不意に、一人だけ逃げるのをやめたユアンがこちらを振り返った。彼の唇は忙しなく動いていたが、アルヴァは構わずに距離を詰める。もう間もなく手が届く距離まで近寄ると、アルヴァは大きく一歩を踏み込んだ。しかしユアンも同タイミングで後方へジャンプしたため、アルヴァが伸ばした手は空を切る。そこまで読んでいたアルヴァは体勢を立て直すと同時に地を蹴り、後方へ向かって倒れこむユアンの体を間一髪のところで抱きとめた。
「あ、あれぇ……?」
何か予想外のことが起こったようで、独白を零したユアンはしきりに瞬きを繰り返している。何が彼にとっての『予想外』なのか、そこまで把握しているアルヴァは乱れた呼吸を整えてから言葉を紡いだ。
「魔法は、使えませんよ」
「ああっ! そうだった!!」
癖とは恐ろしいもので、とっさの判断を迫られたユアンは呪文の詠唱をしていた。もしユアンが魔法を発動させていれば、後方にジャンプした彼の体はそのままフワリと宙に舞っていたことだろう。しかし風を身に纏うことが出来なかったユアンは、重力に従って倒れこんでしまった。その無防備な体勢が非常に危険だったため、アルヴァは彼の体を抱きとめたのだ。
「くやしい! 逃げきれると思ったのに!」
アルヴァにスライディングキャッチをされるまで本当にそう思っていたようで、体を起こしたユアンは地団駄を踏んだ。まだ床に座り込んだままでいるアルヴァは、スライディングの摩擦でヒリヒリと痛む腕を見下ろす。皮がむけて、腕は真っ赤になっていた。
「アル、大丈夫?」
「大したことありませんよ。行きましょう」
ここまで盛大な擦り傷をつくるのは久しぶりのことで、本当はかなり痛かった。口では大丈夫だと言ったがユアンにもそれが伝わってしまったようで、彼はシュンとしながら後を着いて来る。
「ごめんね。僕が後ろにジャンプしなければアルがケガすることもなかったのに」
「頭では理解していても、習慣はそう簡単には抜けませんよ。僕もまだ、目覚めるとつい呪文を口にしてしまいます」
「アン・テ?」
「はい。紅茶が恋しいです」
ゼロ大陸での主飲料は紅茶だが、フロンティエールでは真水を飲む習慣がある。個室には水差しが置いてあるので水分補給には困らないが、やはり生活習慣が違う場所に滞在すると慣れ親しんだものが恋しくなったりするものだ。ユアンも同じ経験をしていたらしく、彼は苦笑いを浮かべることで謝罪を切り上げた。
「アルがあんなに足が速いなんて知らなかった。あの速さは反則だよ」
「歩幅の違いですよ」
冗談半分に応えるとユアンが喚き出したので、アルヴァは一瞬だけ意地の悪い笑みを浮かべてから真顔に戻り、捕まえたドロボウを牢屋へと連行した。
ユアンと別れてから、葵は前だけを見てひたすらに走り続けた。もう息が続かないというところまできて初めて歩調を緩めたのだが、一度立ち止まってしまうともう動けない。幸いなことに鬼の姿はなかったが、時間を稼ぐために一人で残ったユアンも追いついて来なかった。
(捕まっちゃったのかな……)
身を挺して護ってくれたユアンに申し訳ない気持ちを抱きながらも、葵はまた歩き出した。とにかく今は、捕まっている仲間を解放しなければならない。それがユアンへのせめてもの報いだ。
(……頑張ろう)
一人きりになって心細いが、ここは踏ん張りどころだ。そう自分に言い聞かせた葵は歩調を速めようとしたのだが、不意に柱の影から伸びてきた手に腕を引かれてしまった。
「っ!」
捕まった。もうダメだ。そんな考えが脳裏をよぎっていったが、葵を柱の影に引きずり込んだのは鬼ではなかった。
「汗だくだな」
自分は涼しい表情をして、そう言ってのけたのはジノクだった。彼が複数の鬼に追われている場面を目撃している葵は驚きに目を見開く。
「捕まったんじゃなかったの?」
「侍従に『お願い』して逃げて来た」
