ファスト大陸の東南に位置するフロンティエールという国には河川が多い。国内をあまねく潤している川は人々の生活の基盤であるようで、フロンティエールでは陸路よりも水路の方が整備されていた。大小様々な川の流れは内地に行くほど複雑に入り組んでいて、時には船を乗り継がなければ目的地に辿り着けないこともある。そのためあちこちに渡し舟が浮いているのだが、その風景は魔法が発達したゼロ大陸では見ることの出来ない独特なものだった。
帆船や小舟が入り乱れているとある川に、朱塗りの屋根が目を引く屋形船が浮かんでいた。それはフロンティエールの貴人が使用するもので、現在はこの国の王子であるジノクを乗せて王宮へと向かっている。その船には他にも、初めてこの国を訪れた旅人達が乗り込んでいた。旅人は男女の二人連れで、少女の名は宮島葵、青年の名はアルヴァ=アロースミスという。デッキで風を受けている葵達はお互いに交わす言葉もなく、次第に迫り来る王宮の眺めに圧倒されていた。
「どうだ、美しいだろう?」
ジノクが自慢げな口調で問いかけてきたので、葵は王宮に目を奪われたまま頷いた。フロンティエールの王宮は西欧風のゼロ大陸とはだいぶ雰囲気が違っていて、寺院建築のような佇まいをしている。王宮の周囲が水で囲われているのも印象的で、その眺めは葵の脳裏に東南アジアの歴史的建造物を蘇らせた。
(あの遺跡、なんだっけ)
誰ともイメージを共有することが出来ないので口には出さなかったが、葵はフロンティエールの王宮を見つめながらもおぼろげな記憶を辿っていた。そうこうしているうちに船は岸に着き、下船を促される。今度は小舟に乗り換えて王宮に行くのだと聞いた葵は、思わず「また?」と問い返してしまった。というのも、隣国であるネイズに近い海辺を出発してからの乗り換えが六度に亘っているからだった。それもたったの二日で、である。
「また乗り換えだって」
船酔いはないものの、そろそろ陸に上がりたかった葵は少々うんざりしながら同行者を振り返った。しかしアルヴァは気にしていないらしく、彼は相槌だけを打ってくる。キョロキョロと周囲に視線を動かしているアルヴァの様子がどうにも上の空だったため、葵は首を傾げながら言葉を重ねた。
「何か気になることでもあるの?」
「ちょっとね」
「何? 教えてよ」
「もうちょっとはっきりしたことが分かったら教えるよ」
アルヴァの物言いは焦らしているという風ではなく、現時点では説明をするのが難しいとでもいうような感じだった。話をしながら歩いているうちに目的地に辿り着いたので、葵とアルヴァはそこで会話を切り上げて小舟へと乗り込む。人力で動く舟はゆっくりと、王宮へ向けて滑り出した。
王宮の周囲に広がっている水域には、ところどころに島が浮いていた。その大きさは様々だが、どの浮島も有効活用されているようで、観賞用と思われる植物が植えてあったり畑が存在していたりする。物珍しさも手伝ってキョロキョロしていた葵は、ふと視線を移した先で目にした植物に驚愕した。
(紫陽花……)
小さな花が寄り集まって一つの花のようになっているその植物は、青や紫といった色づき具合から見ても紫陽花そのものだった。思いがけない出会いは不意打ちで、葵の脳裏に雨の記憶を呼び覚ます。紫陽花がキレイだと言った友人の幻聴まで聞こえてきて、現実と記憶がごっちゃになってしまった葵は軽い眩暈を覚えた。
「気分が悪いのか?」
肩にかけられた手のぬくもりと気遣わしげな誰かの声で、葵は我に返った。気がつくと舟の縁に向かって上体を折っていて、その様子から『気分が悪い』のだと思われたらしい。そのことに気がついた葵は慌てて姿勢を正した。
「ううん、平気。何でもないの」
作り笑いを浮かべて振り返ったところで、葵は面食らってしまった。てっきりアルヴァだとばかり思っていたのだが、背後に佇んでいたのがジノクだったからだ。彼の顔は愛する芸能人に瓜二つなため、また混乱を起こしそうになった葵は自分を戒めるために小さく首を振る。
