近くにいても、離れていても

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「いいとも。そのアルヴァとやらに会おうじゃないか」

 絶対に無理だろうと踏んでいたことがあまりにも簡単に了承されてしまったため、話を持ちかけた葵の方が言葉を失って動きを止めてしまった。隣人の一言によって葵が凍りついた場所はワケアリ荘二階の廊下である。203号室の玄関先で葵と向き合っているスキンヘッドの男は名をマッドといい、彼が葵をあ然とさせた発言者だ。

「えっ……ホントに?」

 しばらくのあいだ自分の耳を疑っていた葵は、サングラスの奥に隠されているマッドの瞳を窺うようにして再確認をした。それというのもマッドが、本当は人見知りの激しい人物だからである。ある出来事を機に葵には気軽に接してくれるようになったが、それ以前の彼は決して社交的な人物ではなかった。その証拠に葵よりも付き合いが長いはずのクレアなどとは、未だに目すら合わせようとしないのだ。しかし彼は、口元に大きな笑みを作って頷いて見せた。

「同志の頼みとあらば無下に断るわけにもいくまい」

「いや、あの……嫌だったら断ってくれてもいいんだけど……」

「君と僕の間に気遣いは無用だ。何と言っても君は、僕の研究を理解してくれた人だからね」

 はっはっはと、マッドは気楽に笑っている。そこまで無条件に信じられても……と胸中で呟いた葵は罪悪感から目を伏せた。

(アルはマッドのこと探ろうとしてるんだし……やっぱり、紹介するのやめた方がいいかな)

 信じていた人に裏切られる悲しさを身を持って経験している葵にはマッドの明るさがただただ心苦しかった。しかし葵の胸中など知らないマッドは、尚も朗らかに話を進める。

「僕はいつでもいいから、日程が決まったら教えてくれればいい」

 それで話を切り上げると、マッドは部屋の中へと戻ってしまった。けっきょく彼に本当のことを言えなかった葵は胸苦しさを抱えたまま、その場で小さく息を吐く。

「悩みごと?」

 マッドが姿を消してからも廊下に佇んだままだった葵に声をかけてきたのは、205号室の住人であるアッシュだった。彼がちょうど部屋から出て来た時に、ため息をついてしまったらしい。通路の奥からゆっくりと歩み寄って来るアッシュを、葵は苦笑いで迎えた。

「悩み、ってほどのことじゃないんだけどね。ちょっと罪悪感を感じてて」

「今から夕食の支度するんだけど、良かったら手伝ってくれないか?」

 悩み事があるのかと問いかけておきながら詳しい説明は求めず、アッシュは葵を促して歩き出した。これはおそらく、何かをしていた方が気が紛れるからというアッシュなりの気遣いなのだろう。そう解釈した葵は先立って外階段を下りて行くアッシュの後に従った。

「昨日は夕飯に顔出さなかったけど、寝てたの?」

 アッシュが歩きながら話しかけてきたので、葵もおんぼろ階段に足を取られないよう注意して下りながら答えた。

「ううん。ちょっとゲームに夢中になっちゃって、気付いたら夜中だった」

「ゲーム? 何の?」

「コンバーツ。あ、そうだ。アッシュ、今度相手してよ」

「いいよ。夕飯の後にでもやろうか」

 アッシュが快諾してくれたので葵は笑顔で彼の提案に頷いた。外階段を下りてアパートの一階に辿り着いた葵とアッシュは、その足で住人が共同で使用する多目的ルームへと向かう。アッシュが魔法の鍵マジック・キーを使って扉を開けたので、葵は彼に続いて食堂へと入った。すでに夕飯のメニューは決まっているらしく、キッチンに食材を並べたアッシュは手際よく調理をしていく。アッシュの包丁さばきがいつ見ても鮮やかなので、ちょっとした疑問を抱いた葵は問いを口にしてみた。

「アッシュって料理上手いよね。子供の頃から家の手伝いとかしてたの?」

「いや、始めたのはここに来てからだよ」

 だから最初は大変だったのだと、アッシュは口元に苦い笑みを浮かべながら言った。口を動かしている間もアッシュの目線はまな板に注がれていて、その上では野菜が踊るように刻まれていく。その手つきはどう見ても、料理を始めて日が浅い素人のものではなかった。

「アッシュって、いつからここに住んでるの?」

「三年くらい前から。クレアが住み出したのはここ一年くらいのことだけど、レインとマッドはオレより古株だよ」

「へ〜、そうなんだ? ねぇ、最初にアイサツしに行った時、マッドってやっぱりどもってた?」

「最初はやっぱり凄かったな」

 アッシュがワケアリ荘に越してきて一ヶ月ほどは、マッドは彼を警戒してなかなか自室から出て来ようとしなかったらしい。クレアが越して来た時はそれよりもさらにひどく、慣れるまで半年はかかったのだとアッシュは笑いながら語った。その光景がリアルに想像出来た葵は鍋をかき回しながら小さく吹き出す。

