出発

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「アン・カルテ」

 紅茶が目の前に置かれると、アルヴァはどこかから取り出したペンを空中に放り投げながら呪文を唱えた。アルヴァの唱えた呪文に反応したペンは、光を使って空中に図画を描き出していく。向かい合って座している葵とアルヴァの間に現れたのは、大陸が二つしかないこの世界の地図だ。久しぶりに見る世界地図はこれから旅が始まるのだということを実感させて、葵の心は少し昂った。

「いい機会なので少し、地図で説明をしましょう」

 そう言い置くと、アルヴァはまず大陸の名称を口にした。この世界には大陸が二つあって、東の大陸はゼロ、西の大陸はファストという名称で呼ばれているらしい。

「今、僕達がいるのはゼロ大陸です。ゼロ大陸はスレイバルという王国が治めています」

「じゃあ、トリニスタン魔法学園の王立はスレイバル王立ってこと?」

「その通りです。しかし一口に王立とは言っても、本校と分校では扱いが異なります」

 王立の名門校、トリニスタン魔法学園。その本校と分校の違いについて、葵は以前にも説明を聞いたことがあった。しかしそれはアルヴァの口から聞いたのではなく、その内容もほぼ忘れてしまっている。もう一度しっかり聞いておこうと思った葵はアルヴァにさらなる説明を求めた。

「王都にある本校は王家が直接的に管理していますが、ミヤジマの通うアステルダムなどの分校は公国の私財扱いとなっています」

「コウコク?」

「公国とは、公爵家が治める土地のことです。ミヤジマの通うアステルダム分校も、アステルダムという公国の中にあるのですよ」

「ああ、だからアステルダム分校っていうんだ?」

 アステルダム分校という呼び名が腑に落ちたところで、葵はふとアルヴァの姉であるレイチェル=アロースミスの顔を思い浮かべた。そこでレイチェルの顔が浮かんできたのは、彼女ともそんな話をした覚えがあったからだ。

(カスタネット……じゃなくて、何だっけ?)

 異世界へ召喚されて混乱しきっていた葵に、一番初めにこの世界の知識を与えてくれたのがレイチェルである。アステルダム公国の中にそんな名前の地名があると彼女が言っていたような気がするのだが、正式な名称はどうしても思い出せなかった。葵が一人で頭を悩ませていると、話を一段落させたアルヴァは話題を変える。

「少し、貴族についてお話ししておきましょうか? 階級制度が理解できれば、公国のことも解り易いと思いますので」

「あ、うん。聞きたい」

 葵が頷くとアルヴァはまず、貴族制度の頂点はロイヤル・ファミリーなのだと語った。『ロイヤル・ファミリー』という単語自体は耳覚えのあるものだったので、葵は理解を示すために再度頷いて見せる。

「ロイヤル・ファミリーについての説明は不要のようですね」

 葵の理解度を量りながら言葉を紡いでいるアルヴァは、続いて爵位についての説明を加えた。

「ロイヤル・ファミリーは除いて、第一位が公爵、第二位が侯爵、第三位が伯爵、第四位が子爵、第五位が男爵。それぞれの階位内にも優劣があるのですが、細かな説明は省きます。王室から与えられた爵位を受け継ぐ者と、その家族が貴族と呼ばれる支配階級の人々です。ここまでは大丈夫ですか?」

「うん。平気」

「では、話を続けます。五爵のうち、王家から領地を与えられているのは第一位の公爵のみです。この公爵が公国の主、というわけですね」

「ふーん。そういえば、アステルダムのマジスターも公爵なんだっけ?」

「正確に言いますと、公爵家の一員です。爵位は個人が受け継ぐものであって、彼らは継承者ではありませんから」

「へぇ……」

 女子生徒が大袈裟に騒ぐので、葵はてっきりアステルダム分校のマジスター達が爵位継承者なのだとばかり思っていた。しかし第一位の貴族ではあっても、彼らは家族の一人に過ぎないのだ。それを聞いて、葵の見方は若干変わった。

「もしかして、マジスターってそんなにすごくない?」

「上には上がいる、というだけの話ですよ。公爵家の一員であることは、それだけで他人から羨まれることなのです」

 その家に生まれついたというだけで、他人から羨まれる。自分の物差しに照らし合わせて考えてみた葵は大金持ちのようなものかと納得したところでふと、ある素朴な疑問を抱いた。

「レイが庶民ってことはアルも貴族じゃないんでしょ? アルもマジスターのこと羨ましいとか思うの?」

 葵は何気ない世間話のつもりで話を切り出したのだが、刹那、アルヴァの表情が一変した。それまで穏やかだった表情は敵意すら感じるほどに強張り、彼のブルーの瞳には冷ややかな輝きが宿っている。彼が何故豹変したのか分からなかった葵が緊張を漲らせると、アルヴァは淡白を通り越した凍てつくような声音で言葉を紡いだ。

