穏やかに凪いでいる海の上を一艘の帆船が進んでいた。うまい具合に風をつかまえている船は帆をめいっぱいに膨らませていて、海上を疾走している。その船の船室に、黒髪に同色の瞳といった世界でも珍しい容貌をしている少女の姿があった。乗り合わせている子供らは見向きもしていないというのに、彼女はべったりと船室の窓にへばりついている。そうしなければ外の様子が窺えない理由は、あまりにも速度が出ているために乗客が甲板に出ることが禁じられているからだった。
「何か見えますか?」
同行者が声をかけてきたため、窓から視線を外した少女は足下へと顔を傾けた。旅の道連れである金髪の青年は船室の壁に背中を預け、開いた本へと目を落としている。少女の名は宮島葵、彼女の同行者である金髪の青年は名をアルヴァ=アロースミスといった。
「海しか見えない」
「そうでしょうね。かなりの速度で移動していますし、ファスト大陸まではまだ距離がありますから」
気が済んだのなら座っていろと、アルヴァは言外に含みを持たせている。せっかくの船旅なのだから景色を楽しみたいと思っていた葵は残念に思い、仕方なくアルヴァの隣に腰を落ち着けた。
炎の月(
「何で船なの?」
「空路は申請が必要ですし、陸路は過酷です。船旅が一番堅実なのですよ」
「えっ、ちょっと待って」
アルヴァから返ってきたのは予想外の答えで、色々と分からないことが発生してしまった葵は空を仰いで考えを巡らせた。空路と聞いて真っ先に思い浮かんだのは飛行機やヘリコプターといった機械だったが、おそらくこの世界にはそういったものはないだろう。船室には他にも大勢乗客がいたため、葵は言葉を選びながら問いを重ねた。
「空路って、何で行くの? 王都で見た、あの空飛ぶジュウタンみたいなやつ?」
「ああいった
ただし、その管理は王家直属の機関が行っているため審査が厳しい。例え審査を通ったとしても莫大な費用がかかるため、一般的に使われることはまずないとのことだった。
「へぇ。じゃあ、陸路っていうのは? 大陸、つながってたっけ?」
この世界の地図は幾度か見たことがあるが、東の大陸と西の大陸は陸続きではなかったように思う。葵が記憶を呼び覚ましながらそう言うと、アルヴァは本を閉ざしてから答えを口にした。
「ですから、海面を割って道をつくるのですよ。よほど自信がないと海を横断する前に魔力が尽きて、海の藻屑となりますね」
「さらっと怖いこと言わないでよ」
そこで一度話を終わらせてから、葵は本当に聞きたかったことを言葉にしてみた。何故転移の魔法ではなく船での移動なのかと問うと、アルヴァは納得した様子で頷いて見せる。
「ああ、そのことを聞きたかったのですね」
「うん。言葉が足りなくてごめん」
「謝らなくてもいいですよ」
葵の謝罪を柔らかく受け止めた後、アルヴァは改めて彼女の疑問に答えた。
「転移の魔法は本来、魔法陣を介して行われるものです。ゼロ大陸はスレイバルという一国のみが治めている土地なので、各地へのアクセスが確立されています。ここまではいいですか?」
「各地へのアクセス?」
「ゼロ大陸の主要都市には転移用の魔法陣が用意されていて、人々が自由に往来出来るということです」
「ああ、なるほど。うん、そこまでは大丈夫」
「ゼロ大陸ではそうした仕組みが出来上がっていますが、これは大陸を統一国家が治めているからこそ出来ることなのです。ファスト大陸には大小様々な国家がありますので、移動がかなり制限されることになります。ゼロ大陸のようにどこへでも自由に行けるわけではないのですよ」
短時間で自由に往来出来るとあって、ゼロ大陸での観光は非常に慌しいものだった。しかしファスト大陸では、どうやらのんびりと観光を楽しむことが出来そうである。ようやく旅らしくなってきたことに気を良くした葵は再び立ち上がって窓の外を眺めたのだが、やはり速度が出すぎていて風景を愉しむどころではなかった。
「風、少し止んでくれないかなぁ」
帆船は追い風をつかまえることで加速し、風が弱まれば失速する。葵はそれを自然なことだと考えていたのだが、再び本を広げたアルヴァからは味気ない反応が返ってきた。
