雲が晴れた夜空に二つの月が上っていた。白銀の月明かりは降り積もった雪をきらめかせ、夜会が行われている館を冷たい光で照らしている。大広間では着飾った貴族の男女がダンスや会話を楽しんでいたが、凍てつく
「こういうことになるんじゃないかと思った。着いて来て正解だったよ」
「ほう。では君は、
アルヴァの苦々しい口調とは対照的に、この再会を面白がっているのは端整な顔立ちをした燕尾服の青年。明るいブラウンの髪に鮮やかなミッドナイトブルーの瞳を持つ彼はトリニスタン魔法学園アステルダム分校の若き理事長、ロバート=エーメリーだ。
ロバートは過去の悪行から、不幸な少女こと宮島葵に毛虫のように嫌われている。しかし彼自身はそのようなことを気にしない
「そのような仮面で素顔を覆い隠してまで、健気なことだな。私の知るアルヴァ=アロースミスという男は青い果実になど興味がなかったはずなのだが、この短期間に宗旨替えをしたのか?」
そう考えなければアルヴァが夜会になど来るはずがないと、ロバートはいやらしい笑みを浮かべながら言う。彼がこういった態度をとってくることは予想していたものの、改めてロバートと接する面倒さを感じたアルヴァは小さく首を振った。
「僕が宗旨替え、か。長年の友人同士というものは思考が似ているね。彼も同じようなことを言っていたよ」
「ああ、彼か」
ロバートにはすぐ、アルヴァが誰のことを言っているのか分かったようだった。それは即ち、アルヴァの考えをロバートが肯定したということにもなる。やはりそうかと思ったアルヴァはもう一度、深いため息をついた。
「君まで僕を引きずり出そうと画策しているのか」
「そうだな。もし私がハーヴェイと同じ考えならば、今この場で魔力の囲いを解いているだろう。そして
アルヴァとロバートは今、アルヴァが発した魔力によって周囲から隔離された状態にある。この囲いがあるからこそ、アルヴァは素の口調でロバートと会話しているのだ。それを取り除き、さらには公衆の面前で素性を明らかにされるのは、アルヴァにとって非常に都合が悪い。アルヴァを表舞台に立たせようとしているハーヴェイ=エクランドならばロバートが言ったようなことも簡単にやってのけただろうが、ロバートは少し違う。ハーヴェイと同じことを考えていたとしても実行には移さない。それがロバートとハーヴェイの差だった。
「誰が親友だ」
アルヴァが吐き捨てるように否定して見せても、ロバートは余裕の笑みを浮かべたまま話を続ける。
「君がどう思おうと、私たちは親友だったよ。少なくとも、君がトリニスタン魔法学園を去るまではね」
「一部に不本意なところもあるが、その解釈で手を打とう。そのまま過去形にしておいてくれ」
「私の話を聞いても、まだそんなことを言っていられるかな」
ロバートが不意に意味ありげなことを言い出したので、アルヴァは眉宇に不可解さを滲ませた。何か取引でも持ちかけられるのではと身構えたアルヴァの予想に反し、ロバートは真顔に戻って言葉を重ねる。
「王室が召喚魔法の形跡を掴んだという噂がある。
ロバートがもたらした情報にギクリとしたアルヴァは、しばらく言葉を発することが出来なかった。もしその噂が本当なら、覚悟しておかなければならないことがある。無意識のうちに止めていた息を吐き切ってしまうと、アルヴァはロバートを見やった。
「情報提供には感謝する」
「どうだ? 私は君の親友だろう?」
「……分かったよ。もう、それでいい」
アルヴァの口調はいかにも投げやりといった感じのものだったのだが、ロバートはそれでも嬉しそうに破顔した。彼のそんな笑顔を見たのは久しぶりのことで、しばし学生時代に帰ったような気になったアルヴァは小さく肩を竦める。
「時に、アル。ミヤジマ=アオイはまだ
「もう君と話すことはない。息抜きの邪魔をして悪かったね」
臭いものにはフタをしてしまおうと、アルヴァは自分達の周囲を覆っている魔力を体に戻そうとした。しかし行動を起こそうとした刹那、眼前を人がよぎって行く。なんともタイミングが悪いことに、誰かがテラスへと出て来たのだ。さらに運の悪いことに、ワインレッドのイブニングドレスを纏っている少女は話題の主だった。
(……タイミングが最悪だ)