「あの花、何て名前?」
「どの花だ?」
葵が後方を指差したため、ジノクも過ぎ去った風景を顧みた。先程目にした花は遠くなってしまっていたが、舟が通過した側に同じ花が咲いていたので、葵は改めてその花を指し示す。
「あれはハインドランジアという花だ」
「ハインドランジア……」
やはり、紫陽花ではない。葵はその呟きを胸中で留めたため、ジノクの目には『耳慣れない言葉を繰り返している』というように映ったようだった。特に不審がられることはなく、ジノクはハインドランジアという花についての説明を加える。
「土壌の変化を観察するために植えてある。浮島によって花の色味が異なる、面白い花だ」
「へぇ」
「気に入ったのか?」
「気に入ったっていうか……」
答えに困ってしまった葵が言葉を濁すと、それまで普通に喋っていたジノクが途端に嫌な表情をして見せた。
「はっきりせぬ女だな。言いたいことがあるのならば皆まで言えば良かろう」
海辺でのようにと、ジノクは言う。それが嫌味なのかどうなのか判断のつかなかった葵は苦笑いを浮かべた。
「あの花に似た花に思い出があるの。それで、あの花を見たら昔のことを思い出しちゃっただけ」
「それは悪い思い出なのか?」
「そんなことないよ。普通の、ただの思い出」
「その思い出とやら、詳しく話してみろ」
「え、何で?」
そこまで追及されると思っていなかった葵はジノクの一言を意外に感じて小首を傾げた。だがジノクにとっては葵が聞き返してきたことの方が予想外だったようで、彼はムッとしたような表情になってしまっている。
「余が聞いてやると言っているのだ、早く話せ」
「別にいいけど……本当に大したことじゃないよ?」
妙なところにこだわるジノクを不思議に思いながら、葵は紫陽花にまつわる思い出を語った。それは学校の登下校時に咲いている紫陽花を目にして、友人とキレイだねと言い合っただけの思い出で、本当に大したことではない。葵は初めからそう言っていたのに、彼女から思い出を聞き出したジノクはつまらなさそうな顔をした。
「それだけか?」
「うん、それだけ」
「つまらぬ」
「だから、大したことじゃないって言ったでしょ」
「ならば何故、ハインドランジアを見て泣きそうな表情をしていたのだ」
ジノクが発した思いがけない一言に葵は驚いてしまった。泣き出したい衝動には駆られていなかったが、ハインドランジアという花に心を揺さぶられていたのは事実だ。泣きたかったのかと、他人に言われて初めて面に出ていた自分の感情を知った葵は苦い思いで目を伏せる。フラッシュバックした、何気ない日常の記憶。それがひどく心を揺さぶるのは、梅雨時の風景が生まれ育った世界で目にした最後の映像だからだ。
「そなた……」
ジノクが何かを言いかけたが、舟が目的地へ着いてしまったために彼の言葉はそこで途切れた。離れて行ったジノクの代わりにアルヴァが傍へ来たので、葵は苦笑いでもって彼を迎える。自然と口角が上がってしまったのは、アルヴァが何かを問いたげな表情をしていたからだった。
「王子に何か言われたのか?」
「ちょっと、あの花の話をしてただけ」
土壌の状態を観察するために植えられているのだというハインドランジアは浮島だけでなく、王宮が建っている島にも植えられていた。どうやらゼロ大陸では珍しい花のようで、アルヴァもハインドランジアに興味を抱いていたらしい。あれこれと質問をされたため、葵は意外に思った。
「アルって花とか好きなんだ?」
「好きというより研究対象だよ。植物は魔法薬を作るのに重要な役割を果たすからね」
「……なるほど」
美しさを愛でるのではなく実用するというところが、いかにもアルヴァらしい。株分けをしてもらえるよう口利きをして欲しいと言われた葵は少し安堵の混じった苦笑を浮かべ、後でジノクに話してみることをアルヴァに約束した。
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