水の都に月が昇っていた。常に二つの月が夜空にあるこの世界では珍しい単色の月は炎のような紅で、王宮の景観を静かに染め上げている。フロンティエールの王宮へ来て、二度目の夜。昨夜はこの月明かりの下で散策していたが今日はテラスへ出られるガラス戸を開かないまま、葵は外の風景を眺めていた。そのうちに、背後で音がしたので振り返る。まるで忍んで来たかのように控えめに扉を開けて姿を現したのは、この国の王子である黒髪の少年だった。
ジノクが訪ねて来るかもしれない。そう予想していた葵は、特に驚きもなく彼を迎えた。葵が意外にもどっしりと構えていたためか、ジノクの方にこそ動揺の趣がある。キングサイズのベッドが置いてある部屋の奥からテーブルなどがあるスペースへと移動してきた葵はジノクにソファーを勧め、自身は彼と向かい合う形で椅子に腰を落ち着けた。
「昼間のアレ、説明してくれるんだよね?」
「説明も何もない。あのとき言ったことが全てだ」
ジノクから返ってきたのは説明になっていない答えで、葵は深々と嘆息する。
「説明する気がないなら何しに来たの?」
「決まっておるだろう? そなたを余のものにするために来たのだ」
ジノクに言わせてしまってから、葵はハッとした。余計な一言だったと悔やんでももう遅く、ジノクは目つきを変えている。野蛮な空気を醸し出す彼は今にも飛び掛ってきそうだったが、葵は深呼吸をして気分を落ち着けた。
(冷静に、冷静に)
相手をその気にさせない。レイチェルから教わったことを胸中で繰り返してから、葵は努めて冷静に口火を切った。
「私は物じゃない」
「そんなことは分かっておる」
「分かってないよ。それに、昨夜私が言ったことも全然分かってないじゃん」
世の中にはスキンシップを嫌がる女もいる。葵は昨夜、ジノクにそのことを
「私は、触られるのもキスするのも、好きな人とじゃないとイヤなの」
「ならば余を好きになれ」
ジノクはそれが当たり前のことのように言ってのけたが、葵はあまりにも話が通じないことに頭を抱えてしまった。これはもう、傷つけようが何だろうがハッキリ言うしかない。オブラートに包みたいなどという甘い考えは捨て、葵は本心をストレートな言葉に乗せた。
「ごめん、無理。好きになれる要素が何もない」
「何も、ない……だと?」
「そりゃ、最初はカッコイイって思ったけど。性格は自己中心的だし、手は早いし、女なら誰でも良さげだし。何より、女は全員自分に惚れる的な考え方がすごくイヤ」
かなりキツイことを言っている自覚は、葵にもあった。さすがにストレートすぎたか、ジノクはショックを受けた様子で黙り込む。そういった表情をされると良心が痛んだが、ここで甘い顔をしてはまた付け込まれると思い、葵はあえて厳しい調子を崩さなかった。
「だから、あなたの物にはならない」
「……ならば、余が変わればいいのだな?」
「え……?」
「顔はこのままでいいのだな? あとは、性格か。ジコチュウシンテキとは、余のどういった部分のことを言うのだ?」
「ちょ……」
「余が他の女と戯れるのが気に入らぬと言うのなら、侍従も何も全て遠ざける。もう他に、女はいらぬ」
ここまで言われてしまえば、さすがに葵も考えを改めざるを得なかった。それでもまだ半信半疑に、葵は核心を確かめておこうと問いを口にする。
「もしかして本気、なの?」
「こんな気持ちになったのは初めてだ」
ジノクは俯いてしまっているため、彼がどんな表情をしているのかは分からない。葵が言葉を続けられないでいると、ジノクは不意に自分の頭を掻きむしるように髪を乱し始めた。突然の奇行に驚いた葵はビクリとして身を引く。自分で乱した髪を掻き上げて、手櫛で体裁を整えた後、ジノクは意を決したように面を上げた。
「そなたが、そなただけが欲しいのだ」
「だ、だって……そんなの心が狭いとか理解不能とか、散々言ってたじゃん」
フロンティエールでの妻帯は、基本的に一夫多妻制である。そのためこの国では王子だけでなく、彼を愛する女性達にも独占欲というものがない。だがジノクは、葵と関わりを持つうちにそれを覚えたのだという。人間一人の価値観をそこまで変えてしまうほどの何かをしたという自覚のなかった葵にはジノクの言葉がまだ信じられなかった。だがジノクは、葵が苦し紛れに言ったことも丁寧に拾い上げていく。
