水の都に朝が来た。水平線から顔を出した朝日はまだ完全にその姿を覗かせてはおらず、水面に半身を映しながらぼやけた光を放っている。日が歪んで見えるのは、フロンティエールという国に巡らされた水路から霧が発生しているからだ。朝霧は街並みを覆い隠し、街から少し離れた場所に聳える塔の姿も歪めている。三階建てに相当する塔の頂には部屋があり、その部屋の内部では黒髪の少女と少年が深刻な顔をして向き合っていた。
「帰る」
部屋の出口である扉へ向かおうとして、少年に制されてしまった少女の名は宮島葵。少年の方はこの国の王子で、彼は葵の腕を掴んだまま彼女の体を窓辺へと引きずっていった。
「見ろ。ここからの眺めは美しいだろう」
強引に顔を窓へと据えられ、葵は不機嫌極まりない表情で外へと視線を移した。朝霧にけぶる自然の風景は、確かに美しい。しかし一睡も出来ないまま埒の明かない押し問答を繰り返した後では、素直に感動することは出来そうもなかった。
「帰る」
何度目になるか分からない主張をして、葵はジノクに掴まれている腕を取り返そうとした。しかし力では敵うはずもなく、逆にジノクの胸元へと体を引き寄せられてしまう。
「離してよ!」
「そなたが逃げないと誓うなら、離す」
「逃げるに決まってるでしょ!」
ここへ来たのは葵の意思ではなく、むしろ彼女は拉致されたも同然に王宮から連れ出されたのだ。これでは怒るなと言う方が難しく、そんなことを平然とやってのける人物を好きになれと言われるのは拷問に近いものがあった。
「では、離すわけにはいかぬな」
「もう、本当に勘弁してよ。こんなことされて喜ぶ人がいると思うの?」
むしろ嫌われるだけだと、何故分からないのか。幾度目か分からない科白を繰り返してみても、ジノクはやはり聞き入れようとしない。もともとこの世間知らずの王子には一般論など通じないのだが、それでも葵は夜通し彼を諭そうとしてきた。しかし努力も虚しく、こうして好きでもない相手に抱かれながら朝を迎えることになってしまったのだった。
「日が昇ったか……」
ふと独白を零すと、ジノクはようやく手を離した。解放された葵が一目散に逃げ出すとジノクは反対の方向へ向かって歩き出し、扉に手をかけられる距離まで近付いたところで歩みを止める。
「そろそろ余は王宮に戻らねばならぬ。また夜に参るので、大人しく待っていてくれ」
「は……?」
思ってもみなかった展開が訪れて、葵は行動を起こすのが遅れてしまった。彼女が呆けている間に背を向けたジノクは、扉の隙間にするりと身を滑らせる。ジノクの姿が消えたことで我に返った葵は慌てて駆け寄ったが、すでに扉はロックされていた。
「……信じらんない」
拉致しただけでは飽き足らず、さらには放置プレイをしようというのか。冗談じゃないと憤った葵は思いつく限りの方法で扉を開けようと試みたのだが、一度閉ざされた扉が再び開くことはなかった。寝不足も手伝って色々と限界にきていた葵は、とりあえず室内に備え付けられているベッドへと向かう。頭と体を休めようと思って寝転んでみたのだが、こんな状況下では寝ようと思っても寝られるものではなかった。
(これからどうしよう……)
付き合ってすらいないのに、気が早すぎるジノクはもう葵と結婚するつもりでいるのだ。プロポーズに頷かなければ、このまま永遠に解放されないことも有り得る。だがあんな男と結婚するのだけは、絶対に嫌だった。だからといって、このままここに閉じ込められているわけにもいかない。開かない扉の他に出口がないかと思った葵は、ベッドを下りて室内を歩き回った。
塔の最上階に造られたこの部屋は十畳ほどの広さがあって、ベッドの他にも家具一式が置かれていた。隠し扉のようなものも考慮して棚の裏なども覗いてみたのだが、どうやらジノクが出て行った扉の他には出入口らしきものはないようだ。そうなると最終手段は窓しかない。幸いなことに格子などははめられていなかったため、葵は窓から身を乗り出して下を覗いてみた。
(……高い)
この高さはおそらく、高等学校の校舎の三階くらいだろう。下に川でも流れていれば決死の覚悟で飛び込んだかもしれないが、あいにく塔の周囲は地面だ。打ち所が悪ければ死んでしまうかもしれない。自分の考えにゾッとした葵は窓からの脱出を諦め、再びベッドへと戻った。
(助けを待つしかないかなぁ)
幸いなことに、王宮にはレイチェル=アロースミスやユアン=S=フロックハートがいる。もしかすると旅の同行者であるアルヴァ=アロースミスは助けに来てくれないかもしれないが、レイチェルやユアンがこの状況を知れば救出に来てくれるだろう。それまで待つしかなさそうだと思った葵はベッドに背中を預け、ため息を吐きながら目を閉じた。
(疲れた……)
葵はもともと、異世界の住人である。それがある日突然この世界へ連れて来られ、さらには帰れないという最悪の事態に陥っている。それだけでも理不尽すぎるのに、葵は周囲の都合で使えもしない魔法を学ぶ学校に通わされているのだ。そして今度は、旅先でのこの仕打ち。これはもう、何かに呪われているとしか思えない。
「あ〜! 帰りたいっ!!」
色々なことがありすぎて頭が爆発しそうになった葵はムシャクシャして大きな独り言を零した。当然、どこからも反応は返ってこない。そのはずだったのだが、目元を覆っている腕に何かが触れた。
(ん?)
