バベッジ公爵の治めるウォータールーフ公国は領土内に多数の湖沼を有する、水に恵まれた場所だった。それだけでも観光としては見応えのあるものだったのだが、魔法が存在する世界では時に想像を絶する光景が平然と広がっていたりする。ウォータールーフ公国の眺めで葵が一番驚いたのが、公爵邸の佇まいだ。公爵邸は広大な湖の只中にあるのだが、その足元には陸地が見当たらない。水に浮かんでいるように見える島を『浮島』というが、トリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターの一人であるオリヴァー=バベッジの実家は、本当に水の上に『浮いて』いた。
「ハルの実家もすごかったけど、ここもすごいね」
ウォータールーフ公国へ来る前に、葵とアルヴァはかつてアステルダム分校のマジスターの一員だったハル=ヒューイットという少年の実家にも立ち寄っていた。ウォータールーフ公国の象徴が『水』なら、ヒューイット公爵が治めるリカルミトン公国の象徴は『大地』だ。リカルミトン公国の大地は起伏に富んでいて、見学こそしてこなかったものの地下空間も数多く存在しているらしい。
「バベッジ家の者は水の魔法を得意としています。それゆえ、こうして湖沼の多い土地を与えられたのでしょうね」
「へぇ。じゃあ、オリヴァーも水の魔法が得意なんだ?」
「そうですね。彼は英霊も使役することが出来ますから、本来であれば本校に通っていてもおかしくない実力の持ち主です」
「えいれい?」
「ああ……ミヤジマには、そういったことは説明していないのでしたね」
この世界の生まれではない葵には自力で魔法を使うということが出来ない。そのため葵が魔法を使う際には、アルヴァの魔力がこめられている
「自然属性の魔法についてはミヤジマの方からも尋ねてきませんでしたね」
「まあ、使えないのは分かってたから。聞いても無駄かなって思ってた」
「僕もそう思っていたのですが、使える方法が分かってしまいましたからね。これからよく、学んでください」
アルヴァの言う『葵が自然属性の魔法を使える方法』とは、葵の体内に直接アルヴァの魔力を溜め込んでおくという荒業だ。それが他人のものとはいえ、ある程度体内に魔力が蓄積されていれば実際に自然属性の魔法が使えることは確認済みである。ただし、この方法には『口移しで魔力を供給する』という難点がある。人工呼吸のようなものとはいえ、キスの感触を早く記憶から消し去りたかった葵はアルヴァに説明を続けるよう促した。
「英霊について語るには、前提として精霊の存在を理解している必要があります。精霊という言葉くらいは聞いた覚えがありますか?」
「セイレイって、火の精霊とか水の精霊とか?」
「そうです。火・水・風・土の四大元素精霊と、彼らの眷属である精霊がメジャーですね」
「ケンゾク?」
「少し語弊がありますが、仲間と考えるのが分かり易いのではないでしょうか。例えば、水の精霊はチームのリーダーです。このリーダーが率いている仲間に湖沼の精霊や河川の精霊、雨の精霊や雪の精霊がいるというわけです」
「ああ、なるほど」
もともと『精霊』というものに対して、ある程度のイメージを持っていた葵はアルヴァの説明をすんなりと受け入れることが出来た。葵のイメージは様々なファンタジー小説によって育まれたものだが、この世界の精霊の概念もそのイメージから大きく外れたものではないようだ。
「精霊ってどんな姿してるの? 雪の精霊とかだと、やっぱり真っ白なのかなぁ?」
「精霊は本来、僕達が認識している『形状』では計ることの出来ない存在です。僕達が精霊の姿を『見ている』ときは、精霊が人間にとって分かり易いように形状を作ってくれているのですよ」
「ふうん。じゃあ、雪の精霊だからって白いとは限らないんだ?」
「精霊にとって形状とは、人間とのコミュニケーションをとる手段の一つに過ぎません。見た目は何にでもなれるのです」
そこで一度、アルヴァは言葉を切った。唇を結んだアルヴァが湖の方を見たので葵もつられて視線を傾ける。山間に沈みかけた太陽の光が低いところから湖面を照らしていて、湖は黄昏の空を映す鏡となっていた。夕暮れの橙も光を帯びた雲も湖面に映し出されているが、鏡の中の風景には足りないものがある。湖の中心に佇むバベッジ邸だけが、鏡面に映っていないのだ。
「うわぁ……」
