「ハル! こんな所にいたのか!」
壁面に丸く開いている穴から姿を現したのは、長い茶髪を一つに束ねている少年だった。がっちりとしたスポーツマンタイプの体躯をしている少年の名はオリヴァー=バベッジといい、彼はアステルダム分校のマジスターの一人である。頼れる存在の登場にホッとした葵は、同時にオリヴァーの発言に眉をひそめた。
(やっぱりハル、なんだ……)
オリヴァーとハルは長い付き合いらしいので、彼が友人を間違えることはないだろう。ということは、やはり目の前にいる少年は本校に行ってしまったはずのハル=ヒューイットなのだ。しかしその中身が、あまりにも葵の記憶と異なっている。
「あれ? アオイも一緒だったのか」
「……オリヴァーぁ」
様々な感情がごった煮になっている葵が情けない声を出すと、オリヴァーはギョッとしたように目を剥いた。それから彼は、何故かハルに鋭い視線を向ける。
「ハル! お前もしかして、アオイに何かしたのか!?」
問い詰められたハルが堂々と「何もしてないよ」と嘘をついたことよりも、葵はオリヴァーの過剰な反応にギョッとしていた。本当に何もされていないかと問われた葵が呆けながら頷くと、オリヴァーは面から険しさを取り除いてハルを振り返る。
「ハル、学園ではやめろよな。アオイにちょっかい出すとキルに焼きコロされるぜ?」
「へぇ。あんた、あのキルをオトしたんだ? やるね」
ハルから感心したという顔を向けられて、葵は複雑な気分になった。何も反応を返さずにいると、オリヴァーが再びハルに話しかける。
「キルとウィルにまだ会ってないんだろ?
「じゃあ、また」
話しかけてきたオリヴァーにではなく葵に言い置き、ハルはその場から姿を消した。去り際に見せ付けられた意味ありげなウインクが強烈で、爆弾を投下された気分の葵は壁に手を突くことで崩れ落ちそうな自分を支える。そんな葵の姿を見て、オリヴァーが複雑そうな表情で声をかけてきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない! ハルはどうしちゃったの!?」
当事者がいなくなったので、葵は何か事情を知っていそうなオリヴァーに噛み付いた。しかしオリヴァーも全てを把握しているわけではないらしく、曖昧な苦笑を浮かべる。
「変、だよな?」
「変なんてもんじゃないよ! ほとんど別人じゃん!」
「まあまあ、落ち着けって」
オリヴァーが宥めるように肩を叩いてきたが、それしきのことでは葵の興奮は収まらなかった。それほどまでに、ハルが変なのだ。
「ステラは? 一緒じゃないの?」
「それが、一人で戻って来たみたいなんだよな。ステラのことは訊いてもはぐらかされるから、言いたくないんだろ」
「ステラと何かあったってこと?」
「さあなぁ。俺には分からない。ただ、一つだけ言えることがある。今のハルは普通じゃない。だから、近付かない方がいいぜ?」
キズモノにされかねないなどとオリヴァーが真顔で言うので、葵はあ然としてしまった。オリヴァーが何を思ってそんなことを言ったのかは分からないが、ハルの性格を考えるに、進んで人を傷つけることなど有り得ないはずなのだ。それは旧知の間柄であるオリヴァーが、誰よりもよく分かっている。その彼をしてそんなことを言わしめたハルの異常さに、葵は改めてショックを受けた。
シエル・ガーデンに行かなければならないというオリヴァーと別れた後、葵はフラフラと教室に戻った。瞼の裏ではまだハルの言動がフラッシュバックしていて、他のことが目にも耳にも入らない。我に返ったのは、誰かに体を揺さぶられたからだった。焦点を眼前に合わせてみると、そこにクレアの顔がある。
「あれ? クレア?」
「あれ、やない! 何があったんや?」
「え?」
「まだ呆けとるんか? 一発くらいどつかなあかんか?」
クレアが握った拳に息を吐く仕種を見せたので、葵は慌てて首を振った。ただでさえ頭が沸騰しそうなのに、これ以上脳細胞を殺されてはたまらない。
「ごめん、ボーッとしてた」
「まったく、どうかしとるで」
「ミヤジマ、体の調子が悪いのなら余が看病してやる。今日はもう帰るぞ」
ジノクまでもが真顔で心配するので、渇いた笑みを浮かべた葵は大丈夫だと連呼した。
(ハルのことはもう何とも思ってないはずなんだから。これくらいのことで動揺してどうするのよ)
そう自分に言い聞かせた葵は小さく首を振り、表情を改めることにした。しかし葵が笑みを作る前に、どこからともなく悲鳴のような声が聞こえてくる。突然の絶叫に驚いたクレアとジノクが揃って顔を傾けたので、葵も嫌な予感を覚えながら廊下の方へと視線を転じた。