ジノクがあっけらかんとルールを無視したことを明かしたので、葵は別の意味で驚いてしまった。呆けている葵を胸に抱きとめたまま、ジノクは淡白に言葉を重ねる。
「このゲームは楽しいな。次は追う方をやって、女共に悲鳴を上げさせてみたい」
ゲームの趣旨とは異なるところに楽しみを見出したらしいジノクが、真面目な顔で変態的な発言をしている。ユアンやレイチェルの真剣さに引きずられていつの間にか本気になっていた葵は、張り詰めていた気持ちが一気に瓦解していくのを感じた。これがただのゲームに過ぎないことを改めて認識すると、今まで感じていた緊張が途端に笑いへと変わっていく。自分やユアンの真面目くさった会話が今さらながらにおかしくて、葵は一人で吹き出してしまった。
「あはははは!」
「な、何故笑う?」
「ご、ごめ……おかし……」
次から次にこみ上げてくる感情を抑えきれなくて、葵はジノクの胸に縋るようにしながら笑い続けた。久しぶりに腹がよじれるほど笑った後、落ち着きを取り戻した葵は目尻に浮かんだ涙を拭う。
「こんな、本気で遊んだのなんて久しぶり。あ〜、楽しい」
「そ、そうか? そちが楽しいのならば良いのではないか」
「うん。付き合ってくれてありがとね」
「……そなたは、よく分からぬ女だな」
今は不可解そうな面持ちになっているジノクの反応すらもおかしくて、葵はまた吹き出しそうになってしまった。しかし、いつまでもここでのんびりしているわけにはいかない。まだゲームは終わっていないのだ。
「私、行くね」
「どこへだ?」
「牢屋。捕まってる仲間を助けないと」
「もうじき昼になる。このまま捕まらなければ余の勝ちになるのではないのか?」
「ズルして勝っても面白くないでしょ? 勝負は真剣だから楽しいんだよ」
ドロケイをやろうという突然の提案を快く受け入れてくれて、発案者である葵以上に真剣になってくれたユアンのためにも、ここは一つ有終の美を飾りたいところだ。闘う相手がレイチェルとアルヴァという最強コンビなので抜け目はなさそうだが、それでも、何事もチャレンジしなければ始まらない。
「じゃ、行ってくるね」
立ち上がった葵はジノクに軽く手を振って、踵を返そうとした。しかし彼女が歩き出すよりも先に、ジノクが再び葵の手を引く。何事かと振り向いた瞬間に頭を引き寄せられて、葵はそのままジノクと口唇を重ねた。
理解も対処も追いつかず、されるがままになっていた葵はジノクが口唇を離したことで我に返った。しかし抵抗する間もなく、ジノクは葵を胸に引き寄せる。耳元で囁く低い声にゾクリとした葵は慌ててジノクの胸を押し返そうとした。
「離して!」
「嫌だ! 余はそなたが欲しい!」
耳元で囁かれたのと同じ科白が、再びジノクの口唇から紡がれる。どういう意味だと胸中で疑問を投げかけた葵は、そういう意味かと自分で答えを見つけてさらに戸惑った。
「何で、急にそんなことになるの?」
葵が抵抗をやめて問いかけると、ジノクも少し腕の力を緩めた。しかし拘束は解かないまま、ジノクは問いかけにも答えようとしない。少し待ってみても返事が返ってこなかったので、葵は小さく息を吐いた。
「とにかく、離して?」
「嫌だ」
「こんなところ、誰かに見られでもしたら……」
危惧した葵が視線を泳がせると、ちょうど通りかかった侍従と目が合ってしまった。頭に色布を巻いていないので、ゲームの参加者ではない。しかし葵は、彼女の顔に見覚えがあった。まずい人物に見られたのではないかと思った刹那、手にしていたバスケットを取り落とした侍従から怒りの声が上がる。
「王子!!」
顔を真っ赤にして怒っているのは侍従長だというリンという女性だ。葵と王子だけでなくドロケイの参加者達はその後、王宮内を走り回っていたことも含めて侍従長からこっぴどく叱られてしまったのだった。
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