「だから正直に言うと、マッドがアオイのことをこんなに早く受け入れるとは思わなかった」

「受け入れられたって言うか……何と言うか」

 ディ・ナモという電動自転車のような装置の話をした時から、マッドは葵のことを「同志」と呼ぶようになった。彼にとって同志とは何物にも代えがたい重要な存在のようで、その一点のみで葵のことを全面的に信用してしまっているのだ。その信用を裏切ることは、やはり心苦しい。アルヴァとマッドを引き合わせることはマッドを騙すことにもなりかねないため、葵は改めてアルヴァに断りを入れようと思った。

「ありがと、アッシュ」

「何が?」

「ちょっと迷ってたことがあったんだけど、アッシュの話聞いてたら迷いがなくなった。だから、ありがと」

「よく分からないけど、役に立てたなら嬉しいよ」

 ここでもやはり深く追及する気はないようで、淡白に答えたアッシュは葵に柔らかな微笑みを向けてきた。彼は基本的に他人の事情には深入りしないし、自分のこともほとんど話そうとしない。それは大人の対応というよりも、アッシュがワケアリ荘の住人であるという理由の方が大きいように思える。葵がそう感じてしまうのは以前に一度、アッシュと気まずい雰囲気になったことがあるからだった。

「ねぇ、アッシュ」

「なに?」

「一人の時は何してるの?」

 なるべく角が立たないように言葉を選んだ葵は問いを口にし終えると横目でアッシュの様子を窺った。どうやらこの質問には問題がなかったようで、アッシュは手元に目を落としたまま返答を口にする。

「掃除したり洗濯したり飯作ったり、発電したりしてる」

「……ほとんど主夫だね」

「しゅふ?」

「家事ばっかやってるね、ってこと」

「ああ……みんなの当番を代わってやってたりするからな」

「それって、当番制の意味なくない?」

 ワケアリ荘における炊事や洗濯は住人の当番制である。しかしそれを守っていたのは初めのうちだけで、最近はほとんど何もしていないことに思い至った葵は自堕落さに気付いてハッとした。だが当の本人は押し付けられているとは思っていないようで、アッシュは淡々と言葉を次ぐ。

「前にも言ったと思うけど、暇だからいいんだ。それに何かしていた方が気が紛れるしね」

 アッシュがぽろりと零した本音を、葵はすぐさま聞かなかったことにした。その理由はこの話題が、彼にとって言及されたくないものだろうと何となく察したからだ。問いを重ねる代わりに苦笑いを作った葵は小さく肩を竦めながらアッシュを振り向く。

「家事極めちゃったら、そのうち使用人とかになれそうだね」

使用人バトラーか……」

 葵が軽口のつもりで放った一言を繰り返すと、アッシュはそれきり黙りこんでしまった。黙々と手だけ動かしている彼は、会話のない中で次々と料理を作り上げていく。気まずさを感じた葵はその間、ただひたすらに鍋をかき混ぜていた。

「もういいよ」

 アッシュから指示が来たため、葵はツマミをひねって鍋の火を止めた。動作を起こした勢いで体ごとアッシュに向き直った葵はそのまま彼に向かって頭を下げる。

「ごめん」

「え?」

 意外な反応が返ってきたので頭を上げると、アッシュは驚いたように目を丸くしていた。お互いの感情が噛み合っていないことを感じた葵は困惑しながら言葉を次ぐ。

「怒ってないの?」

「オレが? 何に?」

「黙り込んじゃったから、気に障ること言ったかと思って……」

「ああ……」

 その一言で葵が何を言っているのかを理解したらしいアッシュは一度空を仰ぎ、それから弱ったような笑みを浮かべて葵に視線を戻した。

「怒ったわけじゃない。そんな選択肢もあるんだなって、考えていただけだから」

「……そっか。ごめん、早とちりして」

「いや、オレの方こそごめん。不安にさせたな」

 苦笑を柔らかな笑みに変えたアッシュは、そう言うと葵の頭を軽く撫でた。彼が怒っていたわけではないと知った葵は手の温もりにホッとして、不必要に強張っていた体から力を抜く。自然と笑顔になった葵を見て、アッシュは彼女の頭から手を退けた。

「あとは盛り付けだから、みんなを呼んできてくれるか?」

 そう言ったアッシュはもう何事もなかったかのような表情に戻っていたが、やはり秘密を抱えている人間とは接するのが難しい。そのことを改めて実感してしまった葵は食堂を後にすると、人知れずため息を零したのだった。






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