紫陽花の陰

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 アルヴァとレイチェルは姉弟だ。しかしただの姉弟ではなく、少なくともアルヴァの方にはレイチェルに対して何か特別な感情がある。そのためレイチェルがジノクに連れて行かれたことや、ひいてはこの再会自体が、彼にとっては好ましくないものなのではないか。葵のそうした考えを肯定するかのように、振り向いて見たアルヴァの顔には恐ろしいほどの無表情が張り付いていた。

「アル」

 空気が読めていないのか、それともわざとなのか。ユアンが場違いなまでに明るい声で呼びかけたので、葵は一人で戦々恐々としてしまった。やはりと言うべきなのか、アルヴァはひらひらと手を振っているユアンに応えようとしない。無言のまま歩き出した彼はすれ違いざまに素の口調で「仕組んだな」と呟き、一人で去って行ってしまった。

「めちゃくちゃ怒ってる……」

 葵はアルヴァと行動を共にすることが多いが、その葵でさえ、あれほどまでに怒りを露わにしているアルヴァを見たのは初めてのことだった。しかしアルヴァが怒ることなど承知の上だったのか、ユアンはケロリとしている。

「気にしなくていいよ。レイが戻ってくれば元の……というか、体裁を取り繕ったアルになるから」

「あ、やっぱり、レイの前でも猫かぶってるんだ?」

「そっか、アオイはまだアルとレイが話をしているところを見たことがないんだったね」

「うん……。でも、本当に一人で大丈夫かなぁ?」

 事前準備の完璧なレイチェルやユアンと違い、アルヴァはフロンティエールの言葉が分からないのだ。葵がそのことを伝えると、それまでアルヴァの様子をまったく気にしていなかったユアンは少し表情を曇らせた。

「そっか、アルはフロンティエールの実態を把握していなかったんだね」

「実態?」

「アルがこの国の言葉を理解出来ないでいるのは、魔法が使えると思ってたからだよ。そうじゃなきゃ、僕達のようにちゃんと準備してから来ただろうから」

「ああ……魔法を使えない人がいる国と、魔法を使うことが出来ない国の違いってやつね」

「プライド、傷つけちゃったかな」

 今さらながらに気遣う表情になったユアンは、独白を零すとアルヴァが去って行った扉に目をやった。アルヴァのプライドについて、問い質していいのかどうか判断に困った葵は無言でユアンの視線を追う。会話が途切れたことが逆に迷いを明らかにしてしまったようで、ユアンは苦笑いを浮かべながら葵にソファーへ座るよう勧めた。

「ア……っと、魔法は使えないんだったね」

 いつもの癖が出てしまったのか、呪文を唱えようとしたらしいユアンは自身の行動を自分で否定すると再び苦笑した。彼はおそらく、紅茶を淹れる『アン・テ』という呪文を唱えようとしたのだろう。そこまで察しのついてしまった葵もユアンにつられて乾いた笑みを浮かべる。

「レイってさ、アオイの目にはどんな人に映ってる?」

「レイ?」

 室内に水差しがあったので、ユアンがガラスのコップに注いだ水を渡してくれた。それを受け取りながら、葵は質問の意図に考えを巡らせる。

「カッコイイなぁと思う」

「どんなところが?」

「美人だし、頭いいし、やることなすことソツがなくて、完璧な感じがするところかな。でも不思議と冷たく感じないのは何でだろう?」

「それはたぶん、アオイが今挙げたような姿がレイの自然体だからだよ」

「そんなの、完璧じゃん」

「うん。実際、レイはそんな人だから」

 非の打ち所がない、完璧な人間。そんな人間は存在しないと分かっていても、レイチェルを見ていると理想を体現している人物がいるかのように思えてしまう。一番彼女の近くにいるユアンでさえそう思うのなら、二度しか顔を合わせたことのない葵の思いはひとしおだ。

「はあ……やっぱりレイってすごいんだね」

「やっぱり?」

「いろんな人からレイのウワサ聞いたけど、ぜんぜん尾ひれがついてない感じ。それって普通、有り得ないでしょ」

 一人歩きをして尾ひれがつくのが噂というものである。しかしレイチェルに関する噂はどれも、彼女の偉大さを正確に表しているかのように思えるのだ。そんな人物が身内にいたらと、葵は密かにアルヴァの気持ちを想像してみた。自慢となるかコンプレックスとなるかはその人次第だが、いずれにしても無視することは出来ないだろう。複雑な思いを抱いてしまうのも、無理もないことなのかもしれない。

