「ここ、どこ?」
葵とクレアが出現した場所は、どこかのお屋敷の一角だった。赤い
「フロックハート家が所有する別邸の一つや。まだ朝も早いんやから、静かにな」
キョロキョロしている葵に注意を促すと、クレアは異様に長い廊下を歩き始めた。後に続きながら、葵は密かにクレアを観察する。クレアはユアン=S=フロックハートという少年に雇われている私用人だ。しかしメイド服を身につけていないので、この屋敷に来た目的は仕事のためではないのだろう。逆に仕事のために来たのであれば、葵を同伴する理由が分からない。
わけが分からないままに後を着いて行くと、やがて進行方向に見知った人物の姿を発見した。ショートヘアの金髪にブルーの瞳。そして理知的な面立ちを際立たせる縁のないメガネが印象的な女性は、名をレイチェル=アロースミスという。体にフィットするスタンダードなスーツ風の出で立ちをしている彼女自身は非常に女性らしいのだが、長かった髪がショートヘアになっていることもあって、その顔立ちは弟のアルヴァによく似て見えた。
「レイ」
「おはようございます」
「あ、おはよ」
事情を説明してくれるのかと思いきや返ってきたのが朝のあいさつだったので、葵も反射的にあいさつを返す。レイチェルはその後、クレアに視線を移して「ご苦労様です」と何かを労った。それから改めて、レイチェルは葵を見る。
「アオイにお願いがあります」
「えっ、何?」
「ユアン様にアーリーモーニングティーをお出ししていただけませんか?」
レイチェルから初めての『お願い』をされた葵はどんな難題かと身構えていたのだが、その内容は呆れるほど簡単なものだった。拍子抜けしたこともあって反応を返せないでいる葵に、今度はクレアが話しかけてくる。
「手順はわたくしが説明しますので、厨房へ行きましょう。レイチェル様、後はお任せ下さい」
すでに何らかの取り決めが成されているようで、クレアに頷いて見せるとレイチェルはその場から立ち去った。レイチェルと対面しても何一つ疑問が解決しないまま、クレアに促された葵は再び廊下を歩き出す。無駄に広い厨房で『紅茶の美味しい淹れ方』についてのレクチャーを受けた葵はその後、何故か一人でユアンの寝室へと向かうことになったのだった。
(もしかして二人とも、昨日のこと知ってるのかな)
葵は昨日、ユアンをひどく傷つけた。傷つけるつもりはなかったのだが、結果として葵の一言が彼の顔を悲しみに歪ませてしまったのだ。次に会った時にでも謝ればいいとアルヴァは呑気なことを言っていたが、やはり謝罪をするのなら早い方がいい。クレアとレイチェルはきっと、その機会を作ってくれたのだろう。
ノックは必要ないとクレアに言われていたので、葵はユアンが寝室としているのだという部屋の扉を静かに開けた。窓にはまだカーテンが引かれていたので、ワゴンから手を離した葵は窓辺へと寄る。カーテンを開けてみると陽光こそ望めなかったが、室内が幾分明るくなった。しかし光を取り込んでみても、天蓋つきのベッドに動きはない。ベッドの覆いを退けてみると、ユアンは丸まって寝入っていた。
「ユアン、起きて」
肩口を揺さぶると、ユアンは小さく呻き声を発してから瞼を持ち上げた。寝ぼけた様子で葵を捉えた紫色の瞳は、徐々に落ちてきた瞼に再び隠されてしまう。そのまま二度寝してしまうかと思われたのだが、ユアンはすぐに目を見開く勢いで瞼を持ち上げた。葵の姿を瞳に映すと、彼は慌てた様子で上体を起こす。
「アオイ!?」
「あ、起きた? おはよ」
「何でここに……」
ユアンが言葉を紡ぎきる前に、ベッドへと身を乗り出した葵は彼の華奢な体を抱きしめた。葵の腕の中にもすっぽりと納まってしまう、小さな体。子供のくせに子供ぶらなければならない彼にひどい言葉を投げつけてしまったことが、胸を軋ませた。
「昨日は、ごめんね」
