「アン・テ」
紅茶を淹れる呪文だけを唱えると、アルヴァはリビングのソファーに腰を落ち着けた。しかしのんびりと紅茶を愉しむ暇もなく、窓辺から魔法の気配がしたため再び立ち上がる。朝の光を控えめに取り込んでいる出窓には観葉植物だけでなくレリエという
レリエというマジックアイテムは通信魔法に使うもので、テレビ電話のような働きをする。細長い棒状のレリエを軽く左右に振ることで
「ひどい顔だな」
朝のあいさつよりも先にアルヴァの口から飛び出した感想に、鮮やかな金髪に紫色の瞳といった容貌をしている少年は力ない苦笑いを浮かべた。彼の名は、ユアン=S=フロックハート。貴族の子であるユアンは人目を引く非常に愛らしい顔立ちをしているのだが、今はくりっとした目の下に濃い隈ができている。心なしか頬も痩けていて、アルヴァが「ひどい顔」だと言うのも仕方がない有り様だった。
『ちょっと忙しくて。連絡するのが遅くなってごめん』
アルヴァは昨夜からユアンに呼び出しをかけていたのだが、結局は彼をつかまえることが出来ないままに夜が明けてしまった。しかし自分の部屋にいるうちにユアンと話すことが出来たため、アルヴァは気にせずに本題を切り出す。
「これからしばらく通信が出来なくなる。それを伝えようと思っただけだから気にすることはないよ」
『アオイと旅行に行くんだってね。もう行っちゃってるかと思ってたよ』
「なんだ、知っていたのか」
『クレアに聞いたんだ』
ユアンが話題に上らせたクレア=ブルームフィールドは彼の私用人で、葵の友人でもある。アルヴァが納得していると、少し平素の元気を取り戻したユアンは興味津々な口調で問いを重ねてきた。
『どこ行くの?』
「世界を一周してくる。終月期中は戻らないから、そのつもりでいてくれ」
『うん。僕もちょっと忙しいから、連絡出来なくなると思う』
ちょうどいいねと、ユアンは言う。アルヴァも彼がこの時期に忙しくしていることは知っていたが、それでも今年の忙しさは尋常ではないようだ。
「何かあったのか?」
『論文を書いてるんだ。それと、僕達も出掛けるんだよ』
「どこへ?」
『今はまだナイショ。帰って来たら教えるよ』
「そうか」
ひとたび秘密だと言えば、ユアンは頑として口を割らない。そのことを知っているアルヴァが早々に追及を諦めると、アルヴァのそういった
『ところで、アオイの様子はどう?』
「どう、っていうと?」
『うん、アッシュと別れたって聞いたから。落ち込んでないかなと思って』
「ああ……」
ユアンに話を筒抜けさせたであろうクレアの顔を思い浮かべたアルヴァは、そういうことかと納得した。しかしアルヴァにとってその話題は、問われて困るものでもある。
「表面上は変わらないよ。特に落ち込んでいる風にも見えない」
『実際は?』
「さあね。僕より、クレア=ブルームフィールドに訊いた方が分かるんじゃない? なんだか仲良くなってるみたいだから」
『それは僕としても嬉しい限りなんだけど、アルは?』
不意に自身のことに言及されたため、発言の真意を掴み損ねたアルヴァは眉根を寄せた。アルヴァに意図が伝わらなかったことを見て取ったらしく、ユアンはすぐに補足する。
『アオイと仲良くやってる?』
「……また、ずいぶんと急な問いかけだね」
『即答してくれないってことは、あんまりうまくいってないんだね?』
「そうやって断定されると、それが本当のことのように思えてくるよ」
本心を話そうとしないアルヴァの態度に、言葉を切ったユアンは困ったように苦笑いを浮かべた。この件についてはユアンと語らう気もなかったため、アルヴァはさっさと話を切り上げる。
「ミヤジマを待たせてるから、そろそろ行くよ」
『うん。アオイをよろしくね』
そんな一言でユアンは会話を終わらせた。彼の姿が消えると同時に行動を起こしたアルヴァは、レリエを異次元へしまいこんでから転移の呪文を唱える。ゼロ大陸観光の中継地点としている宿に戻ると、葵はまだベッドで熟睡していた。起こそうと思ってベッドに寄ったものの、葵の安らかな寝顔を目にしたアルヴァはふと動きを止める。起こすのが忍びないと思ったわけではなかったのだが、手を止めたアルヴァはそっとベッドの際に腰を落ち着けた。
(よろしく、か)
先程の、ユアンの言葉が蘇る。あれが最後通告のように聞こえてしまうのは、どんな形であれアルヴァが一生、この宮島葵という少女と付き合わなければならないからだ。例えば彼女が婚期を逃してしまったら、アルヴァは葵を妻としなければならない。例え彼女が結婚したとしても、アルヴァは常に葵の相談役謙フォロー係をしなければならないのだ。
(そんな相手に、どう好意を抱けっていうんだ)
葵を召喚してしまったことに責任を感じているのなら、ユアンが彼女を娶ればいい。それが一番シンプルな責任の取り方だが、それだけは絶対にあってはならないことなのだ。元凶であるユアンが面倒をみきれないのなら、その責を負うのは彼の家庭教師であるレイチェルということになる。しかしレイチェルは、あまりにもユアンに近い。それは葵の存在を気付かれると非常にまずい王家にも近すぎるということであり、そうなってくると誰が後始末をしなければならないのかは目に見えている。アルヴァしか、いないのだ。
そもそもアルヴァは、こういった公に出来ない事態を秘密裏に処理するために表舞台から姿を消した。なので葵のような厄介者を引き受けることは本望と言えば本望なのだが、どうでもよくなることもたまにはある。そうした気分に陥ったときは過去の忌まわしい出来事を思い返すことで自分を戒めてきたのだが、最近ではそれとは違った抑止力も芽生えつつあるようだった。
懐かしむように郷里のことを語る時、葵の瞳はひどく不安げに、寂しさに揺れていた。彼女がそんな表情をするようになったのはここ最近のことなので、何か心境に変化を及ぼすような出来事があったのかもしれない。アルヴァが放り出してしまえば、彼女はこの異世界でたった独りになってしまうのだ。それを哀れだと感じる程度には情が移っているようで、そんなことを考えてしまった自分にアルヴァは皮肉な笑みを浮かべた。
(人間として見ている、ということだな)
異世界からの来訪者である葵は『召喚獣』と呼ばれる存在である。彼女を召喚したのがユアンでなければ、アルヴァも葵のことを研究材料としてしか見なかっただろう。その自信があったのだが、葵があまりにも人間に近い外見をしているため、アルヴァ自身にも『葵が召喚獣である』という危機感が薄れていたようだ。
アルヴァがついつい考え事をしていると、葵が不意に目を開けた。目を覚ますなりアルヴァが近くにいることを知ったためか、彼女は不審そうな表情になって上体を起こす。その顔からは心なしか、血の気が失せているように見えた。
「アル、まさか……」
例の『補給』をしていたのではないかと、青褪めた葵はごにょごにょと問いかけてきた。それが口唇へのキスを意味していたため、アルヴァはフッと冷笑する。
「食事にしようか」
否定せずにベッドを離れると葵が何やら喚いていたが、アルヴァは狼狽している彼女に構うことなく朝食の準備を始めた。
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