葵の危機を知って慌てて部屋を飛び出した後、ユアンは王宮の廊下を走っていた。すでに王宮内の地図は頭の中で出来上がっているので、誰に道を尋ねなくても一人で目的地に辿り着くことが出来る。向かっている先は王宮の深部にある王子の居室だったのだが、そこへ辿り着く前にユアンは足を止めた。より正確に言えば、歩みを止めさせられたのである。首根っ子を掴まれて、易々と体を持ち上げられたユアンは宙に浮いた足をバタバタと動かした。これがゼロ大陸で起こった出来事であれば相手が距離を詰めてくる時に察知出来たし、捕まっても易々と逃げることが出来る。しかし魔法の使えないフロンティエールでは、ユアンには歳相応の子供と同じだけの抵抗しか出来ないのだ。
「人王、落ち着いて」
自分を捕らえた者から投げかけられた言葉に、ユアンはピタリと動きを止めた。抵抗をやめるとすぐさま下ろされたので、地に足が着いたところで背後を振り返る。そこに佇んでいたのはフロンティエールの民族衣装を身に纏った青年だったが、彼はこの国の者でないどころか人間ですらなかった。
「精霊王?」
「久しぶりだね、人王。君がモンド・ゥマンのハルモニエとしてお披露目された二年前の会議以来だ」
ハルモニエとは、世界から調和を保つ役割を与えられた者の称号である。モンド・ゥマンは人界を意味する言葉で、人界のハルモニエであるユアンは人王と呼ばれている。そしてユアンが対面している青年が
意外な人物との再会に、青年を見上げたユアンは彼の顔をじっと見つめた。今はフロンティエールの人間を模している彼の容貌は鋭さの漂う美青年といった感じで、切れ長の目とスッキリと整った顔のパーツが露わになる短髪がそのイメージを形作っている。精霊王が何故その容姿を選んだのかは分からないが、ユアンは率直な感想を述べた。
「その姿、イメージと違う」
「見えていれば問題ないだろう」
精霊が人間に『見せる』姿は、あくまでも仮のものである。本来ならば精霊王がそんな努力をしなくともユアンは彼と語り合うことが出来るのだが、この国では魔法だけでなく魔力に付随する感覚までもが封じられてしまっていて、話しかけられるまで彼が精霊王であることが分からなかった。精霊王の言うとおり『見せて』くれさえいれば問題はないのだが、どうせなら違和感がない方がいいと思ったユアンはいちゃもんをつけてみる。
「ダメだよ、全然イメージに合っていない。君の柔らかな物腰はもっと、ふわふわした感じの顔に似合うよ。大体、君だって若輩者のくせに一人前を気取っているのが気に入らない。子供にしてよ。どうせなら女の子がいいな」
「ふわふわした感じの女の子か……」
注文が多すぎると文句を言いながらも、精霊王はユアンの要望を聞き入れて姿を変えてくれた。現れたのは、フリルがたっぷりあしらわれたドレスを纏った少女。見るからに柔らかそうな薄桃色の髪は綿菓子のようにフワフワしていて、くりっとした大きな目はヴィクトリアン・モーブだ。十二・三歳だと思われる彼女はほわほわした雰囲気を有していて確かに可愛かったが、ユアンは慌ててしまった。
「それはダメ!」
「注文通りにしたつもりだけど?」
素直に要望を聞き入れたことこそが、実は精霊王の嫌がらせだったのだ。すっかりイタズラ心が萎えてしまったユアンが低姿勢で『お願い』すると、精霊王は仕方がないなぁと言いながらまた姿を変えてくれた。今度はユアンと同じ年頃の男の子で、丸眼鏡が柔らかな印象を演出している。それが彼の口調によく似合っていたが、ユアンはもう下手な感想を述べることはしなかった。
「ところで、何で精霊王がこんな所にいるの?」
「ここに、モンド・ナチュルルの前ハルモニエがいらっしゃるんだ」
「そうだったんだ? 知らなかったとはいえ、ここに僕がいるのも世界の導きだね。ご挨拶に伺った方がいいかな?」
「もう引退されたお方だから干渉は不要だよ。今は静かに、世界に還る時を待っておられる。私も出来るだけそっとしておきたかったのだけれど、どうも前ハルモニエが人間と接触されたみたいでね」
それで様子を見に来たのだと、精霊王は言う。愛らしい子供の顔が苦く歪んだのを見て、嫌な予感を覚えたユアンは眉をひそめた。
「その人間って……もしかして」
「人間と言うより、ヴィジトゥールだね。調和を乱したこと、私は黙っていてあげようと思っていたのだけれど、前ハルモニエにバレてしまった。どうする、人王?」
精霊王が口にした『ヴィジトゥール』とは、禁じられた召喚の魔法により異世界から招かれた者のことである。つまり、前精霊王の傍にいるのは葵ということだ。これで行方不明だった彼女の所在ははっきりしたが、ユアンは別の憂慮に顔を青褪めさせた。
