誰もいない教室で地図を眺めていると、そのうちに鐘の音が鳴り響いた。予鈴が鳴ってしばらくすると生徒達が登校してきて、それまで静まっていた校舎は次第に賑やかになってくる。二年A一組にもぼちぼち生徒が姿を現し始めたので、葵は不思議な感覚を抱きながらクラスメート達が登校してくる様を眺めていた。
(魔力が見えるとこんな感じなんだ……)
いつだったかアルヴァが『魔力は薄いベールのようなものが持ち主を覆っている』と表現していたが、葵の瞳に映る光景もまさにそんな感じだった。形状や色彩、大きさや純度などは十人十色。きれいだなと、葵は思った。
(……あれ?)
ふと、違和感を覚えた葵は扉に目を注ぐのをやめ、辺りを見回してみた。すでにけっこうな人数が教室の中に入って来ているのだが、その中には女子が一人もいない。男子だらけの教室で何となく落ち着かない気分になった葵は誰でもいいから女子が来て欲しいと思った。その願いは間もなく叶って、教室に一人の女子生徒が姿を現す。彼女の姿を認めるなり、葵は顔を輝かせた。
「クレア」
肩口にワニに似た魔法生物を乗せている少女の名は、クレア=ブルームフィールド。そして彼女のパートナーである魔法生物は名をマトという。葵が声をかけるとクレアもこちらに気がつき、笑みを浮かべながら歩み寄って来た。
「お嬢、久しぶりやなぁ」
「うん。元気だった?」
「もちろんや。お嬢はどうやったん?」
近くの空席に腰を落ち着けたクレアがさっそく旅行の感想を求めてきたので葵は苦笑いを浮かべた。
「色々、あった」
「なんや、その色々って? アルを襲ったりせーへんかったやろな?」
「襲ってないよ」
「なら、襲われたんか?」
クレアはからかい混じりに言っていたのだが、葵は『襲われた』という一言に思わず反応を示してしまった。頬を引きつらせた葵を見て、軽口を叩いていたクレアもサッと表情を変える。
「せやから、うちが出発前にちゃんと言うたやないか! 何が起こるか分からへんて!」
「ち、違っ……」
「アルはちゃんと責任とってくれるんやろな? 旅の記念に、なんてオチはなしやで?」
「だから、違うってば! アルとは何にもなかったよ!」
勢いで言ってしまってから何もなかったこともないことに気付いたが、そのことはスルーすることにした。この場はとにかくちゃんと説明をした方がいいと思って、葵は旅先で起こった出来事について簡略に説明を加える。フロンティエールという国での騒動を聞くと、クレアはあ然としてしまった。
「お、王子を惚れさすなんて、すごいやないか」
「惚れさせたっていうか、単に私が珍しかっただけだと思う。どこまで本気なんだか分からなかったし」
「いや、本気やろ。そうやなかったら結婚拒否されたくらいで幽閉したりせーへんわ」
「だけどさ、結婚だけして一緒に住むつもりはなかったんだよ? そんなのおかしいじゃん」
「せやなぁ。好きになった相手とは一緒にいたいわなぁ」
話の途中でふっと、クレアが視線を外した。その目はどこか遠くを見ていて、口調にも何だか含みがある。クレアのそういった様子を見るのは初めてのことで、怪訝に思った葵は眉をひそめた。
「クレア?」
「なんや?」
呼びかけに振り向いた時、クレアの様子はもう平素の通りに戻っていた。だが彼女の肩口にいるマトと目が合って、何となく納得した葵は「何でもない」と小さく首を振る。
「そうや、お嬢」
「うん?」
「うち、お嬢の家に引っ越すことになったんや」
「ええ!?」
「なんや、嫌なんか?」
「そうじゃないけど……何でまた」
葵が驚きを表情に残しながら問うと、クレアは「住むところがなくなったから」だと理由を述べた。
葵とクレアは以前、ワケアリ荘というアパートで共に暮らしていた。そのアパートはユアン=S=フロックハートという少年が作った
「今度はメイドとしてやないで? 同居人なんやから、家事は分担や」
クレアはもうすっかり引っ越して来る気になっているようで、そんな取り決めまでも口にし始めた。そのルールが集団生活をしていたアパートでの暮らしを思い起こさせて、気持ちが緩んだ葵は笑みを零す。クレアがメイドとしてやって来た時はどうしても埋められない溝があったが、同居人としての共同生活ならば楽しそうだ。
「分かった。マトも、よろしくね」
呼びかけに応えるかのようにマトが身を乗り出してきたので、葵は一応クレアに確認をとってから彼の頭を撫でた。マトは人語を話したりすることはないが、スキンシップによって意思の疎通を図ることは出来る。触れた指先からマトが喜んでくれているのが伝わってきて、暖かい気持ちになった葵は柔らかな笑みを浮かべた。