ミヤジマ=アオイという少女は間が悪いのかもしれない。アルヴァがそんなことを思いながら頭を抱えると、ロバートが案の定、タチの悪い軽口を続けてきた。
「ほう。なかなかの色気ではないか。私はもっと清冽な方が好みなのだが、これはこれでいいものだな」
ドレスやメイク、アップスタイルにしている黒髪もエキゾチックでいいなどとロバートが葵を褒めちぎるので、そのコーディネートを施したアルヴァは複雑な気分になった。見られていることなど知らない葵は物憂げな表情で月を仰いでいる。その後を追って来たのかジノクまでもがテラスに姿を現したため、アルヴァとロバートは動くに動けないといった状態のまま、その後の展開を覗き見することになってしまった。
賑やかな大広間を離れてテラスへ出ると、夜空に月が昇っていた。この世界ではいつも、月は強烈な存在感でもって夜に浮かんでいる。白く輝く冷たい月は真昼の空に白く浮かんでいた故郷のそれと似ていて、葵は望郷の念に駆られながら空を仰いでいた。
(帰りたい、なぁ)
自分が在るべき世界へ戻れば、もう華やかな場所にいる自分に違和感を覚えたり、誰にも理解してもらえない疎外感を抱くこともないだろう。そんなことを考えながら故郷のことを思い出していると、懐かしい友人の顔が浮かんできた。
(あ、そういえば……
異世界にいる友人のことを思い出すと、なんだか無性に声が聞きたくなってしまった。このままふらりと夜会を抜け出して、電話をしに行こうか。そんな思い付きがたまらなく魅力的に感じられたのは、好んで夜会に参加したのではないからだ。つまらないとまでは言わないが、楽しくもない。
一人でぼんやりと考え事をしていると不意に、背後から温もりに包まれた。こういうことをしてくる人物は一人しかいないので、葵は身動ぎもせずに呆れた声を出す。
「ジノクでしょ?」
「顔を見ずとも分かってしまうとは、愛の力だな」
答えた声はやはり、ジノクのものだった。彼とは『過度でなければスキンシップを禁じない』という約束を取り交わしている。だが、このテラスでは『人目のある所でなければ禁止』という条件が満たされない。人気のない場所でのスキンシップが危険なことを心得ている葵はジノクの腕の中から抜け出そうとした。しかしジノクは、がっちりと肩を抱いて離してくれない。
「離してよ。人気がない所ではイヤだって言ったでしょ?」
「ビノが見ておる」
「はい、私が見ております! ご安心下さい」
ジノクの身内に張り切った声で任せろと言われ、何とも言えない気分になった葵は苦笑いを浮かべた。
(今日はアルも来てるし、大丈夫かな?)
テラスには他に人影がないが、すぐそこには大勢の人が集っている大広間がある。いくらジノクが前科持ちでも、こんな所で襲ってくるようなことはないだろう。そう思った葵は抵抗を諦め、他人の温もりに身を委ねる。葵が大人しくなったことで、ジノクもそのまま会話を続けた。
「ここは冷えるな」
「寒いなら中に戻ればいいじゃん」
「ミヤジマと話がしたかったのだ。あの小煩いキリルに邪魔をされぬ所でな」
ジノクの言い種だと、キリルが姑か何かのようだ。おかしくて少しだけ笑った後、葵は口調に軽さを残したまま話を元に戻した。
「何? 話って」
「ミヤジマに訊きたい。余は、フロンティエールにいた時と何も変わらぬか?」
「え……?」
思いのほか硬質な声で問いかけられ、即答することが出来なかった葵は目を瞬かせた。背後から抱きつかれているので、ジノクがどんな表情をしているのかは分からない。だが触れ合っている体が竦んだように感じられて、本当に真面目な話なのだと察した葵は真顔に戻った。
「そんなことは……ないんじゃないかな」
フロンティエールにいた頃のジノクは自意識過剰で自己中心的な『王子様』だったが、今の彼からはそういった悪印象を受けることはない。おそらくは国を出て見聞を広めたことが、彼にいい変化をもたらしたのだろう。彼が最も変わった点は他人の話を聞くようになったことであり、それを理解しようと努めるようになったことだと葵は思っていた。
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