「この絹を裂くような女の叫び……またマジスターが何かやらかしたんか?」
より正確に言えば、マジスターが特別な何かをしなくても、この学園の女子生徒達は彼らがそこにいるというだけで騒ぎ立てる。しかし今日の嬌声は一段と大きい。それはおそらくハルが学園に帰って来て、久しぶりにアイドル四人組が復活したからだろう。葵のそうした読みは、女子生徒の群れを従えたマジスターが二年A一組に顔を出したことにより的中であることが知らされた。
「ちょっと!」
マジスターが四人全員でやって来たことに矛盾を感じた葵はオリヴァーの腕を引き、教室の隅へと連れて行った。廊下からマジスターの一挙一動を監視するように凝視している女子生徒と、教室内にいるクレアやジノク達にも背を向けた葵は小声でオリヴァーに話しかける。
「さっき近寄るなとか言ってたくせに何でこんなことするの?」
「いや、それは……」
「引っ付いてんじゃねぇ!! 離れろ!」
葵はオリヴァーとだけ密談したかったのだが、それは黒髪の少年によって阻まれてしまった。剣呑な雰囲気を有する彼の名は、キリル=エクランド。キリルに睨まれてしまってはオリヴァーに近寄ることさえ出来ないため、密談を諦めた葵はクレア達の傍へと戻った。
「今日は知らん顔がおるなぁ」
ハルに目を留めたクレアが言外に紹介を求めると、それはハル本人ではなくウィルが代弁した。見慣れぬ少年の名がハル=ヒューイットであると聞き、ジノクの頬がピクリと動く。
「ハル、こちらはジノク王子。あのフロンティエールの王族だよ」
ウィルの紹介が自分に及ぶと、席を立ったジノクは唐突に葵を背後から抱きしめた。これには葵とキリルから抗議の声が上がったが、ジノクの挑戦的な瞳はハルにだけ向けられている。その視線が持つ意味にすぐ気がついたようで、ハルも表情を改めてジノクを見据えた。
「てめぇ!! いい加減に……」
「キル、俺が売られたケンカだ」
拳を振り上げかけたキリルを止めたのはハルの一言だった。あ然としたのはキリルだけでなく、オリヴァーやウィルもハルの物言いにポカンと口を開けている。葵も開いた口が塞がらなかった。
「そのブレスレット」
ハルが不意にブレスレットのことに触れたため、我に返った葵は心臓を跳ねさせた。ハルからもらったこのブレスレットを着けて来たことに深い意味などなかったはずなのだが、それがいつの間にか意味深長なものになってしまっている。あまりのタイミングの悪さに葵が自分を呪いたくなっていると、ハルは淡々と言葉を続けた。
「俺がプレゼントしたものを、まだ身に着けてくれてるなんて光栄だね」
「そうなのか!?」
ハルの揺さぶりに、過去の彼らを知らないジノクは簡単に動揺してしまった。抱きしめの刑から解放されたと思いきや泣きそうな表情でジノクに迫られ、次第に腹立たしくなってきた葵は力任せに拘束から抜け出す。
「変な言い方しないで! 大体これ、
「なんだ、知ってたんだ?」
葵の怒りに応じたのはハルではなく、ウィルだった。想定外のところから反応が返ってきたことに葵は呆気にとられたが、やがてブレスレットがただのプレゼントではなかったことを察して怒りのボルテージを上げていく。しかし葵の怒りが噴出する前に、またしても意外なところから横槍が入った。
「……カッコええ」
異様な騒ぎの渦中にあっても、ポツリと零されたその一言は何故か響いた。騒音の隙間をすり抜けた呟きを発したのはクレアで、彼女を振り返った葵はその瞳が輝いていたことにギョッとする。何がキッカケでそうなったのかはまったくもって不明だが、恋する乙女の表情になっているクレアは熱い視線をハルに送っていた。
「うち、おたくのこと好きになってしもうた。付き合ってくれへん?」
「いいよ。あんた、胸でかいし」
ハルがあっさりとクレアの告白を受け入れたこともさることながら、その理由に、葵は吐血しそうになった。しかしクレアにとっては褒め言葉だったようで、彼女はハルの前でクネクネと身を捩っている。
「うち、体には自信あるんや」
「へぇ。いいね、それ」
ハルがクレアの腰を抱くと、廊下で鈴生りになっている女子生徒達からけたたましい悲鳴が上がった。だが二人きりの世界に突入しているクレアとハルはギャラリーには構わず、これまた突然のキスを交わしている。ここまで訳が分からないともはや笑うしかなく、女子生徒の絶叫がこだまする教室内で葵は頬を引きつらせていた。
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