紫陽花の陰

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 王宮へ着くとまず、葵とアルヴァは玉座のある謁見の間でフロンティエールの王と対面した。王は旅人の来訪を大袈裟なほどに喜び、逗留を勧められた葵とアルヴァは、しばらく王宮に留まることになった。そのため個室を与えられたのだが、これがまた貴族の屋敷並みに無駄に広く、無闇に豪奢なものだった。

「はあ……」

 どこかのリゾートホテルの、それもスイートルームのような眺めに、葵は呆れの混じったため息を吐いた。それを驚愕の嘆息だと思ったらしいジノクは室内に備え付けられているソファーでふんぞり返る。

「どうだ、気に入ったか」

「うん」

 この人物に曖昧な返答をすると面倒なことになるため、葵は適当な相槌を打って室内に歩を進めた。広々とした部屋の奥にはキングサイズのベッドが置いてあり、そのさらに奥へ行くとテラスへ出られるようになっている。部屋は一階だが視界を遮るものがあまりないため、窓からは水の都の美しい風景がよく見えた。

「失礼します」

 背後で声がしたので振り返ると、戸口に少女が佇んでいた。室内に進入してきた少女はソファーに腰かけているジノクを見るなり顔を輝かせ、ジノクもまた少女に応えるかのように薄笑いを浮かべる。ジノクが自身の膝を指し示すと少女が何の躊躇いもなくそこへ腰かけたので、成り行きを見守っていた葵はあ然としてしまった。

「王子、おかえりなさいませ」

「うむ。只今帰ったぞ」

 周囲に甘い空気を撒き散らしながらイチャイチャしているジノクと少女は、完全に二人だけの世界に入ってしまっている。見ていられなかった葵は彼らから視線を外し、窓辺に佇んでいるアルヴァの元へ寄った。

「なに見てるの?」

「景観、かな」

「ふうん? アレは気にならないの?」

「あれ?」

 葵が指し示した方向を見たアルヴァはソファーでイチャついているジノクと少女に目を留めたが、眉一つ動かすことはなかった。

「本人達が気にしていないからいいんじゃないか?」

「そういう問題?」

 眉をひそめたところで、葵はふとアルヴァの言葉に納得してしまった。アルヴァもどちらかと言えば女関係にだらしないタイプであり、彼もまた人前でイチャイチャすることに抵抗を感じない種類の人間なのだ。ジノクやアルヴァのような人種にとっては『そういう問題』なのであり、そうだったと思った葵は深々とため息を吐き出した。

「ミヤジマも混ざりたければ来い。まとめて相手をしてやる」

 ふと視線を寄越してきたジノクが急に妙なことを言い出したので、葵は頬を引きつらせながら後退した。

(何でそうなるのよ!)

 全ての女は自分に惚れる、的なジノクの発想が葵には嫌で嫌で仕方がなかった。しかしフロンティエールという国では、信じられないことにそれが普通なのだ。せめてジノクの顔が最愛の人に似ていなければと、誰にも理解してもらえない悩みを抱えている葵は密かに拳を握った。葵が寄ってこないので、ジノクはさっさと膝の上に乗せている少女との会話を再開させる。

「ところで、リンはどこにいる?」

「リン様は別のお客様のお世話をされています」

「客? この者達の他にも客が来ているのか?」

「はい。ゼロ大陸からのお客様だそうです」

「ゼロ大陸か……そなた達と同じだな」

 ただでさえ旅行客の少ないフロンティエールに、同じ場所から二組の旅人が来た。これがどれほど珍しいことなのか、葵にはよく分かっていなかった。ただ、何かしら縁のようなものを感じた葵はアルヴァにもそのことを教えてあげようと思い、窓辺に顔を傾ける。するとまた、扉の方からノックの音が聞こえてきた。

「失礼いたします」

 丁寧にお辞儀をしてから室内へ進入して来たのは、おそらくは成人していると思われる女性だった。彼女はジノクの膝の上にいる少女と同じく膝下まである長い上衣を身につけていて、どうやらそれが王宮内で働く女性の正装のようだ。王宮に戻って来てから着替えをしたジノクもゆったりとした上衣を身につけているが、女性のそれは男性のものよりも体のラインを強調している。アオザイのようで可愛いと思えるほど身なりを観察できたのは、その女性が至極『まとも』だったからかもしれない。

 ジノクにリンと呼ばれた女性はまず、彼の膝の上にいる少女を無言で睨みつけた。リンの冷ややかな視線に慌てた少女はすぐにジノクの膝から下りたのだが、すでに後の祭りのようである。その後に見せたリンの微笑みは威圧感を漂わせるもので、その迫力は無関係な葵でさえも肝を冷やしてしまうほどのものだった。