「もしかして……怒ってらっしゃる?」
「それが、楽しげに話をしていらっしゃる。どうやら君が招いたヴィジトゥールは前ハルモニエのお気に召したようだよ」
「それなら良かったけど……このままってわけにもいかないよね?」
「あのヴィジトゥールは、この国の王子によって前ハルモニエの所へ連れて行かれた。ヴィジトゥールだけならばともかく、この件には人間が関わりすぎている。私達は手を出せないので、そちらで対応してもらいたい」
人間は精霊の力を借りて魔法を使うが、精霊は基本的に人間とは深い関わりを持たない。彼らが人界に干渉しすぎることは世界の調和を乱すことにつながるからだ。また人間が精霊に関与しすぎることも、調和が乱れる要因となる。それを抑制するのが人界のハルモニエであるユアンの使命なのだ。
「どのみちアオイをこのままにはしておけないし、何とかするよ。あ、彼女、ミヤジマ=アオイっていうんだけど、アオイは王子に操を狙われてるんだ。彼女の身に危険が及ばないようにだけ、お願い出来ないかな?」
「それくらいのことなら、いいよ」
「ありがとう。僕達は魔法が使えないけど、精霊は普通に動けるんだね」
「ここは、人間が魔法を使えないようにした場所だからね。精霊には影響がないんだ」
精霊王の話によると、やはりフロンティエールは国自体が一つの魔法陣を形成しているらしい。それはユアンがレイチェルやアルヴァと話し合っていた通りのことであり、これで仮説が実証されたことになる。しかし何のために、人間だけが魔法を使えない場所が作られたのだろう。ユアンがそうした疑問を口にすると、フロンティエールを作ったのは前ハルモニエなのだと精霊王が教えてくれた。
「精霊にとっての聖域、ということだね」
「人間が使う魔法は、どんなものであれ精霊に影響を与える。前ハルモニエがフロンティエールのような地を作ったのは、引退後を穏やかに過ごしたかったからなのかもしれないね」
そのささやかな願いを、護りたい。精霊王が独白のように胸の内を零したので、ユアンも彼の意見に同意してから話題を変えた。
「ところで、魔法陣の全容を教えてくれない?」
「君も懲りないね」
「調和を乱すような使い方はしないよ。だから、ね、教えて?」
「ダメ。これでも、私は怒っているのだよ?」
「何で?」
「君が召喚なんかしたせいで空に不調和が起きている。もうじき一年が経つというのに、まだ穴が塞がらないのだよ」
精霊王の言う『穴』とは、葵を召喚する時にユアンが開通した道のことだ。それが魔法を使ってから一年が経過しようとしている今になってもまだ塞がっていないと聞き、ユアンは目を見開いた。
「その道、まだ使えるの?」
まだ道がつながっているのであれば、葵を元の世界に帰してあげることが出来るかもしれない。ユアンはそう期待していたのだが、精霊王はすぐさま首を振った。
「確かに穴は開いているけれど、それがどこに繋がっているのか、こちらからでは分からない。もしかしたらどこの世界にも繋がらずに、世界の狭間で途切れているかもしれないのだよ?」
そんな状況で穴に飛び込むことは自殺行為に等しい。まして異世界の者を召喚する禁呪は、完全には復元されていないのだ。葵を召喚した時はたまたまうまく魔法が発動し、魔法陣の外に召喚してしまうという失敗を犯しても彼女は運良く無事だった。こんな奇跡のような出来事は二度と起こらないだろう。精霊王が淡白にそう言ってのけたので、何も言い返せなかったユアンは口唇を結んだ。
「……他に、何か方法はない?」
沈黙の後にユアンが口火を切ると、精霊王は意外そうな表情を見せた。
「一応、悪いことをしたという自覚はあるのだね?」
「うん。アオイには、本当に悪いことをしたと思ってる」
「それなら……」
言葉の途中で不意に、精霊王の姿が空気に溶けた。その後しばらくしてレイチェルが姿を見せたので、ユアンは「ああ……」と胸中で独白を零す。
「王子には会えましたか?」
レイチェルが尋ねてきたので、ユアンは気持ちを切り替えてから彼女の問いに応じた。
「閉じ込められているみたいだけど、アオイは大丈夫。僕達はとりあえず、調査を続けよう」
「それで、よろしいのですね?」
「うん。少ししたら王子の気が変わるかもしれないし、アオイが自力で脱出してくるかもしれない。帰る時になってもまだ同じ状況が続いているようだったら決断を下すよ」
「分かりました。では、調査に出掛けましょう」
特に異論もなくレイチェルが提案を受け入れたため、ユアンも葵の話題は切り上げて歩き出したレイチェルの後に従った。
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