紫陽花の陰

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 広々とした脱衣所で高等学校の制服を脱いだ葵は体にタオルを巻きつけ、湯けむりが立ち上る風呂の縁に立っていた。王宮の風呂はプールのような大きさがあり、水面には色とりどりの花弁が浮かべられている。あまりに広すぎてどこにいればいいのか分からなかった葵は、とりあえず最初に浸かった場所で腰を落ち着けた。

(気持ちいい〜)

 海から内地へ遡ってきたため髪も肌もべとついていて、実はずっと風呂に入りたいと思っていたのだ。念願叶って浸かった風呂がアロマバスとくれば、これはもう夢心地に近いものがある。湯けむりと共に立ち上ってくる仄かな香りに身も心も癒された葵は、一人きりということもあって湯の中で肢体を投げ出した。

 レイチェルはジノクと、アルヴァは一人で姿を消してしまってから、葵は延々と続くユアンからの質問攻めと闘っていた。そんな状況から救い出してくれたのは侍従長のリンで、彼女は葵に食事前の入浴を勧めてくれたのだ。これ幸いと話を切り上げた葵はさっそく風呂へと向かい、今に至るというわけである。

 しばらく贅沢なバスタイムを満喫していると、やがて誰かが進入して来た。すっかり油断していた葵はずり落ちたタオルを慌てて引き上げ、物音がした方を振り返ってみる。周囲に薄っすらと湯けむりが漂う中で映し出された人物の姿に、葵は驚いて目を丸くした。入って来たのはレイチェルだったのだが、彼女は湯の中でもタオルを巻きつけている葵と違い、惜しげもなく肌を露出している。しかし葵が目を奪われたのは彼女の見事なプロポーションにではなく、もっと別の異様なものだった。

「隣、よろしいですか?」

 こちらに気付いたレイチェルが寄って来たので、葵は目のやり場に困りながら頷いた。だが本人は気にしていないらしく、レイチェルは眉一つ動かさずにゆっくりと湯船に浸かっている。尋ねるのも躊躇われたので気にしないことにしようと思ったものの、葵はついついレイチェルの方へ目をやってしまった。

「この体が、気になりますか?」

 ついにはレイチェルの方から問われてしまったため、葵は素直に関心があることを認めて彼女に向き直った。するとレイチェルは、全てを曝け出すかのように葵の目前で立ち上がってみせる。同性の目から見ても惚れ惚れするような、均整のとれた体。しかし、陶器のような質感を予感させる彼女の白い肌には、あまりにもくっきりと荊の刻印が刻まれていた。どうやら背中に起点があるらしい荊は胸の辺りにまで達していて、その様はレイチェルの体を拘束しているかのようだった。

「これ……タトゥー?」

「それがどういったものなのかわたくしには分かりませんが、これは禁呪に手をつけた者が負う、罰です」

「きんじゅ? ばつ?」

「禁呪とは、何らかの理由によって封じられている魔法のことです。その封印を解くことが出来れば魔法を蘇らせることが出来るのですが、失敗するとこういうことになるのです」

 過ちが消えない傷として体に刻まれたものがこの荊なのだと、レイチェルは淡々と説明を加える。さらに詳しく話を聞くと、この荊は常にレイチェルから魔力を搾り取っているのだということが分かった。今の彼女の魔力は罰を受ける前に比べると半分程度にまで減少してしまっているらしい。

「わたくしからもアオイにお願いがあるのですが、よろしいですか?」

 話が一段落して湯の中に戻ったレイチェルが不意にそんなことを言い出したので、葵は首を傾げた。

「何?」

「体を、見せていただけませんか?」

 思わぬ申し出に葵は狼狽したが、すぐに彼女の真意を察して表情を改めた。

「もしかして、召喚獣の証?」

「アルヴァから聞いたのですね」

 レイチェルが頷いたため、葵は「やっぱり」と胸中で呟いた。異世界の者である葵は、この世界では『召喚獣』と呼ばれる存在である。召喚獣には必ず世界の狭間を通ってきた者の証が刻まれていて、葵の体にもそれがあるのだ。しかし場所が場所だけに、葵は躊躇した。だがレイチェルは、先に自分の秘密を教えてくれているのである。他人の秘密だけしっかり聞いておいて自分は見せないというのも気が引けると思った葵は、そこであることに気がついた。

(もしかして、初めからそのつもりで……?)