「どうしたのだ、リン? そなたは別の客を世話していたのではなかったのか?」

 苦笑いを浮かべたジノクが見かねた様子で口を出すと、リンは棘のある笑みを消してから彼に向き直った。

「はい。わたくしがお世話をさせていただいておりますお客様が、王子にお会いしたいと申しております」

「そうか」

 そこで何故か、ジノクは横目でチラリと葵を見た。含みを持たせた動作に葵が首を傾げていると、再びリンに向き直ったジノクは客人をこの部屋へ連れて来るよう指示を出す。ジノクの意を受けたリンは青褪めている少女を急きたてるようにして伴い、部屋を出て行った。

「見苦しいところを見せたな。リンは優秀な侍従なのだが、あの通り頭が硬いのだ」

 扉が閉ざされるなりジノクがそんなことを言ってきたので、むしろ逆だと思った葵は呆れてしまった。リンの態度は従者として正しいもので、彼女は悪く言われるようなことは何もしていない。だがジノクの目には、それが『融通の利かない硬い女』として映ってしまうようだった。

「ミヤジマ」

 ふと、それまで黙っていたアルヴァが話しかけてきたので、葵は窓辺を振り返った。

「何?」

「ちょっと外に出たいんだけど、歩き回っていいかどうか王子に聞いてくれる?」

「うん。分かった」

 アルヴァの申し出をジノクに伝えようとした葵は、再びノックの音が聞こえてきたことでそちらに意識を傾けてしまった。開かれた扉から姿を現したのはリンと、彼女が世話をしているという旅人。リンに続いて室内に入って来たその人物の姿を見るなり、葵とアルヴァは同時に目を見開いた。

「ユアン!?」

「アオイ!」

 奇遇すぎる再会にもさしたる驚きもなく、少年は葵の姿を認めると破顔して駆け寄って来た。さらさらの金髪に紫色の瞳といった容貌をしている彼の名は、ユアン=S=フロックハート。さらにはユアンの家庭教師であるレイチェル=アロースミスまでもが姿を現したため、二重に驚いた葵はユアンに抱きつかれた衝撃でよろめいてしまった。

「レイ……」

「久しぶりですね、アオイ」

 レイチェルはアルヴァと同じく金髪にブルーの瞳といった容姿をしている理知的な美女だ。彼女との再会は久しぶりのことだったのだが、アップスタイルにしている髪型も縁なしのメガネも、その身に纏う微かな硬質さも記憶の通りだった。唯一、彼女の服装だけが記憶と違っている。レイチェルは侍従達が着ている民族衣装のような長衣を身につけていて、よくよく見ればユアンも同じデザインの服を着ていた。

「な、何で二人がここにいるの?」

「其の方ら、知り合いなのか。それは奇遇だな」

 ジノクが口を挟んできたため、レイチェルの視線は彼の方に向けられた。すでに通訳慣れしている葵は自然とレイチェルとジノクの間に立とうとしたのだが、レイチェルは葵のフォローを待たずに口火を切る。

「ジノク王子ですね? はじめまして。わたくしはレイチェルと申します」

「そなた、この国の言葉が分かるのか?」

「はい。コミュニケーションの最たる手段は会話ですので、学んでまいりました」

 レイチェルは何でもないことのように言ってのけたが、他言語を習得するというのは並大抵のことではない。それはフロンティエールという国の特殊性を事前に理解し、さらには入念な下準備をしたうえでこの地にやって来たということであり、葵はレイチェルの完璧さに感嘆の息を零してしまった。レイチェルのことを評価したのは葵だけではなかったようで、彼女を見るジノクの瞳にも少し、熱が入り込む。

「そなた……美しいな」

「ありがとうございます」

「よし、余の部屋に招いてやる」

 レイチェルのみに着いて来いと言い置き、ジノクは席を立った。部屋と聞き、慌てた葵はジノクとレイチェルの間に割って入ろうとしたのだが、ユアンに袖を引かれて制される。レイチェルもまた涼しい表情でジノクと共に姿を消したが、ジノクの人となりを知っている葵は心配で仕方がなかった。

「大丈夫かなぁ」

「大丈夫だよ」

「でも、部屋に行くとか言ってたよ?」

「あれがそういう意味なんだとしても、レイなら大丈夫」

 ユアンがあまりにも自信満々に言い切るので、葵もそこで気にするのをやめることにした。レイチェルは心にゆとりのある大人であり、きっとこういう時の対処の仕方もきちんと心得ているのだろう。それがスマートに決まりそうなのがレイチェル=アロースミスだと思える辺り、彼女はやはり大物だ。そんなことを考えていた葵はハッとして、すっかりその存在を失念していたアルヴァを振り返った。






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