暮れかけた空と湖が織り成す景観の美しさもさることながら、葵が思わず感嘆の声を発したのはバベッジ邸の変化に目を奪われたからだった。湖の只中に佇んでいる屋敷を、湖面から迫り上がった水が少しずつ覆っていく。水の球は光を透かしていて、まるで屋敷がシャボン玉に包まれたような眺めだった。巨大な水泡にくるまれた屋敷は、そのまま少しずつ水中に沈んでいく。残光が辺りを照らす頃になると湖の上に屋敷があったのが嘘のように閑散とした眺めになってしまい、葵はもう一度ため息をついた。
「すごいね。あれも魔法?」
「そうです。一般的な魔法ではないので詳しく説明は出来ませんが、すごいですね」
バベッジ邸が湖に沈むのはアルヴァも初めて見たらしく、彼はまだ湖面に釘付けになっている。しかし意識の半ばは隣に佇む葵の方に向いているらしく、アルヴァは目線を動かさないままに話を続けた。
「話が逸れてしまいましたが、精霊とはこの世界で人間と共存している別の種族のことです。これに対して英霊は、過去に生きていた魔法使いのことを指します」
「うん?」
話がようやく本題に辿り着いたが、葵にはアルヴァの言葉を一発で理解することは出来なかった。うまく呑みこめなかったのは『過去に生きていた』という点だ。それは即ち、今はもう生きていないということになるのだろうか。
「つまり、今はもう死んでる人ってこと?」
「そうなりますね。死は、肉体と共にその人間の意識が世界に還ることだと言われています。この意識のみを呼び覚ましたのが英霊と呼ばれる存在です」
精霊は魔法を使う上で必要不可欠な存在だが、英霊は違う。つまり精霊と英霊は根本的な存在自体が違うのだと、アルヴァは語った。
「英霊と呼ばれる者達が存在している理由は、誰しもが英霊になれるわけではないということを考慮すれば解るのではないでしょうか」
「それって、すごい魔法使いじゃないと英霊になれないってこと?」
「その通りです。生前に名を馳せた者でなければ呼び覚ましても意味がありませんし、死後再び自我を構築すること自体が困難でしょう」
過去に生きた偉大な魔法使いを現在の世界に『召喚』するのは、主に知識やアドバイスを得ることが目的である。そのため英霊を召喚する術を確立して後、魔法は飛躍的に発展したらしい。もはや英霊という存在は魔法を扱う者にとっては常識となっているようだが、アルヴァの話を聞いた葵は複雑な気分になった。
「もう自分の人生が終わってるのに呼び起こされるのってイヤじゃない? 私だったらイヤだな」
「英霊を召喚する術が確立してしばらくすると、高名な魔法使いにとっては英霊という存在が利用するだけのものではなくなっていったのですよ」
死後に英霊として呼び起こされないためには生前から手を打っておく必要がある。ある時を境にそういった風潮が魔法使い達の間に広まり、今度は英霊とならないための術が生まれたらしい。
「死後に英霊として呼び起こされない術が確立すると、その後に名を馳せた魔法使い達はもう今生に姿を現すことはなくなりました。ですから今では英霊はとても旧く、そして稀少なのです」
「珍しいのは分かるけど、それって情報自体もかなり古くなっちゃってるんじゃないの?」
遥か昔の人間しか呼び出せないのでは、もうその世代を生きていた者達が培った知識は絞り尽くされているのではないだろうか。にもかかわらず、オリヴァーは未だに英霊というものを使役しているのだという。それが何故か分からなかった葵が首を傾げていると、アルヴァは驚いたように目を瞬かせた。
「それは、その通りです。よく、そんなところに気がつきますね」
そこまで詳細に語るつもりはなかったと言いながらも、アルヴァは葵の疑問に答えてみせた。
「確かに、古代の英霊からは知識を絞り尽くしています。けれど中には、幾度も呼び出されているうちに半ば精霊化してしまった者もいるのです。そういった英霊は現在でも価値があるので、使われているということですね」
具体的に何が出来るのかは分からなかったが、アルヴァの解説は「だからレアなのか」と納得させられるだけの効力を持っていた。これ以上は追及しても分からないだろうと思ったので、満足した葵はそこで口をつぐむ。葵が閉口するとアルヴァは再び湖に視線を移した。
「すっかり日が暮れてしまいましたね。今日のところは戻りましょうか」
提案に異論はなかったため、葵はアルヴァが差し伸べてきた手を取った。
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