体に違和感を覚えた葵は目を開けて、ベッドの上で体を起こしてみた。何かの感触があった辺りを改めて見てみると、いつの間にか掌に蛙が乗っかっている。あまりにも唐突で異常な事態の発生に、葵は頬を引きつらせたところで動きを止めてしまった。
(……カエルって、ヒゲなんか生えるんだっけ?)
雨蛙のような緑色をしているカエルの口元には、見事な逆への字の白髭がたくわえられている。それだけでも妙なのだが、カエルはその大きな目でもって葵に視線を向けてきた。その視線には確実な意思がこめられていて、我に返った葵はゾッとする。途端にカエルが気持ち悪く感じられて、葵は悲鳴を上げながら手を振り回した。しかし振り落とされる前にジャンプしたカエルは、そのまま器用に葵の頭へと移動する。
「おんしから雨の精霊の気配がしおる」
必死で手を振り回していた葵は頭上から聞こえてきた声にふと動きを止め、キョロキョロと辺りを見回した。しかしカエルは葵の頭の上にいるため、彼女がその姿を捉えることは出来ない。
「だ、誰?」
葵が問いかけると、カエルは彼女の頭の上からピョンと飛び降りた。再びカエルが視界に入ったことで、怯えた葵は身を引く。床に着地したカエルは葵を見上げていたが、やがてその目線は対等になった。
(浮いてる……)
床に座していた格好のまま、カエルが目の高さに浮いている。魔法の存在する世界では何かが宙に浮いていること自体は珍しいことではないのだが、ここはフロンティエールという魔法が使えない国なのだ。カエルがどうやって宙に浮いているのかは分からなかったが、その非現実的な光景は葵に冷静さを取り戻させた。この世界には普通の動物だけでなく、その身に魔力を宿している魔法生物というものが存在する。実際の魔法生物を知っている葵は、このカエルがそういった生物なのではないかと推測し、そして納得したのだ。葵の知っている魔法生物は直接的に人語を操ることは出来ないが、喋れる魔法生物がいても不思議ではない。
「今喋ったの、あなた?」
葵の問いかけに、カエルは口髭を揺らしながら答えてみせた。
「おんし、名は何と云う?」
「宮島葵。あなたは?」
「ミヤジマアオイ、それがバプティスマ・ネームか?」
バプティスマ・ネームとは真名のことである。宮島葵という名前が本名かどうかを問われているのだと理解した葵が頷くと、カエルはさらに言葉を続けた。
「おんし、ヴィジトゥールなのじゃな。モンド・ゥマンのハルモニエが悪さをしおったか」
「ヴィ……? ハルモニエ??」
カエルの口から次々と零れる単語に葵はすっかり困惑してしまった。この世界へ来て一年余りが経とうとしているが、カエルが言うような単語は聞いたことがない。
「あの、あなたは一体……」
「儂はモンド・ナチュルルの前ハルモニエじゃ」
個を表す名は持っていないので好きに呼べばいいと、カエルはしわがれた声で言う。空気を足場にしてピョンと跳ねたカエルが窓辺へ行ってしまったので、葵は慌てて後を追いかけた。
Copyright(c) 2012 sadaka all rights reserved.