「目的地に着くまで止むことはありませんよ」
「え?」
「この風は操舵手が魔法で吹かせているものですから」
「ええ……」
それはつまり、目的地に到着するまでは甲板にも出られず、この船室に閉じこもっていなければならないということだ。船に乗ること自体が久しぶりで旅気分が高まっていた葵にとって、じっとしていろと言われるのは拷問に近いものがあった。動き回りたくてウズウズしていると不意に、あらぬ方向から誰かが吹き出したような音が聞こえてくる。葵が何気なく顔を傾けると、目が合うなり子供達が笑い出した。その笑いには他人を小馬鹿にするような含みがあって、葵は軽いショックを受けた。
「笑われた……」
「ミヤジマがソワソワしているからですよ。まだ先は長いのですから、大人しく座っていて下さい」
すっかり気分を萎えさせてしまった葵はアルヴァの言う通り、大人しく腰を下ろした。葵が隣に座るなり、アルヴァは「ここを見て下さい」と言って本を傾けてくる。アルヴァが開いている本を覗き込んだ葵は、彼が示している文字列を読み解こうと目を細めた。
『船がどうやって動いているのかくらい、子供でも知っている。船室では筆記で会話をした方が良さそうだ』
文章が長かったため少し時間がかかったが、葵は何とかアルヴァからのメッセージを読み解いた。本から目を上げた葵が頷いて見せると、アルヴァは小声で何かを呟きながらメッセージの文字列を指でなぞっていく。すると葵が読み解いたメッセージは跡形もなく消え失せ、その行は空白となった。
「意外と時間がかかりましたね。まだ、苦手ですか」
アルヴァが本を指差しながら尋ねてきたので、葵はすぐに『苦手』なのが文字のことを言っているのだと察した。正直に白状すると読めなかった文字もあり、飛び飛びの文章を何とか形にした葵は苦虫を噛み潰したような表情になって頷く。
「そんな、急に全部は無理だよ」
葵がそう抗議をしてみても、アルヴァは何も言わなかった。口を開かない代わりに自身が纏っているマントの中へと手を忍ばせた彼は、そこから取り出した一冊の本を葵へと差し出す。それを受け取った葵はページをめくってみたのだが、本の中身は真っ白だった。
「何も書いてないよ?」
「ミヤジマが書き込むのですよ」
そう言うと、アルヴァは再び自身が開いている本を指し示してきた。そこにあったのはまた長い文章で、葵は必死に頭を働かせて解読を試みる。
『ファスト大陸に着くまでは筆記で会話しよう。暇潰しにもなるし、ちょうどいいだろう? その本を使って、試しに何か話しかけてみてよ』
アルヴァからのメッセージはそんな内容だった。かなりの時間を使って何とかメッセージを読み解いた葵は眉根を寄せながらアルヴァを見る。するとペンを差し出されたので、どうやら彼は本気で筆談をする気のようだ。
(えっと……)
尋ねたいことはあったのだが言葉がうまく文章にならず、葵は頭を抱えた。これは一人で頭を悩ませていても絶対に解決しない問題のため、葵は口頭でも助言を受けながら文章を組み立てていく。そうして出来上がった一文は、ファスト大陸までどのくらいかかるのかを尋ねるものだった。
「つ、疲れる」
会話なら一言で済むところが、筆談になると三倍以上の時間がかかってしまう。葵はたった一文を作り上げるだけでうんざりしてしまっていたが、あくまで筆談を続けるつもりらしいアルヴァは自身が手にしている本に答えを書いて寄越してきた。そこには短く、三日と記されている。今度は瞬時に答えを読み取った葵は嫌な顔をしながら目を上げた。
「三日もこんなことするの?」
「習うより慣れろ、と言うでしょう? 三日もあればだいぶ上達すると思いますよ。僕も助言は惜しみませんので、頑張りましょう」
生徒に接するような態度に出られてしまえば断りようもなく、葵はファスト大陸に着くまでの三日間をひたすら文字の勉強に費やしたのだった。
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