フロンティエールの王宮を後にした葵とアルヴァは幾度か舟を乗り換え、二日ほどかけて外洋へと出た。そこからさらに半日ほど海を北上すれば、フロンティエールの隣国であるネイズの港町に辿り着く。港町からはまた船を乗り換えてゼロ大陸へと向かうので、帰還までにはまだ程遠い。それでも海の広大さが心を晴れ晴れとさせて、甲板へ出た葵は大きく伸びをした。
(気持ちいい〜!)
帆船は追い風を受けて進んでいる。頬を過ぎる風は湿気を含んだ重たいものだったが、それでも満身に風を受けるのは気分がいい。ふと水面へと視線を移した葵は、そこで見慣れないものを目にして眉をひそめた。海の中を、何かが走っている。船と並走しているそれを葵は魚かと思ったのだが、海面に顔を出したのはマーマンだった。ちなみに、葵がそれを『半魚人』だと認識したのは、生まれ育った世界で似た姿のイラストを見たことがあるからだ。
「ミヤジマ、少しいいですか?」
背後からアルヴァの声が聞こえてきたので、葵は驚きを引きずったまま振り返った。彼が傍にいることでホッとした葵は再び海面に目を落としてみたのだが、そこにはもうマーマンの姿は見られない。
「ねぇ、アル。この世界にマーマンっているの?」
「まーまん?」
「人間みたいな姿してるんだけど、鱗とかエラとかがある生物」
「魔法生物や召喚獣の中にはそういった姿をしている者がいるのかもしれませんが、僕は見たことがないですね」
「そう……」
精霊や英霊が実在するのだから、マーマンがいてもおかしいことは何もない。質問に答えるアルヴァの口調が冷静だったため、葵は改めて、自分が異世界にいるのだということを再確認した。
「遮っちゃってごめん。何?」
驚きに一区切りをつけたところで葵は話を元に戻そうとしたのだが、彼女の目はすぐに見開かれることになった。アルヴァの背後で、背中に羽を持った小人がダンスをしている。そんな光景を見てしまって、目がおかしくなったのかと思った葵はしきりに瞬きを繰り返した。
「ミヤジマ?」
「アル……私、何か変」
「僕もちょうど、そのことについて話が聞きたいと思っていたところです」
そう言うと、アルヴァは『葵が変だ』と思う理由について語った。その理由というのが葵の体から魔力が放出されているというもので、思い当たる節のあった葵はポンと手を叩く。
「そっか、フロンティエールを出たから魔法が使えるようになってるんだ」
マーマンやダンスを踊っている小人が見えたのも、同じ理由だとすれば納得がいく。彼らは、自在に姿を変えられるという何かの精霊だったのかもしれない。葵がそんな風に考えを巡らせていると、訝しげに眉根を寄せたアルヴァが思考に割り込んできた。
「ミヤジマ、今の独白はどういう意味ですか?」
「ちょっと、閉じ込められてる間に色々あって」
「詳しく聞かせて下さい」
アルヴァが詳細に言及してきたので、葵はいったん口を噤んで考えを巡らせた。
フロンティエールで塔に幽閉されている時、葵は元精霊王だという白髭のカエルと知り合いになった。そのカエルが力を与えてくれたおかげで、葵は自らの力だけで魔法を使えるようになったのだ。アルヴァが知りたがっていることを説明するには、カエルの話を出さないわけにはいかない。しかし彼は葵が一人でいる時にしか姿を見せず、塔に誰かが来ると隠れるように姿を消してしまっていたのだ。このことから、カエルが人目を忍んでいたのだと推察されるが、彼の正体や分け与えられた力について口外するなとも言われていない。悩んだ末、アルヴァには話しておいた方がいいだろうという結論に達した葵は、泳がせていた視線を彼に戻した。
「アル、ハルモニエって知ってる?」
「もちろん、知っています」
「その、ハルモニエだったっていうカエルに会ったの」
葵がカエルのことを明かすと、アルヴァは劇的なほどに涼しい表情を消し去った。それは葵が見た中でも一番の驚きで、あ然としてしまっているアルヴァに葵もポカンとする。先に我に返ったのは葵の方で、彼女は未だ呆けているアルヴァの顔の前で手を上下させてみた。
「アル? 大丈夫?」
ハッとした表情を見せたアルヴァは真顔に戻ると、葵に少し待てと言い置いてから唇を結んだ。その直後、空気が振動しているような違和感を察知した葵は、初めての感覚に驚きながら空を仰ぐ。違和感の正体は文字通り『空気の移動』で、それまで自然の空気があった場所に空気ではない何かが手を伸ばしてきていた。
(何これ)
その光景はまるで、点画の一点に意識を集中しすぎているような眺めだった。ついさっきまで『物体』として捉えていたものが、今は粒子の集合体にしか見えない。逆に平素は目に見えない空気までもが粒子によって物質化されていて、人間や物との境界線を非常に曖昧なものにさせていた。そうした風景を見慣れていない葵は前後不覚に陥りそうになり、慌てて瞼を下ろす。幾度か頭を振ってから目を開けると、物の輪郭はいつもと同じに戻っていたのだが、それとはまた違った異変が目についた。
