠然とテーブルに片肘をついている彼はオリヴァーから外した視線をキリルへと向ける。

「それでいいな、キリル?」

「……はい」

 兄の鋭い視線から逃れるように目を伏せたキリルは抗うこともなく、即座にハーヴェイの意思を肯定して見せた。しかしそれが彼の本心でないことは、太腿の横できつく握られている拳が物語っている。すでに真顔に戻っているウィルも何も言わなかったため、オリヴァーは一人でシエル・ガーデンを去って行った。






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