出発

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 単色の月が空から姿を消してしばらくすると、東からゆっくりと昇ってきた太陽が赤い夜に終わりを告げた。昨日までと変わらぬ輝きで世界を照らしている太陽は、少しずつ高度を上げながら照射範囲を広げていっている。その陽光が丘の上に経つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の校舎に斜めに差し込んだ時、校舎一階の北辺にある保健室で簡易ベッドに横たわっていた青年は覚醒した。鮮やかな金髪にブルーの瞳といった容貌をしている彼の名は、アルヴァ=アロースミス。この部屋の主である彼は目覚めの悪さを微塵も感じさせない俊敏さでベッドから出ると、視界を遮っている薄手のカーテンをすぐさま退けた。

 窓に目を向けてみれば、外を照らしている光はもう赤くない。それで夜が明けていることを察したアルヴァは自身の状態を確認するため、片腕を視界の中央へと移動させた。腕の輪郭をぼかすように漂っている魔力は、どうやら正常な状態へと戻っているようだ。一晩で体が回復したことを見て取ったアルヴァは腕を下ろし、今度は自身の服装に目を向けてみた。

 アステルダム分校の校医をしているアルヴァは平素であればシャツにズボンといった出で立ちをしていて、その上に白衣を羽織っている。しかし現在の彼はボロボロの黒いローブを身につけていて、身支度を整える必要性を感じたアルヴァはさっさとローブを脱ぎ捨てた。終月しゅうげつ期のため、学園は一ヶ月の休みに入っている。そのため校内にはアルヴァの他には誰もいないはずであり、大っぴらに着替えていたからといって見咎められるものでもない。そのことを承知しているアルヴァはノーネクタイで着る麻のシャツと動きやすさを重視した軽いパンツというカジュアルな服装に着替え、窓際のデスクに腰を落ち着けた。

 椅子に腰かけるのと同時にデスクの引き出しを開けたアルヴァは、そこにあるはずの物がないことを見て取って小さく眉根を寄せた。ここが保健室に酷似した『アルヴァの部屋』であれば、その場所には煙草がしまわれていたのである。しかし窓のあるこの部屋はトリニスタン魔法学園の『保健室』であり、さすがに室内で煙草を吸うのはまずいと思ったアルヴァは嘆息しながら席を立った。

(外に行くか)

 煙草自体はいつでも手にすることが出来るが、室内ににおいが立ち込めてしまうのは事である。気に入りの部屋がなくなってしまったせいでいらぬ苦労を強いられていることに若干のやるせなさを感じながら、アルヴァは扉から保健室を後にしようとした。しかし室内を横断している最中に人の気配がすることに気がつき、ピタリと歩を止める。

(……?)

 物音がした方を振り返ってみれば、幾つか並んでいる簡易ベッドの一つにカーテンが引かれていた。それはアルヴァが使用していたベッドではなく、その奥にあるベッドだ。不審に思ったアルヴァがカーテンを退けてみると、そこでは黒髪の少女が体を丸めて寝入っていた。彼女の名は、宮島葵。保健室で一夜を共にしたのがこの少女であれば何も問題はなかったため、アルヴァは短く安堵の息を吐いた。

(帰らなかったのか)

 本当ならば昨夜のうちに、アルヴァは葵と旅に出るはずだった。だが不測の事態が起きてしまったため、出発を今日に延ばしてくれと頼んだのである。一度家に帰るよう促したにもかかわらず彼女がこの場所で寝入っているのは、もしかしたら自分の身を案じてくれたためかもしれない。そう思えば、無防備に寝入っている少女に愛おしさを感じないでもなかった。しかし色事とはまったく無縁な感情でもって、アルヴァは葵の髪に触れる。そのまま頬に触れても葵が目を覚まさなかったので、アルヴァはそっと彼女の体を仰向けに整え直した。

 規則正しい呼気が聞こえてくる口唇に手を触れ、アルヴァは葵が起きない程度の力でもって彼女の口を開けさせた。わずかに開かれた葵の口唇に、アルヴァは息吹をふきこむように口づける。それはあまり時間をかけることもなく済む作業で、今までにも幾度かやっていることだった。これまで作業の途中で葵が目を覚ましたことはない。だがこの朝はよりにもよって、口唇を重ねている最中に彼女は目を開いてしまった。