「これって……もしかして、アルの魔力?」
ちょうどアルヴァと葵を囲うようにして、シャボン玉のような淡い膜が張られている。葵がそれを指差しながら問うと、アルヴァは表情に険しさを滲ませながら頷いた。
「へ〜、アルの魔力ってこんなだったんだ? キレイだね」
「うまく魔力を固定できてないから触るな」
薄膜に手を伸ばしかけた葵を制すると、アルヴァは肩から吊っている自身の腕を見下ろして忌々しげな表情を浮かべた。どうやらその怪我のせいで、いつもの調子で魔法が使えていないらしい。アルヴァからいつになくピリピリとした空気が発されているのを感じ取った葵は、大人しく腕をマントの中に引っ込めた。
「それで、ハルモニエに会ったというのはどういうことなんだ」
「どういうって……閉じ込められてる時に、たまたま」
「ハルモニエというのは世界の調和を護る特別な存在だ。しかもカエルの姿をしていたということは精霊だろう」
そんな人物が何の理由もなく人間の前に姿を現すはずがない。アルヴァがそう力説するので、葵は『元・ハルモニエ』だということを強調した。しかしアルヴァは、元だろうが現役だろうが、そんなことは問題ではないのだと言う。
「ミヤジマに姿を見せたのには何か、理由があったはずだ。それも、相当に特別な何かが」
「理由ねぇ……」
元精霊王だというカエルは幽閉されていた時の葵と同じで暇を持て余していた。ただ話し相手が欲しかっただけなのではと葵は思ったのだが、そう言ってみたところでアルヴァは納得しそうにない。他の理由を考えていた葵はふと、カエルがユアンのことを語っていたのを思い出した。
「私がユアンと知り合いだったからじゃない?」
「ユアン? 何故、そこでユアンの名前が出てくる?」
「ユアンじゃないなら、レインのことじゃない?」
「ちょっと、待って」
そこで一度話を止めると、アルヴァは少し間を置いてから話を再開させた。
「レインというのは誰のことだ?」
「覚えてないの? ワケアリ荘で会ったじゃん」
ワケアリ荘というのは葵が以前に住んでいたアパートの名前で、レインという少女はワケアリ荘の住人の一人である。葵がレインの容姿を説明すると、アルヴァはそれでようやく納得がいったようだった。どうやら彼女と会ったこと自体は覚えていても、名前を覚えていなかったらしい。レインという名前の由来を知っている葵は少し複雑な気持ちになりながら言葉を重ねた。
「レインってユアンがつけた名前だったんだって」
「アッシュやマッドというのもそうだろう?」
アルヴァが『何を今さらなことを』といった表情をしているのは、ワケアリな人達ばかりが集っていたアパートでは、本名を明かさないことが通例だったからだ。アルヴァが話題に上らせたアッシュやマッドもワケアリ荘の住人で、その名は本名ではない。しかし葵が言っているのは、そういうことではないのだ。葵がカエルから聞いた『レイン』という言葉の意味を説明すると、アルヴァは興味深げなまなざしを向けてきた。
「なるほど。それで『レイン』か」
「レイン、今頃どうしてるかな」
ワケアリ荘がなくなってしまった今、あのアパートに住んでいた者達も散り散りになってしまっているだろう。月夜にアパートの屋根でレインや管理人と語らったことを思い出しながら空を仰いだ葵は、懐かしさと物悲しさに少し胸をきしませた。そこへ、アルヴァが思ってもみなかった科白を投げかけてくる。
「雨の精霊は世界に還ったよ」
「世界に帰る……」
それは、元精霊王だというカエルも言っていたことだ。世界に還るということが具体的にどういうことなのか分からなかった葵は、その疑問をアルヴァにぶつけてみた。するとアルヴァは、少し悩むような間を置いた後で説明を始める。
「人間側から見ると消滅、ということになるのかな」
「死んじゃったの!?」
「役目を終えることはあっても、精霊に『死』という概念はないと思うよ。彼らには肉体ってものがないし、世界が必要だと判断すれば蘇ることもあるらしいから」
だが精霊が世界に還るということは、人間の観点で見ると死別と同義らしい。もう二度と、レインに会うことは出来ないのだ。そして元精霊王も、間もなくその時を迎えるのだと言っていた。そのことを思えば明るい表情も出来ず、葵は複雑な気持ちで目を伏せた。
「そんな暗い顔をしなくても、世界に還るというのは悪いことじゃない。雨の精霊なんかはむしろ、それを望んでいたみたいだよ」
「……そう、だったんだ」
「それが、元精霊王がミヤジマの前に姿を現した理由か……」
元精霊王も雨の精霊のことを気にかけていた。それが元精霊王が人間の前に姿を現した『特別な理由』ということで、アルヴァは納得したようだった。
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