「確かにこの国では、男も女も一人に縛られることは少ない。余もそれが当然のことだと思っていた。だが、そなたの話を聞いているうちに気が変わったのだ」
「そ、そんな簡単に変わる気持ちなんて本気じゃないよ」
「だが余は、そなただけを愛したい、そなただけに愛されたいと思った。本気になったら別の者は見えなくなると、そなたが教えてくれた通りにな」
「そ、それは……」
確かに昨夜、葵はそんなようなことをジノクに言った。偉そうに説教をしてしまった手前、ジノクの『本気』を否定することは出来ない。そう察した葵は話の方向性を変えることにして、深呼吸をしてから改めて口火を切った。
「それが、何で私だったの?」
ジノクとは、まだ出会ってから数日しか経っていない。しかも好意を持たれるどころか、彼を不機嫌にさせてばかりいたのだ。価値観の違う『外』の人間が珍しくて惹かれているような気になっているのなら、その相手はレイチェルでも良かったはずである。そんなことを考えていた葵は、自分の発した問いがいかに愚問であったのかをジノクの一言で思い知った。
「気付いたら、そう思っていた」
恋の始まりなんて、そんなもの。ジノクが本当に本気なのだとようやく実感した葵は、もう真っ向から向かい合うしかない事態にあることをひしひしと感じた。
「本気でそう思ってくれるのは嬉しいんだけど……」
ジノクがどれだけ本気でも、彼の気持ちに応えることは出来ない。しかし葵が「ごめんなさい」と頭を下げても、ジノクは納得しなかった。
「アルのことを愛しているからか?」
「えっ……何でアル?」
「違うのか。ならば故郷に男がいるのだな?」
「いや、いないけど……」
「ならば問題はないではないか。明日にでも父上の元へ挨拶に行こう」
「ちょ……だから、ごめんなさいって断ったじゃん!」
「他の男を想っているのではないのなら、何が問題なのだ?」
「それは、えっと……」
一番断りやすく、また相手も納得しやすい理由は『元の世界に帰りたい気持ちがある』ということだが、それは話すことが出来ない。他の理由を考えた葵は彼が『王子』であることに目をつけて、そこから攻めてみることにした。
「私、王族とか貴族とかダメなの」
「余の身分が問題、ということか」
「うん。昔、身分の高い人に散々な目に遭わせられたことがあって。だから、ごめん」
話をしているうちに自然と過去の出来事を思い起こした葵は、ジノクと同じく漆黒の髪を持つ少年の姿を思い浮かべて苦笑いをしたい気分になった。貴族の権力を乱用して散々痛い目に遭わせてくれた彼は、今でも好きになれない。しかしまさか、彼がしでかしてくれたことが役に立つ日が来るとは思いも寄らなかった。
(やっぱりエリートはね、やだよ)
権力者と呼ばれる者に関わると、本当にろくなことがない。改めてそう思った葵はそこで話を終わらせようとしたのだが、ジノクはまだ納得してくれなかった。
「確かに、余が王子であるという事実は変えられぬ。だが悪い思い出など、余が塗り替えてやろう」
「えっ……」
「過去など思い出す暇もないほど、そなたを愛す。だからそなたも余を愛せ」
この殺し文句は、完全に不意打ちだった。すっかり自己完結させていた葵はストレートすぎるジノクの科白に動揺し、返す言葉にも詰まってしまう。葵が怯んだ隙を見逃さなかったジノクは素早く立ち上がり、逃がさないとでも言わんばかりに葵の体を抱きしめた。
「ちょっと……!」
昼間の構図が再現されてしまい、あの時は自力で抜け出すことが出来なかった葵は焦りを覚えた。そんな葵の考えを見透かしたかのように、肩口に触れているジノクの手に力がこもる。
「今は、これ以上のことはせぬ。だがそなたの心は、必ず手に入れる」
かなり一方的な宣言をするとジノクは葵を立ち上がらせ、その体をひょいと抱き上げた。葵も必死で抵抗したが、その甲斐もなく、抱え上げられたまま外へと連れ出されてしまう。ようやく下ろしてもらえた時には小舟に乗せられていて、遠ざかって行く王宮の眺めに葵は泣きたくなった。
「こーゆーところがジコチューだって言ってんのよ!」
大嫌いだと叫んでもジノクはちっとも動じず、流れに乗った舟は次第にスピードを速めていった。
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