「…………」

「…………」

 アルヴァが葵の上から体を退けると、二人の間には何とも言えない空気が漂った。お互いに自分の口唇に手を当てているが、その意味合いは両者にとってまったく違うものだっただろう。犯行現場を押さえられてしまったアルヴァがどう説明をしたものかと悩んでいると、やがて葵が恐る恐るといった風に口火を切った。

「アル……訊いていい?」

「……いいよ」

「い、今……何を」

「キス」

 アルヴァが単刀直入に答えると、葵はひどくショックを受けたような表情になった。顔を真っ赤にしたかと思えば次の瞬間には血の気が引いていき、最終的に彼女の顔は土気色になってしまう。いくら男慣れしていないとはいえそこまで衝撃的なことだっただろうかと、アルヴァは他人事のように思いながら言葉を重ねた。

「ちょっと待って」

 葵にそう言い置くと、アルヴァは感覚を確かめるように手を開いたり握ったりという動作を繰り返した。どうやら魔力を直に動かしても問題はなさそうだったため、魔法の卵マジック・エッグを創る要領で保健室を少しずつ魔力で覆う。この方法で隠匿と隔絶を行えば、魔法陣で同じことをするよりも遥かに高い効果が得られるのだ。ただ、これは誰にでも出来ることではない。魔力の消費が激しいうえ維持が難しいので、普通はやろうとも思わないだろう。

「もういいよ。話を続けようか」

 空のベッドに腰かけたアルヴァは脚を組み、向かい合う形でベッドの際に座している葵に発言を促した。先程はショックを隠しきれない様子を見せていたが、アルヴァがあまりにも平然としているため葵も少し冷静さを取り戻したようで、彼女は嫌な表情を作りながら口火を切る。

「何でキスなんかしたの?」

 アルヴァの口づけは愛情を伝えるためのものでも、親愛を示すためのものでもない。すでにそのことを承知している葵の態度に少し感心したくなったアルヴァは、焦らさずに説明を加えてやることにした。

指輪リングを外して」

 葵の利き手の中指には魔法道具マジックアイテムである指輪が嵌められている。それはアルヴァが彼女に与えたもので、葵は唐突な指令に首を傾げながらも言われた通りにした。

「外したよ?」

「それは僕が持っているから、ミヤジマは自然属性の魔法を何か唱えてみなよ」

 葵は異世界からの来訪者であり、この世界の生まれではない。そんな彼女が魔法を使うには誰かの魔力を借りる必要があり、普段はアルヴァが魔力を込めた指輪がその役割を果たしているのだ。その指輪を外した状態で魔法を使ってみろというアルヴァの意図に、葵は不審そうな表情をしていた。しかし指輪を受け取ったアルヴァが再び催促をすると、彼女は渋々といった様子で口を開く。

「ル=フュ」

 葵が唱えた短い呪文スペルは小さな火を発生させるものである。彼女がどうして火の魔法を選んだのかは分からないが、葵が立てた人差し指には明らかな変化が起きていた。呪文によって呼び覚まされた魔法が、指先に小さな火球を生み出す。魔法が日常に根付いているこの世界では他愛のない光景だが、葵は自分の指先を信じられないといった表情で眺めていた。

「何で使えてるの?」

「それは……」

 目を瞠ったまま顔を傾けてきた葵に詳しい説明をしようとして、アルヴァはふと言葉を途切れさせた。その原因は葵の指先で揺らめいている炎が徐々に大きさを増していたからであり、アルヴァが視線を固定したことによって葵も異変に気付いたようだった。

「あつっ!!」

 悲鳴を上げた葵が体を引いたことで、彼女が生み出した火球は術者の手を離れた。しかしそれでも、火の勢いは止まらない。炎がなおも成長を続けていたため、アルヴァは葵への指示を叫んだ。

「ミヤジマ、コントロール!」

「えっ!? どうやって!?」

「魔力の流れを止めて、火の大きさを制御するんだ」

「どうやって!!」

 葵が再度叫び声を上げた刹那、臨界に達した火球は花火のように弾け飛んだ。保健室に火の雨が降ったことにより、葵は悲鳴を上げながら逃げ惑っている。口の中だけで「限界か」と呟いたアルヴァは一つ息をつき、それから改めて、この場を鎮めるための呪文を唱えたのだった。






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