「姉の名は出さないで下さい」

 それは他人の家という場所が悪かったのか、それとも他に何か深意があったのか、葵には分からなかった。しかし理解が追いついていなくとも、質問を重ねることは許されない。アルヴァが纏っているのはそういう空気であり、葵は固く唇を結んだ。

(何だろう、このレイに対する態度)

 アルヴァがレイチェルという人物に対して、ただの姉弟では語りきることの出来ない感情を抱いていることは葵も知っている。しかしその感情の正体が何なのか、葵には未だによく分からないのだ。アルヴァがレイチェルを苦手に思っているのではないかと考えたこともあるが、そう単純なものではないようにも思う。この姉弟をよく知るユアン=S=フロックハートという少年が以前に『コンプレックス』だと言っていたが、それもどうだろう。

(アルのこともレイのこともよく知らないんだから分かるわけないか)

 とにかく、レイチェルの名前を出すのは避けよう。葵がそうした結論に行きつく頃にはアルヴァも平静を取り戻していて、彼は何事もなかったかのように先程の問いの答えを口にした。

「僕は、マジスターを羨ましいと思ったことはありませんよ。彼らは彼らなりに、様々なしがらみを抱えていますから」

「……そうだね。家に縛られるのとか、私も嫌だ」

「少し話は変わりますが、アステルダム分校のマジスターは面白い構成をしています。物の序でに、彼らの実家に立ち寄ってみませんか?」

「は?」

 マジスターの構成が面白いと、何故彼らの実家に立ち寄るという話になるのか。どれだけ考えを巡らせてみても、葵にはアルヴァの真意が理解出来なかった。そもそも、マジスターの構成が面白いという理屈すら分かっていないのである。葵がそうした疑問をぶつけると、アルヴァは事もなげに「では行ってみましょう」と言ってのけた。

「ミヤジマの疑問に答えるためには色々と説明を加えなければなりません。身近な例えを使った方が解り易いかと思ったのですが」

 別に、本人達に会いに行くわけではない。アルヴァがそう付け加えたので、葵は何か納得のいかない思いを残しながらも頷いて見せた。

「では、マジスター達の実家を行き先に加えましょう。あとは王都とフロンティエールには行くつもりなのですが、その他にどこか行きたいところはありますか?」

「王都っていうのはこっちの……えーっと、ゼロ大陸? の首都ってことだよね? フロンティエールっていうのは?」

 葵が東の大陸を指差しながら問うと、アルヴァは彼女の指を西のファスト大陸へと向けさせた。

「フロンティエールというのはファスト大陸にある国の名です。ミヤジマはこの国からの留学生ということになっているので、実際のフロンティエールを一度は見ておいた方がいいでしょう」

「あー……そういえば、そうなんだっけ」

 葵にフロンティエールからの留学生という偽の身分を与えたのはアステルダム分校の理事長であるロバート=エーメリーという青年だ。彼にトラウマのある葵は早くその話題から逃れたかったので、率先して言葉を重ねる。

「そのフロンティエールってどんな所なの?」

「魔法が使えない国、です」

「……え?」

 アルヴァからの返答が予想外のものだったので葵は驚きに言葉を失ってしまった。葵があ然としているため、アルヴァは一人で話を続ける。

「僕もフロンティエールへ行くのは初めてなので、それ以上のことは分かりません。ですが、きっと何かを得られると思います」

「う、うん。行きたい!」

「他に、行きたい場所はありますか?」

「あとは坩堝るつぼ島くらいしか知らないよ」

 坩堝島はゼロ大陸とファスト大陸の間に浮かぶ小さな島国で、葵の友人であるクレア=ブルームフィールドの故郷だ。話に聞いていた坩堝島の名前を何気なく出すと、アルヴァは口元に手を当てて地図から視線を外す。何かを考えているらしい彼は、少し間を置いてから再び口を開いた。

「坩堝島、行ってみますか?」

「なんか、すごい所らしいね?」

「クレアさんから聞いたのですね。僕も実際には行ったことがないのですが、坩堝島もフロンティエールと同じくらいに特殊な場所です。見聞を広めるためには行ってみる価値があるかもしれません」

「正直、見てみたい気もするんだけど、行きたくないなぁって気持ちもあるんだよね。今回はアルに任せるよ。行きたい所って言われても、よく分からないし」

「迷うなら行きましょう」

 そこで言葉を切ると、アルヴァは地図を注視した。おそらくルートを考えているのだろうと思った葵は黙して次の言葉を待つ。沈黙を破ったのはアルヴァでも葵でもなく、住居部分に戻って来たアリーシャだった。






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