 初めから葵に体を見せてくれと言うつもりで、レイチェルは自分の体をタオルなどで隠してこなかったのではないだろうか。もしそうだとすれば、それは誠意を見せたという風にもとれるし、非常に強かであると見ることも出来る。どちらにせよ凄いと思いながら、葵はおずおずとレイチェルに背中を向けた。全てを見せてしまうのは恥ずかしかったので、タオルを移動させながら何とか背部だけを露出する。それでも、臀部でんぶの辺りにある証を見せるために立ち上がると、空気の冷たさと羞恥心が身に染みた。

「も、もういい?」

 とても黙っていられなかったため、葵は立ち上がって早々に声を発した。レイチェルの許しを得てタオルを巻きなおした葵は、肩まで湯に浸かってホッと一息つく。

「証が体のどこにあるのか、知っていたのですね」

「う、うん。場所が場所だから自分では気がつかなかったんだけど、アルが……」

「アルヴァも知っているのですか?」

 問いかけてきたレイチェルの声音に意外さが含まれているような気がして、葵は自分の発言が持つ意味に気がついた。それはアルヴァの前で裸になったことがあると言っているのも同然であり、真っ赤になってしまった葵は慌てて言葉を重ねる。

「ち、違うの。変な意味じゃなくて、えっと、校医として手当てしてもらったっていうか……」

 支離滅裂な葵のフォローを、レイチェルはキョトンとした顔で聞いていた。彼女が変に勘繰ったり、ましてや葵とアルヴァの関係を問い質そうなどとは思っていないことを知った葵は、頭から蒸気を立ち上らせそうになりながら浮かしかけていた腰を沈める。勝手に勘違いをして慌てまくってしまったことが、恥ずかしくて仕方がなかった。

「そ、そういえば、大丈夫だった?」

 沈黙に耐えられなかった葵が強引に話題を変えると、レイチェルは発言の真意が読めなかったようで首を傾げた。

「大丈夫とは、何のことでしょう?」

「王子に連れて行かれてたから。変なこととかされなかった?」

「ええ。そのようなことは何も」

 あくまで淡白に受け応えるレイチェルの言葉に嘘はないだろう。しかしジノクの本性を知っている葵には、彼が何もしなかったということが信じられなかった。

「あの王子、女は全部自分のものだと思ってるんだよ。そんな人がレイを口説かなかったなんて信じられない」

「ベッドを共にしようと、誘われはしましたね。ですが丁重にお断りしました」

「……信じらんない」

 出会ってすぐの女を私室へ引き込み、さらには肉体関係まで求めてくる。道徳や倫理観といったものとは少し違った観点からだったが、葵はジノクの軽率な言動をサイテーだと非難した。

「でも、そんな状況でよく逃げ出してこれたね?」

 自分が同じ立場に立たされたらと考えると、葵にはうまく逃げ出す手段が思いつかなかった。だがレイチェルは何でもないことのように、要は相手をその気にさせなければいいだけの話だと言う。

「その気にさせない? って、どうやるの?」

「時と場合、個人によっても対応は異なりますが、ジノク王子を例に挙げてお話しいたしましょうか?」

「うん。聞きたい、聞きたい」

 葵が興味津々といった顔をすると、レイチェルは講義でもするかのように丁寧で分かりやすい説明を加えてくれた。彼女の話によると、ジノクは女性を口説くにあたってムードを重視するタイプにあるらしい。そういった相手には甘い顔を一切見せず、わざと政治や経済といった色恋沙汰とは縁遠い話を延々と、しかも一方的にするといいと、レイチェルは言う。

「相手が何を望んでいるのかを見極め、それと間逆のことをすれば、大抵の男性はそういう気概を失います」

 レイチェルの講義は非常に分かりやすくはあったが、それを実行するには鋭い観察眼と、的確な判断を下せる選択能力と、判断を素早く行動に移せる瞬発力が必要だ。あわよくばテクニックを盗もうと考えていた葵は、自分にはとても無理なことを察して苦笑いを浮かべた。

(やっぱレイ、そうとうモテてるんだなぁ)

 彼女ほどの大物にもなると付き合い上のことも多いのだろうが、それにしても駆け引きに長けている。レイチェルのような人物が心を許す異性は、どんなタイプなのだろう。ふとそんなことを思った葵は、何故かアルヴァの顔を思い浮かべてしまった。

「間もなく夕食です。そろそろ上がりましょう」

 疑問を口にする前にレイチェルが上がってしまったので、葵はけっきょく彼女のタイプを聞き逃してしまったのだった。






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