クレアと雑談しているうちに本鈴が鳴り響き、老齢の担任教師が教室に入ってきた。けっきょく女子生徒で登校してきているのは葵とクレアだけだったが、担任教師は特に何かを問うわけでもなく授業を開始する。女子生徒ばかりがいないということは、どうせマジスター絡みだろう。そう思った葵は男だらけの眺めを気にすることをやめ、前方のブラックボードへと視線を転じた。
授業開始を告げる本鈴が生徒達に届けられると間もなく、どんよりとした曇り空から雪が降り始めた。この時期らしく大粒の雪は、先に降り積もっていたクッションの上に次々と落ちては消えていく。そんな悪天候の中でも、アステルダム分校の正門付近には人だかりができていた。それを形成しているのは女子生徒ばかりで、彼女達は一様に魔法陣の傍にいる少年達を見つめている。彼女達に熱い視線を注がれている三人の少年はこの学園のエリート集団、マジスターだ。
「来ねぇ!」
不意に苛立った声を上げたのは、漆黒の髪に同色の瞳といった世界でも珍しい容貌をしている少年。切れ長の目が見る者にクールな印象を与える彼の名は、キリル=エクランドという。キリルは、予鈴が届けられる前からこの場所である生徒が登校してくるのを待っていた。しかしいつまで経っても、その生徒が姿を現さないので待ちくたびれているのである。
「今日は来ないのかもな」
キリルの怒声に応えるようにポツリと独白を零したのは、長い茶髪を無造作に束ねている少年。スポーツマンタイプのがっちりした体躯をしている彼の名はオリヴァー=バベッジという。独白を聞きつけたキリルに鋭い視線を向けられたため、雪のない乾いた地べたに座り込んでいるオリヴァーは苦笑いを浮かべた。
「睨むなよ」
「睨みたくもなるんじゃない? 一ヶ月も待たされれば誰だってイライラするよ」
意外なところからキリルの態度を擁護する発言が飛んできたので、オリヴァーは赤髪の少年を仰いだ。おそろしく女顔をしている彼は名をウィル=ヴィンスという。
「お前がそんなこと言うなんて、なんか意外だ」
「僕には恋焦がれる男の気持ちなんて理解出来ないってこと?」
「いや、そういう意味じゃ……」
「誰が誰に恋焦がれてるって!? いーかげんなことぬかしてんじゃねぇぞ!!」
「誰もキルのことだなんて言ってないよ」
ものすごい剣幕で会話に割り込んできたキリルに、ウィルは至って冷静な屁理屈を返している。ウィルの発言は明らかにキリルのことを指していたが、彼にサラッと流されてしまったキリルは頭頂から湯気を噴き出して真っ赤になった。比喩ではなく、実際にキリルの頭から湯気が立ち上っているのは、降りしきる雪が彼に触れることで蒸気になってしまっているからだ。その熱はキリルが興奮すればするほど、温度を上げていく。
「てめぇ、ウィル! オレをハメやがったな!?」
「ハメてなんてないよ。キルが勝手に白状したんじゃない」
「うるせぇ!!」
キリルの揚げ足を取ってからかうウィルと、扇動されて馬鹿正直に怒るキリル。少し遠巻きにこちらを見ている女子生徒達からは「微笑ましい」と言わんばかりの声が聞こえてくる。休暇前と何も変わらぬ光景に、オリヴァーは呆れながら二人の仲裁に入った。
「それを確かめるためにここで待ってんだろ? まだ分からないことで騒ぐなよ」
「オレはぜってー惚れてねぇ!!」
一ヶ月前と変わらぬ主張を繰り返し、キリルはツンとそっぽを向いた。いったん引こうと提案しても彼が頑なに居座りを続けるので、オリヴァーは嘆息する。
「アオイは転移魔法が使えないんだから、もしかしたら別のところから学園に来たかもしれないだろ? 一度、教室に行ってみようぜ」
オリヴァーがそう提案するとキリルは瞬きを繰り返し、ウィルはポンと手を打った。
「そういえば、アオイは魔法を使えないんだったね。気付いてたんならもっと早く言いなよ」
そもそも、こうして魔法陣の前で待っているのは転移魔法によって登校してきたところを捕まえるためである。しかし待ち伏せをしている相手がどこからやって来るのか分からないのであれば、最初から教室で待っていた方が合理的だ。ウィルのそうした意見を聞いて、オリヴァーもその方が良かったのだと納得した。頷いているオリヴァーを見てウィルは呆れた表情をしている。
「オリヴァーも変なところで抜けてるよね」
オリヴァーとウィルがそんな会話をしているうちに、それまで仁王立ちから動こうとしなかったキリルが踵を返す。彼が競歩並みの速度で歩き始めたので、会話を中断したオリヴァーとウィルも急いでその後を追いかけた。
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