「ユアンが前に、アルはレイにコンプレックス持ってるって言ってたじゃん? あの時は分からなかったけど、今なら少しアルの気持ちが分かるような気がする」

「アルは、レイの前では完璧でありたいんだよ。いや、完璧じゃなきゃいけないって思ってるのかな」

「完璧じゃなきゃいけない?」

「うん。昔、色々あったみたいでね」

「何が、あったの?」

「それは、僕の口からは言えない。知りたかったらアルかレイに聞いてみなよ」

「あ、うん……」

「アルは、たぶん答えてくれないと思うけど」

「……私もそう思う」

 おもむろに嫌そうな表情をするアルヴァの顔が目に浮かんだ葵は、ユアンに応えながら苦笑いを浮かべた。ユアンも同じ顔を想像したのか、彼もつられるように口角を持ち上げる。顔を見合わせた葵とユアンはどちらからともなくアルヴァの話を切り上げ、そのまま雑談へと移行した。

「そういえば、何でユアンとレイがここにいるの?」

「ちょっと調べ物をしに来たんだ」

「調べ物?」

「うん。フロンティエールのヒミツをね」

「ひみつ……」

 何だかワクワクする単語が出てきたと思った葵は密かに胸を躍らせた。秘密と聞いて葵が連想したのは事件や隠し財宝といったものだったのだが、どうもそういった類のものではないらしい。ユアンとレイチェルがフロンティエールで魔法が使えない原因を調査しているのだと聞いて、密かな期待を裏切られた葵はガッカリした。

「なんだ、そういうこと」

「興味ない?」

「うーん、なくはないけど……」

「この調査が無事に終われば、もしかしたらアオイにも自然属性の魔法が使えるようになるかもしれないよ?」

 それはもしかしたら、単に気を引くための軽口だったのかもしれない。しかし葵が『すでに自然属性の魔法を使ったことがある』と明かすと、ユアンは表情を一変させた。

「何で? どうやったの?」

 葵が自然属性の魔法を使えないことは、ユアンとレイチェルの前ですでに実証されている。葵はもともと自分の魔力というものを持っていないため何らかの魔法を使う際には他人の魔力を借りなければならないのだが、自然属性の魔法を使えなかった時と使うことが出来た時では一つだけ状況が異なっていた。それは消費する他人の魔力が体外にあるか、体内にあるかという違いだ。時折言葉に困りながら葵がその違いを説明すると、ユアンは驚いた様子で瞬きを繰り返した。

「アルの魔力を体内に入れたって……どうやって?」

 ユアンにそう尋ねられて初めて、葵は自分が地雷を踏んでいることに気がついた。他人の魔力を体内に取り込む方法はちょっと……いや、かなり、口外しにくいものなのだ。

「……この話、ここで終わりにしない?」

「え〜? ここまで話しておいてそれはないよ」

「じゃあ、ご想像にお任せしますってことで」

「生殺し!」

「とにかく、言いたくないの!」

「アオイがそういう気なら、勝手に想像するよ?」

 ユアンの最後の一言が不穏で、葵は恐る恐る逸らしていた視線を彼に戻した。何を想像しているのかは分からないが、ユアンは冷やかすような笑みを浮かべている。

「もしかしてアオイ、アルとあんなこととかこんなこととかしちゃったの?」

「な、何それ」

「だって他人の魔力を体の中に入れるなんて、普通の方法じゃ出来ないもん。そっかぁ、それでアオイはアルとお互いをよく知る仲になったんだ?」

「変な言い方しないでよ! キスしただけだってば!」

 思わず本当のことを口走ってしまってから、葵は自分の口元を手で覆った。まんまと情報を引き出したユアンはいやらしい笑みを消し、目線を泳がせて何やら考えこんでいる。しばらくすると質問攻めが始まったため、葵は自分の単純さを呪いながらユアンの話に付き合った。






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