謝罪の言葉を口にしてみても、ユアンからの返事はなかった。その代わりに、肩口に暖かな雫が落ちてきたのを感じる。彼が泣いてしまったのだと分かると罪悪感よりも愛おしさがこみ上げてきて、葵は腕の力を強めた。
「ずるいよ、アオイ。こんな、寝起きでわけ分からない時を狙うなんて」
不意打ちだと、涙声のユアンが文句を言う。いつものナマイキな調子に、葵は笑ってしまった。
「それを仕組んだのは私じゃないもん。許して、くれる?」
「うん。だから、ちょっとあっちで待ってて」
せめて身支度くらい整えさせて欲しいとユアンが言うので、体を離した葵は素直に従った。葵がベッドを下りると、ユアンはすぐに天蓋でベッドを覆いなおし、もそもそと動き出す。この間にモーニングティーを淹れようと思った葵は放置されていたワゴンへと向かった。
しばらくすると、きちっと身なりを整えたユアンがベッドから出て来た。なにやら魔法を連発していたので、着替えもヘアーセットも全ては天蓋の中で済んだらしい。座ってと言われたので、すでに紅茶の準備を終えていた葵は椅子に腰を落ち着けた。すると頬に口唇が降ってきたので、驚いた葵は目を見開く。目が合うと、ユアンはイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「驚かせてくれたお返しと、仲直りのしるし。アオイもしてよ」
「ん」
ユアンが自ら差し出してきた頬に、葵は軽く口づけをした。エヘヘとはにかんでいるユアンの顔は、年相応の子供のように思える。子供でいられるうちは子供でいればいいと言っていたアルヴァは、実はユアンを子供でいさせてあげたいと思っているのではないだろうか。そう思った葵は何となく、アルヴァの気持ちが分かったような気になった。
「それにしても、驚いたよ。やだなぁ。レイ以外の人の前で泣くことなんて滅多にないのに」
珍しく照れているのか、葵の向かいの席に腰を落ち着けたユアンは饒舌気味に自分のことを語る。レイチェルの前でしか泣かないということが、葵にとってはかなり意外だった。
「レイの前では泣くんだ?」
「だってレイ、スパルタなんだもん。子供の頃から何度泣かされたか分からないよ」
「へ、へぇ……」
意外なような、ものすごくしっくりくるような。葵がそんなことを考えていると、噂の主が姿を現した。それまで優雅な仕種で紅茶を口に運んでいたユアンが急に慌て出したので、葵は思わず笑ってしまう。
「レイ……今の、聞いてた?」
「わたくしの悪口でも言っていたのですか?」
「言ってない! 言ってないよね、アオイ?」
ユアンに助けを求められたので、葵は笑いながらレイチェルに頷いて見せた。レイチェルは無表情のままなので、信じたのかどうかは分からない。だがそれ以上言及しようとはせず、レイチェルは葵に顔を傾けてきた。
「クレアが外で待っています」
「あ、うん」
レイチェルは多くを語らなかったがきっと、ユアンも彼女も多忙なのだ。それなのに謝罪をする時間を作ってくれたレイチェルに一礼し、葵はユアンの寝室を後にした。扉の脇でクレアが待っていたので、彼女と共に長い廊下を歩き出す。
「クレア、ありがとね」
「うちはレイチェル様に言われた通りのことをしただけや。礼やったら時間を作ってくれたレイチェル様と、そうするよう口添えしてくれたアルに言うんやな」
「アル? 口添えって、何のこと?」
「なんや、レイチェル様から聞かなかったんか。アオイとユアン様がケンカしおったから、二人が会う機会を作ってあげてほしい言うて、レイチェル様に頼み込んだみたいやで?」
実際にはケンカではなかったのだが、直接会って謝罪をしたいと思っていたのは事実だ。それをアルヴァが取り成してくれたということに、葵は驚きを隠せなかった。アルヴァがこんなにも好意的に動いてくれたのは、たぶん初めてではないだろうか。
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